第8章: 喫茶店の誘い
穏やかな日差しの中、撮影所の裏手にある細い路地は、いつもと変わらぬ静けさに包まれていた。
アキはメッセージを確認しながら歩いていた。腕にはスタッフパス、もう片方の手にはA4サイズの印刷されたリスト。そのリストの中で、清掃担当者の名前の欄が突然空白になっていた。
「また急な休みか…撮影が近いのに人手が足りないのは困るな。」
撮影所内は少し張り詰めた空気が漂っていた。監督は機材トラブルのため、あるシーンの撮り直しを指示したばかりで、スタッフは皆、機材の調整に、小道具を取りに走ったり、照明を確認したりと忙しそうにしていた。レンは休憩エリアに座り、薄手のジャケットを肩に羽織り、静かに台本に目を落とし、時折眉をひそめていた。彼はアキにメッセージを送ったばかりだった。
「ホットのブレンドコーヒーを一本。」
アキはスマホをしまい、大きく息を吐いた。彼はレンのためにコーヒーを買いに出ることに決め、頭の中では清掃担当者の急な欠勤のことがまだ繰り返されていた。
「撮影が近いのに人手が足りないのは困るな…」
とアキはつぶやきながら、近くのカフェへと足早に向かった。
近くのカフェは温かみのある木の色調で、天井からテーブルへと柔らかな黄色の光が降り注いでいた。軽やかなジャズが流れ、コーヒーマシンの穏やかな音とスプーンがカップに触れる微かな音が混じり合っていた。アキがドアを押し開けて入ると、まだ街の冷たい風が肩に残っていた。カウンターへ向かって飲み物を注文しようとしたその時、窓際に座っている見覚えのある顔にふと目が留まった。セナだ。
黒い長い髪の彼女は一人で座り、少しテーブルに身をかがめていた。テーブルの上には開かれたノートと日越辞典、その隣には湯気の立つココアのカップ。彼女はノートの余白に何かを書き込んでおり、その視線は集中していて、誰かが近づいていることにも気づかないほどだった。
アキは数秒ためらってから、彼女に近づいた。
「すみません、お邪魔して…セナさん、ですよね?」
セナは一瞬動きを止め、それからゆっくりと顔を上げた。彼女の視線がアキの顔と重なり、その瞳の奥には一瞬の驚きがはっきりと見て取れた。彼女の声は風のように小さく、少しの戸惑いを帯びていた。
「あ…はい…あ、ノート!」
彼女は慌てて立ち上がり、本を閉じた。
アキは軽く微笑んだ。
「僕は磯部アキ、レンさんのアシスタントです。この前、あなたがノートを置き忘れたのをレンさんが見つけて、僕に渡してくれるように頼んだんです。レンさん…最近忙しくて、お待たせしてすみませんでした。」
セナは顔を真っ赤にし、ノートをもう一度なくすのを恐れるかのようにそっと抱きしめた。彼女は何度も頷き、背中を少し丸めていた。それが恥ずかしさからなのか、それとも感動からなのかは定かではなかった。一瞬のどもりが彼女の目に宿り、そして何か決心したかのように、か細い声で尋ねた。
「レンさん…俳優さん、ですか?」
アキはセナがためらっているように見えたことに気づいた。彼は優しく頷いて確認した。
「そうです、レンさんは俳優です。結構有名ですよ。」
セナは少し顔を伏せ、唇をきゅっと引き締めて、戸惑いを隠しているようだった。
「以前、見たことがあって…でも、彼かどうかは確信が持てなくて…」
「ええ、実物だと画面で見るのと少し違いますもんね?」
アキは軽く笑い、それから何かを思い出したように口調を変えた。
「これは急なお願いなんですが…今、お時間ありますか? 実は向こうの撮影所で、清掃の補助をする人が急に足りなくなってしまって。代わりが見つからなくて困っているんです。少し手伝っていただけませんか?」
セナは目を見開き、まつげが微かに震えた。まるで聞き間違いでもしたかのように。彼女は二度瞬きをした。アキの言葉のほんの一部しか理解できなかったようだった。レンの知り合いからの予期せぬ日本語での話しかけ、しかもそれが真剣な誘いだったため、彼女の頭は混乱で固まってしまった。彼女は、恥ずかしさと戸惑いが入り混じった声で、か細く言った。
「…私…掃除、ですか?」
「もし差し支えなければ、住所を送ります。一度来てみて、もし無理だと感じたら遠慮なく言ってください。」
セナはゆっくりと頷き、返してもらったばかりのノートを手に抱きしめていた。レンがあの日言った言葉が、まだ心の中でこだましている。「もしまた会えたら…もう立ち止まらない。」
これは始まりなのだろうか?
まだ名付けられない何かの始まり。まるで一本の細い糸が、二人の人間を偶然という名の同じ風景へと優しく結びつけるように。戸惑う瞳の少女と、真摯な誘いをかける青年、そして人手不足の撮影所という、奇妙で優しい偶然の言い訳。静かなカフェの空間で、温かいココアの香りと穏やかなジャズの音の中、何かがそっと動き出した。まるで心が、別の人間の軌道に触れ始めたかのように。
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