ミルクの匂いが消えるころ

灰谷 漸

「君のいない今日を、生きている」

君が生まれた日のことを思い出す。

ミルクの甘い匂いをさせながら、こっちのことなんてお構いなしに泣いていた君。

初めて抱っこしたときは、緊張したよ。

それでも、あの感動は今でも忘れられない。

本当に愛おしくて、一生大切にしようって、心から決意したんだ。


それなのに――僕の勝手な都合で、

自分本位な理由で、君から離れてしまった。


それなのに、毎日のように君のことを思い出しては、

何度も何度も、涙がこぼれるんだ。


周りからしたら、きっと訳が分からないよね。

自分で手放しておいて、今さら何を泣いているのかって。

都合のいい話だよ。

でも、心って、そんなに論理的じゃないんだ。

人の気持ちは、いつだって後から押し寄せてくるものなんだ。

幸せだった時間は、もう戻らないとわかっているのに、

それでも、何度も何度も思い出してしまうんだよ。


君が初めて笑った日。

僕の指をぎゅっと握った日。

寝返りをうった日、転んで泣いた日、名前を呼んでくれた日。

全部、心にこびりついて、取れない。

あの頃の君は、僕の全てだった。

でも、今の君を、僕は知らない。

どんなふうに笑って、どんな言葉を覚えて、

何が好きで、何を怖がっているのか。

もう何ひとつ、わからないんだ。


それが、何よりも怖いんだ。

君が僕を、もう思い出さなくなってしまう日が来るのが。

「パパ」って呼んでくれた声が、君の中で薄れていくのが。


ねえ、君は幸せかい?

僕がいない世界で、ちゃんと笑えてるかい?

僕が君に与えられなかった安定や愛情を、

誰かがちゃんと与えてくれているといい。

そう願っているよ、本気で。


でも、だからって、この胸の痛みが消えるわけじゃない。

夜が来るたび、

君の声が、あの頃の小さな体温が、夢に出てきては、

朝になると僕は、静かに枕を濡らしている。


君に会いたい。

でも会えない。

それが「大人の決断」だったとしても、

僕の心のどこかでは、

あの日の小さな君が、今も笑っているんだ。


僕は今日も、一人で「君の幸せ」を祈ってる。


ほんとうは、いまでも、

世界で一番、君を愛しているんだよ。


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ミルクの匂いが消えるころ 灰谷 漸 @hi-kunmath

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