第9章:はじめての息吹

セナはバスを降りた。手には、昨日アキからもらった名刺がある。少し端が丸まった小さな紙には、整った文字と、制作会社のロゴが印刷されていた。彼女は歩きながら、見慣れない郊外の通りを眺め、時折スマホの地図に目を落とす。舗道には午後の淡い陽射しが薄い金色の膜をかけているが、冬の終わりの風はまだ、服の隙間をすり抜けていく。


「ちゃんと合ってるかな…。こんな時間じゃ、もう手伝いは必要ないかな…。みんな、優しい人だといいんだけどな…」


そう思い、セナは唇をきゅっと結んだ。落ち着かなきゃと自分に言い聞かせても、胸のざわめきは収まらない。これから足を踏み入れる場所への不安と、緊張。みんなは親切だろうか。邪魔にならないだろうか。


道の先、スタジオの門が見えてきた。白とグレーの建物に、カタカナで「スタジオK」と書かれた看板が掲げられている。セナは深呼吸をし、名刺をポケットにしまい、マスクを整えてから守衛のブースへ近づいた。


「あの…こんにちは、アキさんにこれを…」


声は小さく、少し震えながらも、一言一言をはっきり発音しようと努めた。守衛の中年男性が、名刺を、そして彼女をじっと見た。


「アキさんから?もしかして…セナさん?ちょっと待っててね。」


男性は軽くうなずくと、ブースから出てきた。セナがまだ戸惑っていると、彼は言った。


「こっちだ。ついてきな。スタジオは奥だよ。」


セナは軽く頭を下げ、守衛の後を追って大きな門をくぐった。彼女の靴音は、遠くの撮影現場から聞こえる反響音と混じり合う。エントランスに着くと、守衛は立ち止まり、中の人に向けて大声で呼びかけた。


「アキさん!お連れさんだよ!」


ほぼ同時に、聞き慣れた声が返ってきた。


「あれ、セナさん?来てくれたんですね!」


アキが慌てて入り口に向かってくる。手には絵コンテを握りしめ、額には先ほどのライティングチェックの汗が薄く光っていた。セナを見ると、彼の目は驚きと、隠しきれない安堵で輝いた。


「よかった、間に合った!とりあえず、これ着てて。」


アキはバッグから、ロゴ入りの黒いスタッフジャンパーを取り出した。少し大きめで、シワが寄っている。セナは頭を下げてそれを受け取り、着ながら微笑んだ。まだ緊張は解けていない。古い生地の、少し湿った匂いがしたけれど、不思議と身を守られているような気がした。


セナがファスナーを上げた瞬間、一人の人物が彼女の横を通り過ぎた。見なくてもわかる。蓮だった。彼は立ち止まらず、一瞬だけ視線を向けたが、それが彼女だと気づいたのかはわからなかった。顔はいつも通り穏やかで、台本を手に、淀みない足取りで進んでいく。


セナは、誰にも気づかれないほど小さく頭を下げた。


その後、セナは簡単な指示を受け、すぐに仕事の波に飲み込まれた。準備エリアから撮影セットまで、長い木の板や、小さな箱を運ぶよう頼まれたのだ。重くはないが、かさばる道具に手こずった。道に不慣れな彼女は、周りを気にしながら足早に進む。頭と足がバラバラになるような感覚。すべての廊下、すべての角が巨大な迷路のように思えた。


最初の角で、セナは走ってきた別のスタッフとぶつかった。強くはなかったが、彼女の手から道具の箱が落ちそうになる。


「すみません!」


相手は一言だけ急いで発し、振り返りもせず走り去った。


セナは箱をしっかり抱え、バランスを取り直した。気温は高くないのに、額と首筋に汗がにじむ。呼吸が速くなる。周囲の空気は、彼女に立ち止まる時間を与えてくれない。みんなが走り、動き、大声で互いを呼び合う、濃密な空気だった。


「シーン3!カメラ2スタンバイ!ライトは45度、ワンストップ上げて!」


監督の声が鋭く、はっきりと響く。別の誰かが叫んだ。


「そっちじゃない!ライトに気を付けて!」


「あ…はい…ごめんなさい…」


セナは深く頭を下げた。心臓が激しく脈打つ。走り書きされた指示書を読み取ろうと、ひらがなやカタカナが混じった漢字を追うが、目が回る。手が震え、目はさまよう。かろうじていくつかの単語を理解するだけだった。


箱の一つがテーブルの端に当たり、ガタガタと音を立てて床に落ちた。近くのスタッフが眉をひそめた。


「気を付けてよ、割れ物なんだから。」


「ご…ごめんなさい…」


セナは再び、慌てて頭を下げた。いくつかの視線が彼女に向けられた。


「あの子誰?見かけない顔だね。」


「新人かな?今朝入ったばっかりっぽいな。」


小さなささやき声が、セナに自分が部外者であることをはっきり知らせた。スムーズに動く歯車の中で、彼女だけがどこへ向かっていいかわからない、場違いなかけらだった。襟元に汗が張り付き、手のひらは湿り、不規則な呼吸に合わせて胸が上下する。彼女は指示書を強く握りしめた。全部理解したい、正しくやりたい、でもすべてが彼女の能力をはるかに超えたスピードで動いていた。


コンクリートの床に響く足音、絶え間なく変わる照明に目がくらむ。誰かが俳優の名前を呼び、誰かが彼女の足元に長いケーブルを引っ張っていく。セナがそれを避けようと体を傾けた瞬間、別のスタッフが彼女の目の前を通り過ぎた。


「危ない!」


どこからか小さな怒鳴り声が聞こえた。セナは唇を噛みしめ、手が白くなるほど強く握った。


彼女は道具エリアを通り、指示された方向に進んだ。カメラの邪魔にならないよう、必死で気を配る。しかし、怒鳴り声、照明、そして周囲の切迫感が、彼女にリズムを掴む隙を与えてくれない。一歩一歩がおそるおそるで、名前を呼ばれるたびにびくっとした。完全に理解できない言葉、冷たい空気、そして現場の狂気のようなスピードに、彼女は息が詰まりそうになった。


ある時、彼女は壁際に立ち止まった。小道具棚に背中を預け、深く息を吸い込む。プラスチック、埃、強い光の熱、そしてコーヒーが混ざった、乾いていて、それでいて濃い空気がした。まるで別の惑星で生き残ろうとしているかのような奇妙な感覚が、胸を駆け抜けた。


「セナさん、そのトレイは向こうのテーブルだ!急いで!」


再び声が聞こえた。


「はい!」


彼女は飛び上がるように走り、重い金属のトレイを両手に抱えた。一歩滑って、ケーブルに足を取られそうになった。誰かが声を上げる。


「気を付けて!」


幸い、彼女は転ばなかった。


一時間も経たないうちに、彼女の服は背中に張り付き、緊張で頬が赤く染まっていた。最後の小道具を置き終え、通路の隅に身を寄せて立ち止まる。目をこすり、汗が頬から顎へと伝った。


そして、遠くから再び彼女の名前が聞こえた。セナははっと振り返った。心臓はまだ、この世界のペースについていけていないのに、彼女は次の波に飛び込む準備をしていた。撮影現場は、想像していたほど騒がしくなかった。賑やかというよりは、一つの巨大な機械のようで、誰もがそれぞれのペースで動く、一つの歯車だった。ただ、セナだけがそのリズムに乗り切れていない。


彼女はもう、自分に何ができるかわからなかった。だが、帰るには早すぎる。だからただそこに立ち尽くし、服の裾を強く握り、深く息を吸った。そして、心の中でつぶやいた。「頑張れ…せめて、今日一日だけでも。」


遠くから声が響いた。


「次のシーンの準備!黒羽蓮さん、スタンバイ!」


セナは顔を上げた。彼女は小道具の後ろに身を隠し、ぶかぶかで汗ばんだスタッフジャンパーを着て、小さなギフトボックスを抱えていた。次のシーンで使う小道具だ。担当者が彼女の手にそれを押し付け、カメラの右側の袖に立つように、そして監督が声をかけたら向こうのスタッフに渡すようにと指示した。


彼女は半分も理解できていないのに、何度も頷いた。自分の立ち位置に行くと、ライトの眩しさに目がくらんだ。誰も彼女を見ていない、気にも留めていない。誰もが忙しく、自分の位置に集中している。


そして、仮設の舞台の中央に、蓮が立っていた。


彼はシンプルな濃い色のコートを羽織っていたが、フレームの中に立つと、その一つ一つの動きが空間を静止させるような重みを持っていた。小さな身振り、少しの首の傾げ、不意に遠くを見つめる視線——すべてが言葉にできない力を放っていた。顔に大きな表情はないのに、その静けさが、冬のセットの冷たさをより際立たせていた。カメラマンは息をひそめ、照明はわずかに調整され、監督は何も言わないが、その目は集中しきっていた。


まるで、チーム全体が、一人の男性が何の前触れもなく役に入り込んだことで生まれた、静かなリズムに巻き込まれたようだった。


セナが蓮を見たのは、それが初めてだった。コンビニのぼんやりした照明の下でもなく、公園を通り過ぎる影でもない。彼のために作られた空間の真ん中にいる、ありのままの彼を。


最初のテイクが始まった。


セナはギフトボックスを胸に抱きしめた。蓮は冬のセットを歩き、手紙を強く握っていた。彼の顔は大きく変わらない。だが、その目は違った。何かを探すような、深い悲しみがこもっていて——彼が目の前の何もない空間を、まるで過去の誰かを見ているかのように見つめたとき、セナは心臓が止まるのを感じた。


「カット!」


監督の声が響く。だが、誰も緊張を緩めなかった。すぐにスタッフが叫んだ。


「アングル3に戻る!最初から準備!」


演技は繰り返された。三回、四回。照明がわずかに変わり、カメラアングルが少し変わるたびに、蓮も変化した。しかし、彼の目の奥の深さは失われなかった。まるで…彼の感情は途切れることなく、ただ元の場所に戻るだけなのだ。


セナはいつからか息をひそめていた。足は床に貼りついたように動かない。ギフトボックスを抱えた手は、強く握りしめすぎて白くなっていた。手のひらから汗がにじみ、指の間を滑り、ラッピングペーパーに染み込んでいく。彼女は汗を拭うことも、身じろぎすることもできなかった。心臓は、静かだが張り詰めた現場のどこかに置き去りにされたようだった。


すべての視線が蓮に注がれていた。ここにいる彼女は、ただの影にすぎない。名もなき、役割もなき、舞台裏の小さな影。しかし、彼女の視線だけは——仕事のためでも、技術のためでもなく、ただ一人の人間を追うその視線だけは、彼の身振り、彼の視線、彼のわずかな首の傾きに必死でしがみついた。


人工的な送風機からの風が彼女の髪を揺らし、一本の髪の毛が頬に落ちた。セナは瞬きをした。この瞬間、彼女の心臓が誰かに優しく握られているような感覚を覚えているのは、自分だけだろうか。蓮が手紙を握りしめ、何か深いものを手放すかのように、静かに息を吐いたとき。


舞台の端に立つ、観客でも同僚でもない一人の少女の視線に、誰も気づかない。ただ…不意に彼の世界に足を踏み入れ、そしてそこからどうやって抜け出せばいいかわからなくなった人。


「あの人…なんであんなに違うんだろう…コンビニで会った時よりも。」


「あれが…画面の中の蓮さん…?」


監督の声が響く。


「OK!終わり!5分休憩!」


張り詰めていた空気が緩んだ。照明係が枠から出て、カメラマンがレンズを外し、スタイリストが駆け寄る。


チーフスタイリストが蓮の髪を整え、服を直し、スプレーをかけた。アキがペットボトルを渡し、何かをささやき、二人は静かに笑い合った。周囲の空気は、再び日常的なものへと戻った。


セナは、まだカメラの後ろに立っていた。眩しいライトと凍りついたような空気の中で、彼女は薄い影のようだった。そこにいるが、存在しない。この巨大な歯車の中で、誰もが明確な役割を持っている。彼女だけが例外だ。プロフェッショナルな動きの中、彼女は静かに身を縮める。蓮を遠くから見つめるが、その距離はたった数メートルではなかった。


それは、光、レンズ、技術の世界と、それに属さない一人の部外者の間の境界線だ。小さなギフトボックスを抱きしめて、留まる理由を必死に探している。


一度は顔を合わせ、夜にその声を聞いたことがある。だが、今、目の前にいる男性は、違う蓮だ。あの暖かいコンビニの照明の下にいた彼ではなく、スクリーン用に作られた、冷たく、穏やかで、遠い存在。その瞬間、彼女はまるでテレビ画面を見ているようだった。とても近いのに、決して触れることはできない。


彼女は一歩下がった。手の中のギフトボックスを強く握りしめる。小道具はもう必要ない。だが、まだ手放したくなかった。まばゆい舞台の上、彼はほんの数歩先にいるのに、信じられないほど遠い存在だった。


だが、遠くても…彼の演技中の目は、彼女の中のどこか、とても近い場所に触れた。まるで…彼は誰かを思い出しているかのようだ。あるいは、彼女にはまだ理解できない言葉で、自分自身に語りかけているかのようだ。


セナは小道具棚の後ろの壁にもたれかかった。広くて薄暗い撮影スタジオ。周りの空間は、まるで目に見えない煙の層に覆われているようだ。まだ消えきっていない撮影用ライトの光が、古い灰色の壁にぼんやりとした模様を映し出す。まるで巨大なガラスの箱の中にいるみたいだった。そこでは、どんな動きも反響し、時間は奇妙なほどゆっくり流れていく。足音も、道具がぶつかる音も、遠い場所からのこだまのように聞こえた。


誰も彼女に気づかない。みんな忙しい。道具を運び、機材を拭き、次のシーンについて小さな声で話し合っている。近くのスナックエリアでは、何人かのスタッフが集まり、缶を開けながら少し笑い声を交わしていた。しかしすぐに、彼らは再びプロフェッショナルで、無口で、時計の秒針のように正確な作業モードに戻っていった。


先ほどの緊迫したスピードと比べると、空気は落ち着いている…しかし、その分、時間はより長く感じられた。それは虚しさからくる長さではなく、一瞬一瞬を意識してしまうからだ。セナにとって、ここでの一分一秒は、言葉にできない疑問の連鎖だった。私はここで何をしているんだろう?誰かの邪魔になっていないだろうか?ただ単に…私はみんなと違いすぎるのだろうか?


撮影現場は、圧倒されると同時に、疎外感を感じさせる場所だった。それは、すべての動きに暗黙のルールがある地下世界のようだった。速く、正確に、静かに、そして決してためらわない。セナは身体が疲れ果てているのを感じた。肩から手のひらまで、汗と絶え間ない緊張で重かった。しかし、彼女を最も消耗させたのは、目に見えない努力だった。ミスをしない、邪魔をしない、リズムを乱して誰かの足を引っ張らないという、無言のプレッシャー。薄暗い光が、擦り切れた黒いカーテンの隙間から差し込み、風にわずかに揺れていた。彼女の顔には汗がにじんでいたが、その目は真剣で、まるで渦巻く世界で踏みとどまろうとしているかのようだった。


監督の声が、先ほどほど厳しくなく、はっきり響いた。


「よし、OKだ。みんな、15分休憩!」


すぐに、何人かのスタッフが撮影スタジオの端にあるスナックテーブルに集まった。お菓子を包む紙がガサガサと音を立て、炭酸飲料の缶が開く音、そして疲れた足音が聞こえる。誰もが少しだけリラックスしようと努めた。まるで、胸の中の時計のネジが、次の旅のために少しだけゆっくりと巻かれたかのようだった。


撮影現場の空気は、叫び声こそ減ったが、まだ張りつめた糸のように静かに緊張していた。スタッフたちは行ったり来たりし、小さな声で話すが、誰もが手を動かしていた。機材を拭いたり、ライトを調整したり、小道具を片付けたり。埃と汗の匂いが、強力なファンとまだ消えていないライトの光と混じり合っていた。セナは静かに座り、胸の中の鼓動が、この見知らぬハーモニーの中でリズムを外しているのを感じていた。だが、彼女の中は、かつてないほど重苦しかった。帽子で汗ばんだ髪、濡れた襟、そして急いで物を運んだ時の手のひらの感触がまだ残っている。彼女の体はゆっくりと、まるで周囲のリズムから置き去りにされたかのように、漂流しているようだった。


手にはまだ、もう必要のないはずのギフトボックスがある。汗で生地は湿り、ラッピングペーパーは少しシワになっていたが、セナはそれを下ろす気になれなかった。まるで…それを手放したら、ここにいる唯一の理由まで失ってしまうかのように。


彼女は蓮を追った。彼はカメラの近くでアキと話している。わずか数メートルしか離れていないのに、まるで彼らの間に透明なガラスの壁があるようだ。それは目に見えない境界線だ。技術、言葉、役割、プロフェッショナリズム…そして、よそ者には居場所のない空気。


小さなささやき声が聞こえた。


「さっきの子だね?」


「スタッフじゃないみたいだけど…」


セナは頭を下げた。肩をすくめるのが、反射的な反応だった。彼女の心に、怒りも、悲しみもなかった。ただ静かな空虚感が広がっていた。それは大したことない、騒々しい感情ではない。ただ、心臓に沿って走る、細いひび割れのような感覚だ。


彼女は自分がここで何をしているのかわからなかった。ぎこちない言葉、通り過ぎる視線、そしてプロの世界の音の中で、彼女はインクがまだ乗っていない鉛筆のスケッチのようだ。薄く、不確かで、簡単に消されてしまいそう。


一陣の風が吹いた。彼女はジャンパーを引く。手がかすかに震える。まだその手に、あのギフトボックス。それはもう小道具ではない。彼女がまだ完全に存在を消されていない、たった一つの理由だった。


彼女は自問した。他の誰かも、私のように感じたことがあるだろうか?自分の世界ではない場所に足を踏み入れ、そしてどうやってそこに居場所を見つければいいのかわからなくなったことを。ただ、試したかった、何かをしたかった…だが、すべては想像よりもずっと大きかった。そして蓮…少しは理解できたと思った人が、突然、冷たい映画界の星のように、遠い存在になってしまった。


セナは深く息を吸った。目はまだ蓮の背中を追っていた。彼が振り返るだけで…だが、彼は振り返らなかった。


彼女はそっと目を閉じ、再びギフトボックスを強く握りしめた。すると、どこからか一つの声が頭の中に響いた。


「せめて、お礼を言おう。」


あの忘れられたノートのこと。冷たい雨の夜と、言葉のない視線。そして、一瞬の出会いが、時を超えて彼女の心にさざ波を立て続けたこと。


そしておそらく…彼女自身のため。今日、心の中の小さな部分が、もう逃げ出したくないと願ったから。たどたどしい、静かな一歩でしかないけれど、あの光に向かって近づきたいと願う、小さなかけら。


手はバッグの紐を強く握りしめ、足取りはゆっくりと、そして静かに、まるで少しでも強く踏み出せば、彼女の儚い勇気が消えてしまうかのように。


この瞬間、撮影スタジオは彼女の目から次第にぼやけていった。ライトはまだ完全に消えておらず、人の声もまばらに聞こえるが、そのすべての中で、蓮だけが鮮明に浮かび上がっていた。


彼はアキとスタイリストのカイと共に立っていた。背中がわずかにライトの方に傾き、撮影後の髪は少し乱れている。顔はいつものように物静かだった。彼らが何を話しているのか、セナには聞こえないし、自分がどうすべきかもわからなかった。しかし、もし今立ち去ったら…おそらく、二度と近づく勇気を持てないだろう。


距離はわずか数メートル。だが、その一歩一歩が、まるで凍てつく東京の冬を横断するかのように感じられた。


彼らの手の届く距離まで来たところで、セナは立ち止まった。建物の裏側から吹く風が、彼女の襟元をかすめ、身震いさせた——寒さからではなく、心臓が胸の下で激しく脈打っていたからだ。


彼女は深く、頭を下げた。


そして、声を出した——小さく、震えていたが、一言一言ははっきりと聞こえた。


「あの…黒羽さん…その…ノート、ありがとうございました…」


三人の中に、一瞬の静寂が流れた。スタイリストのカイは少し首を傾げ、詮索するような、しかし大げさではない視線を向けた。アキも顔を上げ、まだ持っていたペットボトルを置くことも忘れていた。そして蓮、彼はゆっくりと振り返った。彼の視線はセナの上で止まり、驚きも、避けようとする気配もなかった。ただ静かで深いまなざし。冬の湖面のように穏やかでありながら、不思議なほど温かかった。


その視線は、まるで彼女を本当に見ているかのようだ。撮影現場の一部としてではなく、一人の人間として——名前と、物語と、そしてここにいる理由を持つ人として。


「ああ。」


たった一言。軽いが、冷たくはない。よそよそしくもなかった。


セナはそっと唇を噛みしめた。感情が空気中に溶けてしまわないように。彼女は再び静かに頭を下げた。もう一度、心の中でありがとうと。一言の「ああ」に、そしてその視線が、去っていかなかったことに。


彼女は数秒そこに立ち尽くした。そして、もう一度深く頭を下げてから、ゆっくりと後ろに下がった。足は去ろうとしているが、心はまだ離れられない。彼女は急いで背を向けるのではなく、体を少し傾け、アキとスタイリストのカイにも軽く会釈した——最後に残った、ささやかで、かろうじて保たれた礼儀だった。


誰も何も言わなかった。だが、その瞬間は、セナにとって、激流のような人生の中での一時停止だった。誰も気づかないほど短く、しかし記憶に深く刻み込まれるほど長かった。


カイは軽く首を傾げ、セナに視線を少し長く留めた。何かを推し量るかのように。そして、アキに身を寄せ、風に乗るように小さな声で言った。


「誰あれ?なんか変な感じ。新しいスタッフ?」


アキは静かに笑い、二人にだけ聞こえる声で答えた。


「まあ、そうですね。でも、違うんです。彼女…多分、以前、蓮と会ったことがあるんです。なんていうか…普通のスタッフとはちょっと違う、何かがあるみたいで。」


頭上のライトが再び点灯した。数回点滅し、そして安定して、撮影現場特有の、まぶしく、感情のない白黄色の光を放った。現場の空気は、張り詰めた弦のように再び緊張した。休憩していたスタッフたちは慌てて立ち上がり、お菓子の包みをゴミ箱に捨て、帽子やイヤホンを直し、素早く持ち場に戻った。


監督の声が、拡声器を通してはっきりと響いた。


「あと10分で次のシーンを始めるぞ!全員、準備!」


すぐに、現場は再び生き生きと、切迫感に満ちた。油をさされた歯車のように、すべてが同時に動き出す。機材が起動する音、忙しい足音、各エリアで叫び合う声。ためらいや迷う余地はどこにもない。誰もが冷徹なほどプロフェッショナルな軌道に戻った。


セナはスタッフジャンパーを注意深く直し、だぶついた裾が、頭を下げたり物を拾ったりするたびに、彼女の小さな体を飲み込むかのようだった。こめかみにはまだ汗がにじんでいたが、今度は手は震えていなかった。一つ一つの動作はまだぎこちないが、以前よりもはっきりとしたものになっていた。視線はまだ隠しがちで、少し臆病だったが、その目には以前のような完全な混乱はなかった。それは、閉じたドアの隙間から差し込む、小さな光のようだった。か細いが、もう開き始めている。


一人のスタッフが遠くから彼女を呼び、Aエリアに小さな小道具を持っていくよう頼んだ。セナは頷き、軽く走り、ケーブルやカメラアングルを慎重に避けた。彼女は上手くはない。それはよくわかっている。他の人より素早く動けないし、専門用語も全ては理解できない。さらには、道具の箱に貼られた指示書きを読み間違えることさえある。それでも…彼女はここにいる。


アキがカメラの近くを通りがかった。小道具の箱の前で戸惑っているセナを見つけ、立ち止まった。


「大丈夫?」


セナは振り返った。額には汗がにじんでいたが、その目は何かを決心したかのように、あるいはか細い希望の残像を宿しているかのように、かすかに輝いていた。彼女の声はまだぎこちなく、発音も完全ではないが、少なくとも…彼女は口を開く勇気を持っていた。


「まだ…ちょっと難しいです、けど…頑張ります。」


アキは静かに笑い、兄のようにセナの頭を軽く撫でた。


「最初はみんなそうだよ。完璧じゃなくていい。ただ、逃げ出さないでいてくれるだけで、十分だよ。」


その言葉は、過酷な現場の中で柔らかい息吹のようだった。セナはゆっくりと頷き、ぶかぶかのスタッフジャンパーを抱きしめた。彼女の胸の中で、薄い雲が冷たい空に溶けていく——それは温かさからではない。ただ、拠り所を見つけたからだ。


その後の数時間は静かに過ぎていった。セナは仕事を続けた。時には物を拭き、時にはケーブルをまとめ、時には小道具を待って受け取った。誰も彼女について話さず、褒めることもなかった。だが、誰ももう怪訝な顔をすることはなかった。彼女の存在は、たとえ小さくとも、静かに受け入れられ始めていた。


時々、セナは周囲を静かに見渡した。慌ただしい足音、急かす声、行き交うカメラ、そして研ぎ澄まされた集中力を持つ目。最初のような圧倒される感覚はもうなかった。体がこのリズムに慣れたのかもしれない。あるいは…彼女の心が、少しずつこの世界に開かれ始めているのかもしれない。


窓の外は暗くなり始めていた。午後の光はもうスタジオには差し込まず、天井に吊るされた強力なライトだけが、無色で、感情のない光を放っていた。だが、セナにとって、今日の世界は昨日よりも少しだけ温かかった。


ほんの少し。でも、それは本物だった。


そして…それだけで、彼女がここに留まる理由としては、十分だった。

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