エピソード4
{沙貴}
オフィスに響くキーボードの打鍵音が、わたしの心臓を直接叩いている。
フロアの奥から、男の声が聞こえてくる。
低く、不快な声である。
その声が、わたしの背中に、じっとりと纏わり着いている。
わたしは、自分のデスクに座り、パソコンの画面を見つめていた。表示された数字の羅列が、頭に入ってこない。指先が冷たく、汗ばんでいる。背中を、何かが這い上がってくるような感覚がある。
「おい、村木沙貴。これ、なんでこんなことになってんだ?」
その声が、わたしの耳元で、突然、大きく響いた。びくりと肩が跳ねる。顔を上げることができない。男の、あの表情を見るのが怖い。
歪んだ口元。
冷たい視線。
「申し訳ございません…」
掠れた声しか出ない。何を謝っているのか、自分でも分からない。ただ、この状況から逃れたい。その一心だけが、わたしの内側を支配している。
男は、わたしのデスクに、書類をドンと音を立てて叩きつけた。その音が、オフィスの静寂に、大きく響き渡る。周りのデスクに座る人人が、一瞬、ぴくりと反応したのが分かった。しかし、誰も、こちらを見ようとしない。キーボードを叩く指の速度が、僅かに速くなったのが聞こえる。
その音の全てが、まるでわたしを嘲笑っているように聞こえる。
この空間にいる、彼ら、彼女ら。
わたしの背中に、その気配を感じる。
彼らは、この状況や、この不快な空気を感じ取っているはずだ。
なのに、誰も、動かない。
誰も、声を上げない。
男の声が、さらに荒くなる。罵倒する言葉が、矢のように、わたしの内側を突き刺す。胃の奥が、熱く、締め付けられる。呼吸が、浅くなる。肺が、酸素を求めてひくつく。この苦しみを、誰かに気づいてほしい。誰かに、助けを求めたい。
そう願うのに、口から出るのは、ただ、細い謝罪の言葉だけだ。
「お前みたいなのは、社会にいらないんだよ」
その言葉が、耳の奥で、何度も繰り返される。わたしの存在そのものを否定する、鋭い刃物のような言葉────その言葉が、わたしの内側を、じわじわと蝕んでゆく。
痛い。思い出す度に鮮烈な痛みが走る。
男の声が、止んだ。重い足音が、遠ざかってゆく。その足音が、フロアの奥へと消え去るまで、わたしは、ただ、その場に固まっていた。
再び、オフィスは、キーボードの打鍵音と、静寂に包まれる。その音が、なぜか、先ほどよりも、ずっと冷たく、響く。周りの視線が、まるで背中に突き刺さるように感じる。誰も、こちらに近づいてこない。誰も、声をかけてこない。
彼らは、わたしのことを、どう思っているのだろう。見ている。間違いなく、彼らは見ている。この場所で、わたしが、こんなにも追い詰められているのを、彼らは知っている。
なのに、何も言わない。
何も、行動しない。
その事実が、わたしの心に、じっとりとした膿のように広がる。あの時もそうだった。学校でも、そうだった。希がわたしを孤立させた時。絵梨奈を中心として、周りの「傍観者」たちは、いつも、ただ見ていただけだった。
あの時と、何も変わっていない。環境が変わっても、場所が変わっても、わたしの周りにいる人間は、あの時と同じなのだ。
安全な場所から、ただ、わたしが苦しむのを眺めている。彼らは、わたしの苦痛を、娯楽のように消費しているのだろうか。それとも、自分に降りかかることを恐れて、ただ目を伏せているだけなのだろうか。
そのどちらにしても、わたしの内側に、冷たい憎しみがこみ上げてくる。声を出さない彼ら。行動しない彼ら。その沈黙が、あの男の罵倒よりも、わたしを深く傷つける。
デスクの上の書類に、指を伸ばす。その紙の冷たさが、わたしの体温を奪ってゆく。
この書類に書かれた数字が、わたしを、さらに深い絶望に引きずり込んでゆく。
時計の針が、カチカチと、やけに大きく音を立てている。時間は確かに進んでいく。けれどこの一秒、一秒が、わたしにとって、永遠の苦痛だ。
昼食の時間になる。周りの人間が、席を立つ音が聞こえる。楽しそうな話し声が、オフィスに響く。その声が、まるで遠い世界のもののように聞こえる。わたしは、ただ、自分の席に座ったまま、動けない。
冷蔵庫から持ってきた、冷たい弁当箱を見つめる。食欲など、微塵も湧いてこない。胃の奥が、冷たく締め付けられる。
このオフィスは、まるで大きな水槽だ。わたしは、その水槽の中で、ただ、もがいているだけの存在で、その水槽の外から、多くの視線が、わたしをじっと見つめている。
彼らは、わたしの苦しみを知っている。なのに、誰も、その水槽に手を差し伸べようとしない。
その無関心が、わたしの心を、じわじわと凍らせてゆく。
あの男への怒りよりも、その背後に控える、無数の「傍観者」たちの存在が、わたしの心を深く蝕む。彼らの沈黙が、わたしを、この状況に閉じ込めている。
わたしは、希よりも絵梨奈が憎い。
この場所から、逃げ出したい。しかし、どこへ逃げればよいのだろう。どこへ行っても、同じなのだ。わたしは、きっと、どこに行っても、この「傍観者」たちに囲まれ、一人で苦しみ続けるのだろう。
窓の外は、晴れ渡っている。陽光が、オフィスの中に差し込んでいる。その光が、なぜか、ひどく冷たく、わたしを照らしているように感じられた。この終わりの見えない苦しみの中で、わたしは、ただ、じっと座っているしかない。
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