{沙貴}
街の雑踏が、わたしの耳を麻痺させる。コンクリートの地面を叩く足音が、ドスドスと響く。わたしは、ただ、この群衆の中に紛れて、無意識に足を動かしていた。ビル群の隙間から差し込む夕日が、アスファルトの上に、細長く、冷たい影を落としている。
オフィスを出てから、ずっとこの調子ような景色の中にいる。今日もパワーハラスメントを受けた。
あの男の声が、まだ耳の奥で、キンキンと響いている。そして、その周りで、何も言わずに、ただ見ていた彼らの顔が、脳裏に焼き付いて離れない。
彼ら、傍観者たちの憎い顔がわたしの前で嗤う。嗤う。
ふと、わたしの足が、不意に止まった。視線の先に、一つの背中が映った。見慣れていて、ひどく忌まわしい背中だ。その人物は、人波の中を、とぼとぼと歩いている。
肩が、小さく丸まっている。
心臓が、大きく跳ねた。全身の血が、一瞬にして逆流するような感覚がする。呼吸が、止まる。その背中を、わたしは知っている。
あの時、わたしが教室で孤立していた時、何も言わずに、ただ、見ていた一人だ。
あの時、わたしの苦痛を、まるで興味のないもののように、やり過ごしていた傍観者だ。
怒りが、わたしの内側から、マグマのように噴き出した。冷たい憎しみが、全身の毛細血管を駆け巡る。手足の先が、痺れるように熱い。
あの時の、あの教室の空気。
会社の、あの男の、突き刺すような視線。
そして、何よりも、その2つの苦しみの背後の、無数の沈黙。
その全てが、この一瞬で、鮮やかに蘇った。
身体が、勝手に動き出す。その人物へと向かって、わたしの足が、加速する。
ドスドスドス。
アスファルトを叩きつける音が、荒々しく響く。周りの人波を、強引に掻き分ける。邪魔だ。全てが、わたしと、あの背中の間にある、邪魔なものだ。
その人物は、まだ気づいていない。ただ、とぼとぼと、まっすぐに歩いている。まるで、過去のわたしが、どれだけ苦しんだかなど、何も知らないかのように。
その無知な背中が、わたしの憎しみを、さらに煽る。
足音を立てずに、距離を詰める。その人物の、服が擦れる音が、微かに聞こえる。その小さな音が、わたしの耳には、嘲笑のように響いた。この街の雑踏の中に、この人物は溶け込んでいる。普通の顔をして、普通の日常を生きている。それが、許せない。
わたしの手が、無意識に、強く握りしめられる。爪が、手のひらに食い込む。痛い。その痛みが、わたしの内側で渦巻く感情の、唯一の確かな感触だ。
その人物のすぐ後ろまで、たどり着いた。背中に、わたしの存在が、ぴたりと貼り付く。一瞬、その人物の肩が、微かに揺れたように見えた。気づかれたか。いや、まだだ。
息を整える。荒くなった呼吸を、なんとか押さえつける。
胸の奥で、何かが、ドクンドクンと激しく脈打っている。
それは、怒りなのか。興奮なのか。
区別がつかない。ただ、この湧き上がる感情に、身を任せるしかない。
右手が、確かな意思を持って、持ち上がる。わたしの指先が、その人物の、肩に触れようとする。触れて、何をしようというのか。
殴りつけるのか。罵倒するのか。それとも、あの時のわたしの苦しみを、言葉で、ぶつけてやるのか。
わたしの指先が、その人物の服の生地に、触れる寸前だ。その感触が、脳裏に焼き付く。その瞬間、この感情の全てが、爆発するのかもしれない。
あの時、彼らがわたしにしたように、わたしは今、彼女に、わたしの存在を、はっきりと突きつける。
その人物の背中が、ほんの少し、強張ったように見えた。わたしの気配を、感じ取ったのだろうか。それが、僅かな動揺か。
それとも、恐怖か。
どちらでもよい。彼らが、今、わたしと同じ感情を味わうことを、わたしは、ただ、望んでいる。
街の喧騒が、耳の奥で、遠のいてゆく。
聞こえるのは、わたしの荒い呼吸の音と、その人物の、微かな息遣いだけだ。この一瞬が、永遠のように長く感じられる。この指先が、触れる瞬間を、わたしは、じっと待っていた。
冷たい夕暮れの空が、頭上に広がる。その空の下で、わたしは、復讐という、冷たい刃物を、目の前の人物に突きつけようとしている。その感情は、濁りきった水のように、わたしの内側を、じっとりと満たしていた。
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