冬、山眠る、カミングアウト
彼女が動かない。マフラーに口元を埋めたまま、十秒ほど前に吹いた風に目を瞑ったまま、微動だにしなくなった。彼女は極度の寒がりだ。太陽が遠のいた今年の冬を無事に越えられるかどうか不安だったが、思いのほか元気に喋っていたから大丈夫だと思っていたが。
「寒い」
「わかってる。カイロ貸したろ」
「それでも寒いものは寒いんだよ」
俺はダウンジャケットのジッパーを一番上まで上げて、まだカイロの温もりの残るポケットへ手を突っ込んでいる。今までの冬はダッフルコートを着ていたが、あれだと彼女が引っ付いてくる。何が駄目だということはないが、寒いからとはいえあれだけ体を引っ付けられると反応に困る。
「上着ちょうだい」
「馬鹿言うなよ。凍え死なせるつもりか」
彼女は言葉を返さない。シンと静まり返った道路には誰もいない。皆、あまりの寒さに家から出ようとしないのだろう。寒がりの彼女もきっと今までの冬ならそうしていたろうに、今年は朝から俺の家の扉を叩いて出かけようと叫ぶのだ。
「静かないい日だね」
「俺らはきっと、気が狂ったように思われてるだろうな」
「いいことじゃん」
今日は自転車に乗らない。きっと、冷たく尖った空気が酷く痛いから。ゆっくり日の当たる道を歩きながら、ちらりと鼻を啜る彼女を見下ろす。彼女は、すぐに俺を見上げた。
「私ね、もっと色んな所に行きたいんだ。どうせ死ぬんだから死ぬ前にとか、そんなダサい理由じゃないんだよ。ただ、見たいんだ。それで、小説を書きたいの」
いつ書くんだ、とは聞けなかった。彼女は真っ直ぐ前を向いていて、凍った道路が反射して眩しいはずなのに、全くその様子を見せなかった。
彼女が小説を書きたいと思っていることを俺は知らなかった。何のために景色を見に行くのかも知らなかった。でもきっと、彼女も俺がなぜそれに同行するのかも知らないのだろう。でもその理由は、今作れる。
「書いたら読ませろよ」
「うん、いいよ。きっと、来年の夏には書き上がるかな」
今日初めて、彼女が笑った。楽しそうに、嬉しそうに、限界なんてないくらいに高い空を見上げて、ポケットから取り出したカイロを右の頬に当てた。
頬も鼻も、寒いからかとても赤かった。
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