第8話
ボクは結局、また家にいるよりも稼ぎに出ている時間のほうが多くなった。
家には居たくなかった。きっとまたマーは、ボクよりも新しい恋人を大事にするに違いない。
それでも、もしかしたら、ボクが今よりももっと多く稼いで帰れば、またボクだけを見てくれるかもしれない。
いつものホテル前に座りながら、ぼんやりとそんな事を考えていた。
「リュウ、どうしたの? 最近ずっとボーッとしてるよ」
シェリー姉さんが心配そうな顔をして覗き込んできた。
ボクは笑いながら顔を上げた。
「ううん、なんでもないよ。気にしないで……」
ぎこちない表情だったかもしれないが、それが今のボクにできる精一杯のつくり笑顔だった。
その時――。
しゃがんだシェリー姉さんの顔の後ろに数本の脚が見えた。
「お前がシェリーだな?」
ボクの頭の上から、低い声が覆った。見上げると、身体の大きな男たち数人が、ニタニタとしながらボクたちを見下ろしていた。
「そうだけど……」
シェリー姉さんは不安そうな声で答えながらもゆっくりと立ち上がった。
「ついてきな」
男のうちの一人が、いきなりそう言って乱暴にシェリー姉さんの腕を掴んだ。
「い、いや、離してよ!」
男の手を懸命に振り払おうとしているが、その手は全く離れそうになかった。
「面倒くせぇな。ジタバタすんじゃねえよ! おめえの母ちゃんとも話はついてんだ!」
隣にいたスキンヘッドの男が怒声を上げた。
男はそれでも身をよじり、なおも逃れようとするシェリー姉さんの髪の毛を鷲掴みにした。
次の瞬間、スキンヘッドの男はなんの躊躇いも見せず、まるで野良犬を扱うように、姉さんのお腹あたりを蹴りあげた。
シェリー姉さんは腕をつかまれたまま、呻きもせずに倒れ込み、大量の吐しゃ物を地面に吐き出した。
ボクはその光景が怖くて声も上げられなかった。
それでも倒れ込んだシェリー姉さんをなおも蹴ろうと振り上げた脚が眼に映った時、勝手に身体が反応した。
(姉さんが! シェリー姉さんが死んでしまう)
夢中でスキンヘッドの脚にしがみついた。
「リュウ……」
シェリー姉さんは虚ろな瞳をボクに向けた。
「あん? なんだコイツ、ハポン(日本人)か?」
シェリー姉さんの腕を掴んでる男がギラギラとした目で見下ろしながら言った。
「ジャピーノだろ。ハポンの顔してるくせに惨めなもんだな」
スキンヘッドの男が、ボクを踏みつけたままそう吐き捨てた。
「助けて!」
仲間のうちの誰かが大声で叫んだ。
動きの止まったスキンヘッドの後ろに、いつもボクたちと同じホテルを利用している日本人らしい男が立っていた。
短髪で薄い色のついた眼鏡の奥にうっすらと覗く切れ長の目。
体格もスキンヘッドたちよりもさらに大きく感じた。
いつも遠目でしか見た事はなかったからよくわからなかったが、もしかすると彼は、よくマイケル爺さんが言ってたジャパニーズ・マフィアなのかもしれない。
ボクは一瞬だけ期待したが、すぐに彼がヒーローなどではないってことを知った。
「すまん」
彼は日本語らしい言葉を一言だけ残してすぐに走って逃げだしてしまった。
スキンヘッドたちは睨み合いが終わった途端に、高笑いしだした。
「なんだあの野郎。腰抜けが」
「しょせん日本の〈ヤクザ〉ってのも大したことねぇな」
スキンヘッドの後ろにいた下っ端らしい貧弱な体格をした男たちも口々に喚いた。
「おうよ、あいつら日本のマフィアは口ばっかりでな。前にも助っ人で日本のヤクザだって奴とトラブルになったが、やっぱし日本語で喚くばっかりでな。腕を切り落としてやったら、転げまわって泣き喚いてたぜ」
スキンヘッドはボクを見下ろしながら自慢げにそう語った。
ボクは恐怖でもう何も言うことなどできずに俯いた。
「おい、ハポン! このオンナは今夜から、おめえやさっきの奴とおんなじ顔をした日本人の豚どもの相手をするんだぜぇ。最初の相手はもしかしたら、おめえの父ちゃんかもしんねえな。せいぜい可愛がってもらえるようにお願いしとくんなぁ」
スキンヘッドが、ボクに顔を近づけて笑い飛ばした。
やはりそれでもボクは目を逸らして、ロザリオを握り締めるだけだった。
「リュウ、大丈夫。大丈夫だから心配しないで」
シェリー姉さんの声が頭の上で弱弱しく響いた。それでもボクは俯いたままで、顔さえ上げることもできなかった。
すぐ後ろの車道を走るクルマのクラクションに促され、ようやく顔を上げた時、シェリー姉さんはボクの視界から消えていた。
それからしばらくの間、ホテルに面した大通りの中央分離帯に植えられたヤシの木にもたれ掛って呆然としていた。
時折、同じ界隈に住む子供たちが駆け寄ってきて、口々にシェリー姉さんの話をしていたようだが、ボクの耳にはもうなんの言葉も入ってこなかった。
ただ交互に行き過ぎるクルマの排気音と、絶え間なく鳴り続けるクラクションだけが耳の奥に響いた。
(何もできなかった……声ひとつ上げることも)
自分自身に対する情けなさと、恥ずかしさ、もどかしさ、屈辱、やるせなさ……様々な感情がスコールのように、けたたましく降り注ぎ、渦巻いていった。
やがてそれらの入り混じった感情が、少しずつボクの身体と心を埋め尽くしてゆくように感じた。
どれくらいの時間、そうしていたのだろう。気が付くと、周りの仲間たちの姿はすっかり消えてホテルのライトアップされた淡いブルーとオレンジの光が、足元にまで流れてきていた。
ボクは両脇を走るロハス・ブルーバードにぼんやりと視線を移した。クルマの流れはすでに疎らになっており、時折クラクションの乾いた音だけが響いた。
不意に絶望感が暗闇とともに押し寄せてくるような感じを受けた。こんな奇妙な気分になるのは初めてだった。
義父にぶん殴られた時も、脚がないのを馬鹿にされた時も、マーが新しい恋人を連れ込んだ時にだってこんな気分にはならなかった。
ボクはいつだって、どんな時でも、どこかで神様が――マリア様がきっとボクを見ていてくれている。
いつの日か、じっと我慢さえしていれば、きっといつの日か手を差し伸べて救ってくださるに違いない。そう固く信じて今日まで生きてきた。
でもなぜか、今日のボクにはその僅かな光さえも感じることができずに、もう何も見えなくなってしまった。
――もういいじゃないか。もう、どうにもならないんだよ。
そう頭の中に声が響いた。
もう一人のボクの囁く声が、繰り返し繰り返し教会の鐘のように打ち鳴らされていった。
ボクはゆっくりヤシの木をよじ登りるように立ち上がった。
(もういい。死のう……。自殺したら地獄行きだって、誰かが言ってたっけ。それでもいいよ。ここにいるより地獄のほうが、ずっとずっとマシだ)
ボクは自分のす横を通り過ぎるクルマを見つめた。
道にはもう渋滞などなく、どのクルマもかなりのスピードで走っていた。
(これなら、絶対に死ねる。痛いのなんて一瞬だ。上手くいけば、痛いのだって感じる間もないかもしれない……。そうだ、どうせなら高級なクルマがいいな。もしも金持ちだったら、マーにお金を渡してくれるかもしれない)
行き交うクルマをじっと見定めた。不思議と緊張はしなかった。
それよりも解放されるかもしれないという期待感のほうが恐怖を上回っていた。
深く息を吸ってからロザリオをしっかりと握りしめ、一番内側を走ってくるクルマを見つめた。
――きた、ライトの位置が高い。金持ちのSUV車に違いない。行くぞ!
ボクはヤシの木に置いた手に力を込め、強く押した。
反動で身体が車道に倒れ込んだ。
照り付けるヘッドライトの閃光が、ボクの身体を覆い尽くすように広がった。
遅れて耳の奥に突き刺さるブレーキ音。
ボクは歯を食いしばり両目を固く閉じた。
――マリア様!
次の瞬間――左肩あたりが引っ張られ、一瞬身体が浮き上がる感じがした。
咄嗟に目を開けたボクの瞳にはヤシの幹が飛び込んできた。
ゆっくりと幹が迫ってくるように見えた。すべてがスローモーションのように感じられた。
「がっ!」
右肩あたりに衝撃が走った。思わず声をあげる。
痛い。肩が熱い。
アスファルトの熱を背中に感じながらうっすらと片目を開けた。目の前に大きなタイヤが迫っていた。
ゴムの焼けた匂いと共に、人の脚が出てきた。
「こらあ! 何しとるんじゃあ!」
頭の上から、野太い怒鳴り声が聴こえた。
何を言っているのか解らない。何度も聞いた日本語のようにも聴こえたが、どこか違うようにも感じた。
(に、日本人……?)
必死に両目を開けようとしたが、うまくいかない。
なんとか瞼に力を入れようとしたが、やっぱり無理だった。次第に身体全体の力さえも抜けていくように感じられ、やがてゆっくりと黒い幕が降りてきた……。
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