第5話 領民と屋敷の人たち
領地の屋敷は、エリザベスが今まで暮らしてきた王都の邸宅ほど大きくはなかった。けれど、木造の温かみのある建物で、周囲の自然に溶け込むような佇まいをしている。森に囲まれ、小さな庭園もある。手入れされた庭には季節の花が咲いていた。素朴だけど、丁寧に世話されていることがわかる。
屋敷の前に、使用人たちが待ち構えていた。
彼らは少し緊張した面持ちで、お辞儀をしている。領地の管理を任されている年配の男性、料理を担当するらしい者たち、若い使用人たち。皆、貴族の令嬢が来ることに、不安と緊張を感じているようだった。それから、少し離れた場所には領民たちも控えている。様子をうかがっていた。
領民や使用人たちの多くは、エリザベスのことを詳しく知らなかった。過去に何度か、領主と一緒に訪れたことがある。その時に同行していたらしいという話は聞いていた。けれど、それは短い視察だけで、屋敷内に立ち寄ることもなかった。なので、実際にエリザベスと会ったことがある者はいない。
今回も、急に来ることが決まったという。詳しい事情もわからないまま、迎える準備を整えるだけで精一杯だった。どんな方なのか、想像することしかできなかった。
これからやってくる貴族の令嬢は厳しい方だろうか、平民である自分たちのことを見下すのではないか。そんな不安が、彼らの表情から読み取れた。
出迎えてくれた者たちを眺めながら、エリザベスはふんわりと微笑んだ。
「初めまして。エリザベス・ローズフェルと申します」
彼女の声は、穏やかで優しかった。威圧するような貴族特有の口調ではなく、親しみやすい話し方。
「これから、どうぞよろしくお願いいたします。皆様と一緒に、この美しい場所で過ごせることを、とても嬉しく思っています」
貴族の令嬢なのに、丁寧で親しみやすい雰囲気。一人一人に目を向けながら、心を込めて挨拶をする。その視線には、見下すような色は一切なかった。
エリザベスが使用人や領民たちに向けて挨拶した後、年配の男性が一歩前に出た。
「エリザベス様、領地の管理を任されております、マーティンと申します」
彼は緊張した面持ちで、丁寧にお辞儀をした。背筋を伸ばし、礼儀正しく頭を下げる姿には、この土地を守ってきた誇りが感じられた。
「これまで、領地のことでご不便がないよう努めてまいりました。これからも、ローズフェル家のお役に立てるように尽力することを約束いたします」
「ありがとう、マーティン。これから、どうぞよろしくお願いね」
エリザベスは笑顔で答えた。そして、これからのことについて頼む。
「わからないことも多いと思うから、色々と教えていただけると嬉しいわ。この土地のこと、領地のこと、興味があるの」
「はい、もちろんでございます」
マーティンの表情が、少し和らいだ。この令嬢様は、自分たちを大切に扱ってくれそうだ。そんな安心感が、彼の心に芽生えていた。
そんなやり取りを見ていた使用人や領民たちの表情も、少しずつ変わっていった。
最初の緊張が、徐々にほぐれていく。エリザベスの柔らかな雰囲気に触れて、彼らは安心したようだった。この方なら、一緒に暮らしていけそうだな。そんな安堵が、その場に広がっていった。
「優しそうな方で、良かった……」
使用人の誰かが、小さくそう呟くのが聞こえた。
やがて、領民たちの顔に笑顔が広がっていく。歓迎の雰囲気が、その場を包み込んでいった。硬かった表情が和らぎ、温かな空気が流れ始めた。
エリザベスは、マーティンの案内で屋敷の中へと入った。バルタザールも後に続く。
廊下を進みながら、マーティンが屋敷の説明をしてくれる。どの部屋がどこにあるのか、使用人たちがどこで働いているのか。丁寧で、わかりやすい説明だった。
案内された部屋に入ると、エリザベスは窓に目を向けた。
そこから見える景色は、どこを切り取っても美しかった。森、山、湖。それらが、まるで額縁に収められた絵のように窓の向こうに広がっている。部屋に差し込む光も、王都とは違う柔らかさがある。優しく、温かく、心を癒すような光。
(ここが、今日から私が暮らす新しい部屋。うん、素敵)
そこにいるだけで、不思議と心が落ち着いた。
その日の夕食は、領地で採れた食材を使った素朴な料理だった。
食堂のテーブルに並べられたのは、新鮮な野菜のスープ、焼きたてのパン、地元の川で獲れた魚の料理。王都の華やかな料理とは違う、けれど温かみのある食事だった。素材の良さが、そのまま伝わってくる味。
料理を用意した使用人たちは、不安そうに様子を見ていた。貴族の令嬢に、こんな素朴な料理で満足してもらえるだろうか。もっと豪華なものを用意すべきだったのではないか。そんな心配が、彼らの表情に表れていた。
「美味しい」
一口食べて、エリザベスは素直にそう言った。素朴な料理だが、素材の良さが際立っていて、彼女の口に合っていた。その笑顔と言葉に、料理を用意した者たちの不安は消えていった。
「野菜の甘みも、お魚の旨みも、とてもよく感じられます。本当に美味しい」
心からの感謝の言葉に、料理を用意した者たちの表情が一気に明るくなった。誇らしさが顔に浮かぶ。
バルタザールも、少し離れた場所で穏やかに微笑んでいた。お嬢様の人柄が、ここでもまた人々の心を温めている。それが、何より嬉しかった。
夕食後、エリザベスは窓辺に立って、夕焼けに染まる景色を眺めていた。山々が、オレンジ色から徐々に暗く染まっていく。湖の水面には、夕暮れの最後の光が反射して、金色に輝いている。
(王都では、こんな景色は見られなかった)
婚約破棄という出来事がなければ、もしかしたら知らなかったままかもしれない。あれがあったからこそ、この場所に来ることができた。
それは、とても幸運なことだとエリザベスには思えた。
(これは、新しい始まり)
エリザベスの心は、希望に満ちていた。前向きな気持ちが、胸いっぱいに広がっていた。
(私はここで、何か出来そうな気がする。この美しい場所で、何か新しいことを)
きっと何か良いことが待っている。そんな予感がした。
いつか、友人たちにもこの景色を見せてあげたい。セレスティアも、リネットも、アドリアンも、他のみんなにも。きっとこの美しさに感動するだろうとエリザベスは思った。友人たちがここに来て、この空気を吸って、この景色を眺める姿を想像すると、自然と笑みがこぼれた。
「エリザベスお嬢様。そろそろ、お部屋にお戻りください。お体が冷えてしまいます」
「そうね」
バルタザールに言われて、部屋に戻る。優しく気遣ってくれるバルタザールの存在も変わらず、心強かった。
夜、ベッドに入ったエリザベスは、静かに目を閉じた。
窓から聞こえてくるのは、虫の音。風が木々を揺らす音。それは、王都の夜と違う、穏やかな音だった。
心地よい疲労感。旅の疲れが、じんわりと体に染み込んでいる。けれども、それは不快な疲れではなく、充実した一日の証だった。
明日からは、この土地のことをもっと知りたい。領民たちとお話をしたい。この美しい景色を、もっと眺めたい。
そんなことを考えているうちに、エリザベスは深い眠りに落ちていく。新しい土地での生活が、静かに始まった。
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