{絵梨奈}
気づけば、わたしはアスファルトの上を叩きつけるように走っていた。
ドス、ドス、ドスと、足音が、夜の静寂を切り裂いて響く。
肺が、焼け付くように痛い。
全身は、冷たい汗でべとついている。息が苦しい。酸素を求めて、喉がひくひくと音を立てる。
どこから、どのようにしてこの場所まで来たのか、の記憶がない。
ただ、わたしの背後に、気配がある。声が、耳の奥で、まだ粘つくように響いている。
憎悪に満ちた言葉が、わたしの内側を、じわじわと蝕んでゆく。
ふと、脳裏に今までのことが僅かに蘇る。
結奈が、後ろにたっていた。
確かに彼女はわたしがアルバムを見るのを後ろから見下ろしていた。
わたしが「あなたは沙貴?」と尋ねると、彼女はそうと言ったような気がした。その声が、今も脳裏に響いている。
その後にかけられた憎悪の言葉が忘れられない。わたしは悪くないはずだ。わたしは彼女を虐めていない。
わたしは見ていただけだ。
わたしは、恨まれる筋合いがない。
なぜ彼女はわたしを恨んでいるのだろうか。
全く理解出来なかった。
街灯の光が、アスファルトの上に、細長く、冷たい影を落としている。その影が、まるでわたしを嘲笑っているかのように、細く長く伸びる。
足元が、ぐらつく。
転びそうになるたびに、体が大きく揺れる。それでも、立ち止まることはできない。立ち止まれば、結奈の存在が、わたしを捕まえてしまう。
夜風が、わたしの頬を強く叩いた。ひんやりとした感覚が、全身を駆け巡る。その風が、この状況の全てを、凍り固まらせてゆくようだ。
わたしの心臓が、激しく、不規則に脈打っている。
ドンドンドン。
その音が、耳の奥で、まるで警鐘のように鳴り響いている。何が、どうなっているのか。分からない。全てが、混沌としている。
わたしは今、どこを、どう走っているのだろうか。道は、全く頭に入ってこない。ただ、漠然とした人混みの方向に、わたしの足は、勝手に進んでゆく。行き先はどこにすれば良いのだろう。家に帰るのも恐ろしい。だが、この場所やこの状況からは、逃げ出したい。
足は止まらずまだ走っていた。
遠くから、車のライトが、チカチカと点滅しているのが見える。その光が、一瞬、わたしの視界を焼く。そして、すぐに、闇の中に消えてゆく。その光の動きが、今のわたしの心を、そのまま表しているように感じられる。
街の音が、遠くでざわめいている。
パトカーのサイレンの音や、工事現場の鈍い音など、日常の生活音が、わたしの耳には、まる追い詰めているかのように聞こえる。
息が、さらに苦しくなる。肺が、限界に近づき、横腹が、キリキリと痛み始めた。このまま走り続ければ、倒れてしまう。そう分かっているのに、足は止まらない。止めることができない。
あの場所から、逃げ出さなければならない。
結奈の声から、逃げ出さなければ行けない。
その一心だけが、わたしの全身を、無理やり突き動かしている。
路地裏に、体が吸い込まれるように飛び込んだ。
細い道だ。
両側を、建物の壁が、高くそびえ立っている。両端の壁が、まるで、わたしを閉じ込めるように、暗闇の中で迫ってくる。
足元が、悪い。マンホールの蓋が、ガタッと音を立てた。その音に、わたしの心臓が、大きく跳ねる。後ろから、何かの気配がする。気のせいだろうか。
分からない。
ゆなかもしれない。
そう思うと、恐怖が、わたしの全身を支配する。
背中に、冷たい視線を感じる。何故か振り返ることができない。振り返れば、そこに、あの顔があるかもしれないと思っているからだろうか。
足が、さらに加速する。
ドスドスドスッ
アスファルトを叩きつける音が、より一層、荒々しくなる。路地裏の奥に、わたしは、ただ、ひたすらに走り続ける。
壁の隙間から、細い光が漏れている。その光を見て一瞬安堵するが、その光も、すぐに闇の中に吸い込まれてゆく。
どこまで走れば、この闇から抜け出せるのだろうか。
どこまで走れば、この恐怖から解放されるのだろうか。
喉が、カラカラと乾いている。唾液を飲み込もうとしても、何も出てこない。口の中が、ぱりぱりと干上がっている。
突然、足元が、大きく傾いだ。バランスを失い、体が宙に投げ出される。
ガシャンっと大きな音を立てて、何かに衝突した。そのまま、わたしの体は、アスファルトの上に、ドンと音を立てて倒れ込んだ。
全身に、痛みが走る。腕を、何かに擦りむいたのだろう。ジクジクと、熱い痛みが広がる。血が、滲んでいるのかもしれない。だが、そんなことは、どうでもよい。気にしている場合ではない。
起き上がろうとするが、体が震えて、思うように動かない。足が、鉛のように重い。這い蹲って、視線を背後に向ける。
闇の中に、何かの影が、ゆっくりとこちらに近づいてくるのが見えるのは気のせいか。
影は、わたしの目には、酷く不気味な形に見える。人とは思えない。
影が、わたしの目の前で、ピタリと止まった。
その存在は、わたしに、何も言わない。ただ、そこに立っている。その沈黙が、あの言葉の暴力よりも、わたしを深く突き刺す。
この状況は、夢なのだろうか。そうであってほしい。そう願うのに、アスファルトの冷たい感触は、あまりにも生々しい。擦りむいた腕の痛みも、現実のものだ。
わたしは、ただ、その場に倒れ込んだまま、震えることしかできない。
わたしは、ただ、じっと、この瞬間が過ぎ去るのを待つしかないのだろうか。
逃げなければ、という感情もよそに、闇の中でわたしの意識は遠のいてゆく。
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