徒然なる人に

@hsgww

友について



私には竹馬の友が指折りできる数でいる。

片手で十分、小粒ではあるが、その分ピリリと辛くて、甘くて、少ししょっぱい。


私は心の病を抱えている。

大学生時代にそれで見切りをつけられた友もいる。

「アイツは終わった」

そんなメッセージのやりとりをしている人がいれば、私の登録名を酷い名前にしている人もいた。


その当時は(今もだが)1日を呼吸し、吸って吐いて、飯を食って、寝て、で精一杯だった。

大学に通う、なんてことはとんでもなく負担で、憂鬱で、死にたくて仕方がなかった。

私を見限っていく、至極当然なことだ、とよく思った。

私は終わった人間だ、と。


私の住んでいたところは、地元愛が強い人たちで集まっていた。

大学を出ると同時に、各地方へ飛んでいった友人たちもいた。

当然、疎遠になった。

何年かに一度会う程度で、それで関係性が保てているというのは、ある意味では世渡り上手なのかもしれない。

いや、彼らの地元愛が故か。


それでも、いつまでも仲良くできる友はいた。

私が哀しみに暮れているとき、部屋のチャイムを鳴らし、「ラーメン食いに行こうぜ」と現れてくれた友人は、ヒーローであり、神様だった。

この陰鬱とした201号室にいる私に、手を差し伸べてくれる友人が、確かにいる。


孤独に苛まれる時もある。

周りの優しさが、息苦しい時もある。

それでも、ただ友の存在は大きい。


幸いなことに、幸いなことに私の周囲には私の居場所を担保してくれる友がいる。

どれだけ自己破壊を、自己崩壊したとしても、笑ってくれる無償の友が、有償ではあるがとことんまで話を聞いてくれる友もいる。


酒に飲まれていたとはいえ、テーブル越しに「頼むからこれ以上自分を傷つけないでくれ」と泣いて懇願する友がいる。


なんと幸せなことだろう。

ただ、なんと不幸せなことだろう。

友人たちの言葉が、呪いとなって私を現世に留めている。

旅立ちたいのは、変わらないのに。


そう思っていると、父方の祖母が他界した。

ピンピンとした背筋に、しゃんとした言葉遣い。

笑えない老衰ジョーク。

漫談でもやらせたら、老人ホームでは英雄となって褒め称えられただろう。

理知に富み、元教育者としての威厳は、最期の1分まで、保たれていた。

一人の人間として、老衰で、旅立った。

穏やかな終わりだった、と父は言っていたが、叔母に聞くと最期は少し苦しんだ様子だった。

心を癒す嘘、そんなものは、きっとない。

苦痛の中で、息子と娘に看取られたのだ。


手塚治虫氏の『火の鳥』や『ブラック・ジャック』を読んだことがあるだろうか。

もちろん『ブッダ』も読んでると尚良い。

手塚氏の死生観について、だが『死』ということに対して手塚氏は次の生命へのバトンタッチとしての一部として考えることが多いように思える。

命はリレーしていく。そんな感じにもなる。

祖母は息子と娘にバトンタッチして、見事なまでの大往生をしたのだ。


私が崇拝する、母親ほどの年齢の元同僚の女性がいる。

彼女の死生観もまた美しく、死も、食べるも、生きるも全てが一本道でできている。

という。


死にたくなった時に助けてくれ、というといつも欲しい言葉をくれる。

時には厳しい一言を、ピリリと辛い一言をくれる。

甘えてしまっているかもしれないが、それがどれだけ私の救いになっているかをきっと彼女は知らない。

私がドン底にいる時に掬ってくれたのは彼女だった。


献身的で、他人のために自己犠牲を厭わない。

前の職場の同僚ではあるが、親しい友としていてくれる。


友といるとき。そう、友といるとき。

どうしても弱音を吐いてしまう。

彼らは聞き慣れたもんで、はいはい、と流すこともあれば身を乗り出して、親身に相談してくれることもある。


そこの塩梅は友人たちとしても難しい駆け引きになるのだろう。

あまりに繰り広げてしまうと、彼らも苦しいし、私も苦しい。

だから流してくれることはとてもありがたいことだ。



「死」は唐突に訪れる。

涙を流してくれた友の、好きだったミュージシャンが首を括って死んだ。

SNSでの彼の死の直前の投稿は波紋を起こした。

追悼の意を表するコメントがあれば、何故自らの命を絶ったのか、と攻める声もあった。

自殺を肯定するわけではない。

ただ、漠然と否定するのは、少し違うような気がする。

あまりにも出来上がっている人というのは、完璧を追い求めるが故に、その重圧に押しつぶされてしまうこともある。

完璧な自分以外は許せない、そういうことはあってはならないだろう。


毎日死にたいと思っていた私も、今では少し死にたいと思うことは減った。

ただ、やはり根底には死にたいと思う、願う私は必ずいる。

その檻の中に入れられた私が、もしかしたら突然網を食い破って出てきてしまうかもしれない。

そんな恐怖に怯えながらいる。


友たちを苦しませてはいけない、とわかりきっている。

私の友人が、私のリストカットの痕をみて、叱責してくれたことがある。

当時は、申し訳なく思った。

また一人悲しませてしまった、とも思った。

ただ、そうするしかなかったのだ。

今では痕も小さくなり、一眼ではわからないが、よく目を凝らすと、やはりしたことがわかる。


「痛くないことにした 傷に 時々手を当てながら 一人で歌うよ」

BUMP OF CHICKEN、窓の中からの一節である。

消えない傷や消えない悲しみにフォーカスを当てるこのバンドは、私にとって杖の役割を果たしている。


朝早く…今日は4時だ。

起きて、起きてしまって(睡眠薬を飲んではいるのだがどうも効能が薄いのだ)つらつらと、これを書いているわけだが、徒然なるままに、思ったことを書いていこうと思う。

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