第2章: 東京、一人きり(後半)

その夜、コンビニにて。


コンビニのドアが電子音と共に開いた。


「ピロン〜♪」


反射的に頭を下げながら入店するセナ。誰も彼女に気づかない。


揚げ物の匂い、温かいスープの湯気、冷蔵庫からの冷気。それらが混ざり合い、まるで「東京の日常」の匂いのように感じた。


セナはおにぎりの棚へ向かう。黄色い照明の下に、きれいに並べられたおにぎりたち。

彼女はラベルをひとつずつ読もうとする。


「鮭」

「梅」

「明太子」


「…どれだっけ。梅って…しょっぱいんだっけ。明太子って、なんて読むの…メン…タイ…?」


小さく呟きながら、手に取っては戻し、頭の中で音を繋げようとする。


「むりだ〜…」


ため息混じりにそう漏らし、頭を掻いた。

「リンにメッセージ送ろうかな…」と一瞬思ったが、すぐやめた。

自分の力で何とかする。それが日本に来た理由じゃなかったっけ?


──その時、再びチャイムの音が鳴った。


誰かが入ってきた。


濃いグレーのビーニー、黒いマスク、オーバーサイズのロングコート。

誰も気に留めない。


ただ一人、セナだけが、少しだけ空気の変化を感じた。


ふと視線を向けたその一瞬。


目が合った。


表情はマスクに隠れて見えない。でも、その瞳——深い茶色の目は、どこか疲れていて、何かを隠そうとしているようだった。


彼はすぐに視線を逸らし、水のペットボトルが置かれた棚へ向かった。


「東京の人かな…なんか、忙しそう。」


そう思いながら、再びおにぎりを見下ろす。

適当に「鮭」を手に取り、パンの棚へ向かおうとした、そのとき。


後ろから、低くて穏やかな声が聞こえた。


「あの…すみません。」


振り返ると、さっきの彼だった。


マスクの奥から見える目は、今度は何かを尋ねようとしているように見えた。


「…こっちとこっち、どっちが甘いですか?」


彼は缶コーヒーを二本持っていた。赤と青。


その問いに、セナは一瞬固まった。

(なんで…私に聞いたの?)


「あ、あかいの……たぶん…あまい?」


ぼそっと答える。半分ベトナム語が混じってしまった気もするけど、指は赤い缶を指していた。


「ありがとう。」


彼は軽く頭を下げて、レジの方へ去っていった。


セナはしばらくその場に立ち尽くす。

心臓が、ゆっくりと、でもリズムを崩したように鳴る。


まるで、風がひとひら、胸の奥を通り過ぎたような感覚だった。


──


その夜、セナは窓際に座っていた。

日本語のノートを広げても、文字が頭に入ってこない。

ペン先はページの途中で止まり、思考だけが彷徨っている。


彼の茶色い瞳、静かな声、何気ない質問。

なぜか忘れられなかった。


偶然だったのかもしれない。

でも、心の奥で、何かが微かに願っている。


「もしかして、東京って、私をちゃんと見てくれるかもしれない。」


ノートの空白に、セナは彼の言葉を書き留めた。


「こっちとこっち、どっちが甘いですか?」


その横に、小さくベトナム語で書き添える。


「東京で、初めて他人からかけられた言葉。」


そして、その下に、震える文字で——


「また会いたい。」


窓の外、ぽつぽつと、雨が降り始めた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る