{絵梨奈}
手に握りしめたアルバムから、冷たい空気が噴き出してくる。
確証は持てないが、確かにそんな感覚がある。
手が汗ばみ、アルバムを落としそうになる。
開かれたページに、くっきりと写し出された顔が、わたしの目をくぎづけにしていた。
その顔を見た瞬間、わたしの全身を、冷たい電流が駆け巡り、今もそんな感覚が纏わり着く。
心臓が、激しく不規則な音を立てて脈打っている。
震えが止まらない。まさかその顔が写っているとは思いもしなかった。
その顔は確かに、わたしが知っている、顔だった。
間違いようがない。何年も前に、わたしの前から消え去ったはずの顔である。今この瞬間まで忘れていた、苦い記憶だ。
沙貴である。
だがなぜ、このアルバムの中に、沙貴が写っているのだろう。なぜ、この場所に、沙貴の姿があるのだろう。
ここは、結奈の部屋のはずだ。
それなのに何故────。
頭の中が、一瞬にして真っ白になる。目の前の光景が、まるで偽物のように感じられた。何かの間違いだ。そう、自分に言い聞かせようとするけれど、網膜に焼き付いたその顔は、紛れもない沙貴の姿だった。
違う。そう無理やり言い聞かせようとも忌まわしい記憶に支配され、彼女の顔と重なる。
ページを、乱暴に捲る。
パラパラと、乾いた音が響き、一枚一枚と、沙貴の姿が、わたしの目に飛び込んでくる。
悲しげに笑っている顔。
何か俯いている顔。
誰かと並んで立っている顔。
どのページにも、沙貴の姿がある。
そのたびに、わたしの心臓が、ドクンドクンと、不快なほど大きく脈打つ。
呼吸が、浅くなる。肺が、酸素を求めてひくつく。このアルバムは、一体何なのだろう。
なぜ結奈のアルバムに、沙貴の写真ばかりが、こんなにも大量に収められているのだろうか。
そのような疑問が、わたしの内側を、じわじわと蝕んでゆく。
そして、次のページをめくった瞬間、わたしの全身を、再び、大きな衝撃が襲った。
そこに写っていたのは、紛れもない、結奈の顔だった。
いや、違う。一瞬、そう見えただけだ。でも、もう一度、凝らして見る。
輪郭、鼻筋、口元、目の形────全てが、結奈と、沙貴は瓜二つなのだ。
心臓が、大きな音を立てて砕け散るような感覚に襲われた。
呼吸が、完全に止まる。
目の前の写真が、生きているように、揺らめいて見える。
沙貴の顔と、結奈の顔が、わたしの網膜の上で、一瞬にして重なり合う。
そして、分裂すると、また重なり合う。
その繰り返しだ。
混乱、そんな一言では言い表せないほどの、深い戸惑いが、わたしの脳髄を支配する。
なぜであろうか。
なぜ、ここに結奈が写っているのだろうか。
いや、結奈ではないのかもしれない。これは完全に沙貴のように見える。
結奈と沙貴は似ている。しかしこんなにも、瓜二つなはずがない。
指先が、あまりに震え、再びアルバムを落としそうになる。
慌てて、両手で、それを強く掴み、手繰るように元に戻す。アルバムの表面の冷たさが、わたしの体温を、さらに奪ってゆく。
頭の中で、無数の疑問が、稲妻のように駆け巡る。
沙貴と結奈。
この二人が、こんなにも似ているはずがない。偶然なのだろうか。
けれどそんなことがあるのだろうか。
いや、こんなにも、同じ顔であるはずがない。
汗が、全身から噴き出し、やがて体が冷えてゆく。震えが、恐怖なのか、寒さからなのかもわからなくなっていった。
額から、冷たい汗が、頬を伝って流れ落ちる。指先が、完全に痺れている。この状況を、脳が処理できない。何が現実で、何が幻なのかの区別がつかない。
アルバムを、再び開く。
もう一度、あの写真を目に入れる。
やはり、同じだ。沙貴の顔と結奈の顔の、二つの顔が、わたしの網膜の上で、残酷なまでに、同じものとして認識される。
もし、これが本当なら、結奈は、一体何者なのだろうか。
なぜ、わたしは、そのことに、今まで全く気づかなかったのだろう。
わたしの周りに、こんなにも長い間、こんなにも恐ろしい秘密が、隠されていたというのであろうか。
このアルバムは、一体、誰が、何のために作ったものなのだろうか。
結奈の悪戯だろうか。だが、結奈はわたしに心を許しているようには思えない。
それとも、別の誰かがしたことなのだろうか。
恐怖が、わたしの内側を、じわじわと侵食してゆく。このアルバムの中には、何かが、まだ隠されている可能性がある。
トイレの白い蛍光灯の光が、わたしの顔を、容赦なく照らし出す。その光が、目の前のアルバムの中の顔を、より鮮明に、より不気味に、浮き上がらせる。
アルバムの存在が、この狭い空間を、完全に侵食している。わたしは、この恐怖から、どこにも逃げられないのだろうか。
分からない。
そのように、わたしは不安になる。
アルバムを握りしめたまま、わたしは、ただ、その場に立ち尽くしていた。
時間が、止まったように、不気味な感覚が支配する。
この手に握られたものが、わたしの人生を、わたしの精神を、根本から揺るがそうとしている。その事実だけが、わたしたちの間に、冷たく横たわっていた。
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