第13話 マグダレーナ・エルディアン
高窓から差し込む光が、白磁の食器に淡く反射していた。王宮の朝食の席――上質な絹のクロスが敷かれた長卓には、すでに温かなハーブティーと焼きたてのパンが並べられている。
王妃マグダレーナ・エルディアンは、身じろぎもなく椅子に座り、湯気の立つカップにそっと手を添えた。指先の所作ひとつにも、年若きころから磨かれてきた優雅さが滲んでいる。
だが、その瞳は――今、目の前の景色を見てはいなかった。
思いを馳せているのは、昨夜の舞踏会。あの華やかな夜のなかにあった、ひとつの“気配”。
イレーネ。
名を呼ぶことはせずとも、娘の姿は脳裏に焼き付いていた。
ラグナ=クローディアと踊る彼女の表情。言葉にはならない、けれど確かに胸の奥にある温もりのような感情が、あの夜の彼女の中に息づいていた。
ほんの一歩、近づく足。
ほんの一瞬、ためらう手。
視線を交わすたびに、幼いころの娘の姿と重なって――
そして今、その視線の先には、“御使い”と称される青年がいた。
マグダレーナは、ゆっくりと匙を皿に戻した。金属が磁器に触れる音は、かすかに、しかし静寂のなかで確かな響きを残す。
続けて、カップを取る。唇に触れる前に、ふと――笑った。
ほんのわずかな、けれど確かに何かを決めた人間の微笑。
「……あの子が、あのように心を寄せるとは。ならば、わたくしも――動かねばなりませんね」
そう呟いた声には、何の押しつけもない。ただ、柔らかく、静かで、けれど間違いなく強い意志を含んでいた。
娘は恋をしたのかもしれない。
けれどその相手は、“この世界に属さぬ者”。
人ではあるが、人の規律に囚われぬ者――理に選ばれ、世界に降りた存在。
だからこそ、母として、王妃として、見過ごすわけにはいかなかった。
イレーネの心がただの憧れであるのなら、やがて風のように過ぎ去るだろう。
だが、もしそれが“意志”であるのなら――娘が歩みたいと願う未来であるのなら。
それを知り、受け止め、そして時には護らねばならぬ。
そうして王妃は、銀のカップを口元に運び、ひと口、ゆっくりと啜った。
仄かな香草の香りが、喉を通り抜ける。
やがて、瞳がわずかに細められる。
その眼差しはもう、ただの母のそれではなかった。
そこには王妃としての冷静な視点と、王国を見守る者としての静かな覚悟があった。
「主様、御使い――ラグナ=クローディア。
貴方は、この世界に何を残そうとしておいでなのかしら」
小さな囁きは、朝の静寂に溶けていった。
その日、マグダレーナは、朝の執務を終えると、侍女長だけを静かに呼び寄せた。
部屋は、陽の傾きはじめた午後の光に包まれていた。
窓辺に揺れる薄布のカーテンの向こう、風に揺れる木々の葉が、柔らかな影を壁に落としている。
王妃は、背もたれの深い椅子にゆるやかに身を預けたまま、机の上にある銀の羽根ペンを指先で転がしていた。
そして、ひとつ呼吸を整えると、いつものように静かに――けれど明らかに、意味を持った口調で、口を開いた。
「……ひとつ、お願いしたいことがございますの。
わたくしからの言葉であると、どうしても“探り”の色が濃くなってしまいます。
だからこそ――貴女に、頼みたいのです」
その声に、侍女長は軽く頭を下げる。
王妃がこのような頼みを口にするのは、ごく稀なことだ。続く言葉に、深い意味があることを直感で悟っていた。
「王女の、最近のご様子について――少し、詳しく知りたいのです」
言葉は簡潔だった。
だが、その奥には、母としての気遣いと、王妃としての計算と、何より“覚悟”が込められている。
マグダレーナは視線を少し落とし、カップの縁にそっと指を添えた。
まるで、自らの想いを、静かに調律するかのように。
「……イレーネがね、昨夜の舞踏会で――ほんの一瞬ですが、心の色を変えたのですよ。
いつもの子どもらしい慎みでも、礼節でもない、もっと――自らの意思で伸ばした手。
誰かを求めていた、あの目の光を、私は……見逃せませんでした」
カップを置く音が、控えめに響く。
王妃は目を閉じ、わずかに首を傾けて続ける。
「貴女も、もうお気づきかもしれませんね。
あの御使い――ラグナ=クローディア殿。
この世界にとって特別な存在であることはもちろん、あの子にとっても……何か、大きな意味を持ち始めているように思えるのです」
再び目を開いたとき、その瞳は静かに、しかし確かな意志を灯していた。
「それが、恋なのか、憧れなのか。
あるいは、娘自身も気づいていない“未来への選択”なのか。
――母として、知っておきたいのです。
そして王妃として、“間違った交わり”にならぬよう、目を配らねばなりません」
ここで王妃は身を起こし、侍女長の方を真っすぐに見つめた。
その声には、これまでよりわずかに柔らかさが加えられる。
「ですから……どうか、自然に、風のように。
決して不安を煽ることなく、けれど確実に――主様の神殿での様子を。
そして、セラフィナ殿との距離感や、王宮での振る舞い。
あの方が、誰の言葉に耳を傾け、誰のそばで時を過ごすのか。
それを、そっと……拾い上げてほしいのです」
最後に、微笑みを浮かべながら、こう付け加えた。
「これはあくまで、“心配をする母”としての、ほんのささやかな願い――そうお考えくださいませ」
その微笑は、氷のように冷たくもなければ、炎のように熱くもない。
けれど、その中には**「王妃」という立場のすべてを背負う者の、確かな重み**があった。
侍女長は膝を折り、頭を深く垂れる。
「畏まりました。すべて、風のように――静かに進めてまいります」
その返答を聞いた王妃は、ようやく一息、息を吐き、再び椅子に身を沈めた。
指先は再び、無言で羽根ペンを弄びはじめる。
イレーネの未来が、どこへ向かうのか。
それを見極めるための、静かな準備は、すでに始まりを告げていた。
夕暮れどき、マグダレーナは静かに筆を取った。
王宮の執務室の奥、蝋燭の灯が揺れる机上には、封蝋も紋章も施されていない、素朴な羊皮紙が一枚だけ置かれている。
それは、公式な命令書ではなかった。
けれど――王妃の心の奥から綴られる、誰よりも真実に近い問いがしたためられる便りだった。
彼女が宛先に選んだのは、セラフィナ・リュミエール。
アマディウス神殿に仕える侍神女。主に仕え、ただひとり静かにその傍にある者。
マグダレーナは、かねてよりセラフィナのことを「清らかである」と評していた。
それは信仰の上の美徳というよりも――人としての誠実さ、そして見る目を持った者への敬意から来る言葉だった。
感情に溺れず、けれど見逃さず、
権威に縛られず、けれど秩序を乱さぬ――
その絶妙な距離感と眼差しを持つ巫女。
だからこそ、尋ねる価値があった。
母としてではなく、王妃としてでもなく、ひとりの“名を持たぬ女”としての問いを、彼女に託す。
羊皮紙に書かれた文字は、やや小さめに整えられていた。
読み手の心に、波紋のように静かに届くよう、文言の選び方にも慎重な思慮が込められている。
セラフィナ・リュミエール様
このたびは、貴女のお勤めに深い感謝を申し上げます。
王宮にて、御使様と王女がともに踊る光景を、
わたくしはただ静かに見つめておりました。
……そして、ひとつだけ、貴女にお尋ねしたいことがございます。
どうかお訊ねくださいませ。
主様が歩もうとする道は、どこへと通じておいでなのでしょうか。
そして、その道に、我が娘は寄り添うことを赦されるのか――と。
この問いは、答えを急ぐものではございません。
けれど、主様の歩みを、最も近くで見届けておいでの貴女にだけ、
訊ねることが許される問いであると、わたくしは信じております。
最後に、名前も印も記さず、王妃は筆を置いた。
封蝋もなく、ただ布に包まれたその便りは、信頼できる侍従の手によって神殿へと送られることとなる。
それは、命令でも勅命でもない。
ましてや干渉の意志でもない。
――ただ、願い。
母として、知りたいという願い。
王妃として、先を見据えたいという願い。
そして、ひとりの人として、未来を預けるに足る何かを確かめたいという――静かな祈り。
セラフィナがこの書を手にする頃、王妃はすでに窓辺に佇み、遠く王都の灯りを見つめていた。
夜風に髪が揺れるなか、彼女は独り言のように、口元でそっと言葉を紡いだ。
「主様……どうか、我が子に、歩める未来を。
争いではなく、奪いでもなく――寄り添うことを、選ぶ機会を……」
それは、風に乗って誰にも届かぬ囁きだった。
けれどその音なき祈りは、確かに“今”という時間の中に刻まれていた。
マグダレーナは、神殿への手紙を書き終え、陽が少し傾きかけた頃――
彼女は一人、自室の奥にある書記室へと足を運んでいた。
王妃専用に設えられたその小部屋は、
高窓から差す光は金色を帯び、無数の文書と記録が眠る棚に、古き時代の埃と記憶を浮かび上がらせていた。
部屋の空気は澄んでいたが、少しひんやりとしている。
王妃は息を整えると、机の上に丁寧に並べられた羊皮紙と冊子を、ゆっくりと手に取った。
それは――御使ゼル=アマディウスに関する、最古の写本。
そして、その傍らには「災い」とのみ記され、名も定かではない存在に関する、断片的な記録群が添えられていた。
彼女は無言のまま、指先で一枚一枚、書き綴られた頁をめくっていく。
筆のかすれ、補筆の跡、語り継がれぬ断絶の間にこそ、歴史の真実が潜んでいる。
それを知る者であった。
「……ゼルと呼ばれし者は、断絶をもたらし、秩序を整え、姿を消した。
ならば、その“対”となった存在とは――何をもたらし、何を遺したのかしら」
その問いは、記録の行間には答えられていない。
けれど、彼女の中には、形にならない感情がゆっくりと芽吹いていた。
それは、名を奪われた“災い”に対する、奇妙な同情。
そして、哀れみとも呼べぬ、どこか――母性に似た感情だった。
記された内容は、概して断片的で、不完全だった。
「魔族の王として君臨し、御使によりその身を断たれた存在」
「魂を集め、理を歪める者」
「信仰の対象となりかけ、人の心を揺るがした影」
彼女は一冊を閉じ、そっと胸元に手を当てた。
瞼を閉じると、そこに浮かぶのは――昨日の夜、舞踏の中で誰かに歩み寄ろうとしたイレーネの姿。
娘の手が誰かの背に添えられることを、彼女は止めはしなかった。
だが、同時に思ったのだ。
――もし、イレーネが「選ぶ」という道を歩んだとしたら。
その道の果てが、過去に名を失った“災い”と同じであったとしたら。
その時、自分は母として、王妃として、何を与え、何を遺せるのか。
その問いを胸に秘めたまま、王妃は、室内に控えていた書記官を静かに呼び寄せた。
「……この記録群を、すべて読み直してください。
特に――御使ゼルと、その断罪の対象に関する記述。
年代、筆者、神殿との関係、矛盾や曖昧な記述があれば、すべて傍注に。
言葉の意味が曖昧なものは、言語の変遷を確認のうえ補記を加えてください」
書記官は静かに頭を垂れる。だが王妃の命は、それだけでは終わらなかった。
「……これは、誰かを裁くためのものではありません。
ましてや、伝承の正誤を決めるものでもございません。
これは“これからを生きる者のために、過去から何を引き継ぐべきか”を見極めるための作業です。
わたくしは――真実だけを、残したいのです。
未来に向き合う覚悟を持つ者のために」
そうして、王妃は再び文書に目を落とす。
手にした古い一冊を、今度はそっと抱くように持ち直した。
光が傾き、書記室の窓から夕日が差し込む。
やがて王妃は、静かに、しかし確かに心に誓うように呟いた。
「……娘よ。もしあなたが、その背に、誰かの重さを受け入れようとするなら。
母として、私はその意味を知りたい。
そして王妃として――その未来を、護る盾となりましょう」
その横顔は、柔らかな光の中に沈みながらも、揺らぐことなく前を見据えていた。
記録の整理は、過去への執着ではない。
それは、まだ名も形も持たぬ未来への――静かな、王妃の布石であった。
その夜。
王妃マグダレーナ・エルディアンは、すべての灯を落とした私室の窓辺に、ひとり静かに佇んでいた。
重ねた衣の裾が、風にかすかに揺れる。
開かれた窓からは、
手には何も持たず、ただ胸元に両の掌を添え、目を閉じる。
日中、侍女長に指示を与え、神殿へ書を託し、書記室で記録を紐解いた。
その一つひとつの行いは、決して表立つことのない慎ましき動きだった。
けれど、彼女にとってはどれも――
王妃としてではなく、母としての手のひらで編み上げた、細くも切実な祈りの糸だった。
夜風が頬を撫で、遠くで鈴虫が鳴く。
その音に導かれるように、マグダレーナは静かに、そしてゆっくりと言葉を紡いだ。
誰にも聞かれることのない、けれど確かに世界に向けた“独り語り”。
「……娘よ。イレーネ。
あなたが今、心のどこかに灯している光が、
憧れなのか、それとも生きる道を照らすものなのか――
母には、まだわかりません」
そっと目を開ける。瞳に映るのは、漆黒の空に滲む星々。
その中のどれかが、ラグナという名の星なのかもしれないと、ふと思う。
「けれど、もし……もしあなたが、
その方の隣を歩みたいと、本当にそう望むのなら。
わたくしは――あなたの歩みを、止めはいたしません」
声には、揺るぎのない柔らかさがあった。
愛しき娘の背を支えること、それは母として最も自然な願い。
だが、次の言葉には、母性と王家の重責とが交錯するような、深く沈んだ響きがあった。
「ただ、どうか知っていてくださいませ。
“御使い”とともに在るということ――それは、
ただ傍に在るだけでは成り立たぬ運命です。
その方は、この世に祝福とともに降り立たれました。
しかし、祝福はときに代償を伴い、選ばれる者には、重さもまた与えられる。
……それが理の環であり、神託の形であり、そしてこの世界の在りようなのです」
胸の奥に置いてきた想いが、ひとつ、言葉になる。
それは誰にも届かない祈りでありながら、まるで天に還すような清らかな響きだった。
「あなたが、ただ“愛する”というだけで、その重さに耐えきれるとは思っておりません。
でも、もしその“重さ”すら抱いて歩む覚悟があるのなら――
母として、わたくしは、どんな道であっても、その背を支えましょう。
王妃として、あなたの選んだ未来を、王国の柱として繋ぎましょう」
風がそっとカーテンを揺らし、星が微かに瞬く。
マグダレーナは目を閉じ、最後に、誰にも聞かせることのない言葉を、胸の奥からそっと解き放つ。
「……それでも願わくば、あなたが選ぶ道が、
どうか争いではなく、奪い合いでもなく、
寄り添い、分かち合うものでありますように。
その手が、いつか離れるとしても――
その瞬間まで、穏やかなぬくもりに包まれていてくれることを……」
そうして、王妃はゆっくりと窓を閉じた。
木枠がぴたりと合わさる音が、夜の静寂に溶けていく。
振り返ったその瞳は、眠りに入るには早すぎるほど澄んでいた。
その背には、母として、王妃としての沈黙の覚悟が、確かに刻まれていた。
───アマディウス神殿
神殿のさらに奥、参詣者の靴音も届かぬ静域に、「観環室(かんかんしつ)」はある。
その扉には神の像も聖人の名も刻まれていない。円のみ――髪の毛ほどに細い線で描かれた、一重の環。それはこの部屋の目的を端的に示す印である。祈りを捧げるのでも、命じるのでもない。ただ、理(ことわり)の環を「聴く」ための場所だというしるし。
内へ入ると、空気はひんやりとして清潔で、香の匂いさえ抑えられている。音を吸うように仕上げられた石壁は淡い灰白で、壁面の継ぎ目をなぞるように細い銀線が走る。銀線はやがて天井の低い半円蓋へと昇り、そこでもう一度、目に見えぬほど微細な刻印と結び合う。いずれも眩耀はなく、ただ静かに、世界のどこかを流れる“基準”とこの場所とを結び付けている。
部屋の中央には、円形の水晶盤が床と同一面に据え付けられている。直径は成人の両腕を広げたほど。盤の表層はまるで浅い水面のように滑らかで、光を宿す時だけ、薄氷越しに見える水脈のような模様が浮いたり消えたりする。地理の地図ではない。ここに映るのは、世界を満たす魔素と理の流れの“相(そう)”、つまり脈動の位相であり、濃淡である。
水晶盤の上方、ちょうど人の胸の高さには、直径一尺ほどの金属の輪が水平に浮かんでいる。共鳴環と呼ばれる装置で、淡い音も色もないまま、水晶盤に現れるわずかな揺らぎを受け、触れずに「測る」。環の縁には古い式文が至って簡素な書体で刻まれているが、これは術を発するための呪句ではない。秩序を乱さぬために――聴く側が余計な波を立てぬために――“沈黙を保つ契約”を自らに課すための、戒めの条文である。
周囲を囲むのは四つの作業卓。どれも背の低い引き出しを備え、紙片、薄板、記録用の羽根筆、滴る水で時を告げる水鐘が整然と並ぶ。水鐘はこの部屋の唯一の規則正しい音だ。ぽとり、ぽとりと落ちる水滴が、観測の刻を均していく。卓には今日の日付と第何刻の観測かを示す薄板が差し込まれ、担当の記録官と修導官が、交わす言葉を最小限に抑えながら席に着く。彼らは祈る者ではあるが、この部屋ではまず聴く者であることが求められる。観環室が守る第一の規律は、「観測は調律に先立つ」。先に聴き、ただちに動かない。反応は、傾向が確かめられてからでよい――ゼルの時代に定められ、今日まで改められなかった規律だ。
観環室の意義は三つある。
ひとつ、世界の理の“平常”を記憶すること。平常を知らなければ異常は測れない。
ひとつ、異変が災厄であるか、季節であるか、人為であるかを見分ける素地を蓄えること。揺らぎそのものは善悪を持たない。意味を与えるのは、文脈である。
もうひとつ、聴く者自身が世界に波を立てぬよう、沈黙の技法を鍛えること。ここでなされる一切の操作は、祈りの増幅でも干渉でもなく、校正と記録である。
――像を祀らぬ神殿にふさわしく、観環室は支配の場所ではない。秩序の聴取と記譜の場所なのだ。
この日も、定例の観測は淡々と進む。水晶盤の縁に置かれた小さな基準石が、ごく低い脈で部屋全体の感覚を整え、共鳴環はそれに合わせて微細な位相を保つ。記録官は羽根筆を構え、修導官は銀線の接合点を一巡り確かめる。天井の半円蓋には、巨大な天井画はなく、ただ細い同心円が三重、四重と刻まれ、見る者の意識を中心へと静かに戻していく。人の息遣いが浅く、均しくなる。水鐘の音が、またひとつ落ちる。
やがて――。
水晶盤の奥で、糸の先に生まれたほどの、ほんの一拍だけの濃淡が揺れた。盤面に張りめぐらされた見えない“潮”の、微かな逆流。共鳴環は音も色も立てずに、それを受け、わずかに沈み、元に戻る。記録官は眉を上げもせず、しかし定められた符でその瞬間を記す。濃度:+1/位相差:微/持続:瞬。修導官は銀線の針路に狂いがないことを確かめ、水鐘の下に置いた刻札へ、今の“呼吸”の番号を差し替える。
誰も騒がない。ここはそういう部屋だ。
観環室は、世界のさざ波に先に名を与えない。名は、時と照合と、他所からの報せが揃ってから与えられる。だからこの揺らぎも、今はただ一つの記譜として静かに積み重ねられる。祈りの間と廊下一本隔てただけの場所でありながら、この部屋は「願い」よりも「聴き取り」を尊ぶ。
世界の理に先回りして語らず、ひとつの呼吸の違いを、ただ正確に覚えておく――観環室の価値は、まさにそこにある。
半透明の水晶盤は、今まさに大気のように澄みきった静けさを保っていた。
盤の表面には、目に見えぬほど微細な線条が浮かび上がり、まるで地上の風や水脈の流れを模したかのように淡く蠢いている。それは世界各地を巡る魔素の動向を縮図のように映す光――淡黄や緑、稀に白銀色がひと筋だけ交わることもある。観測官たちはその光の濃淡や消長を、定められた符号に従って記していく。羽根筆の先が紙に擦れる音が、この部屋でただ一つ、人の営みを示す音であった。
そのときだった。
規則正しく流れていた線条のひとつ――中央大陸南方を象徴する淡い緑の帯が、不意に呼吸をするように脈動した。
一瞬、心臓が余計にひと拍打ったかのような、極めて短い揺らぎ。色合いが僅かに濃くなり、すぐに戻る。だが戻りきるまでのほんの刹那、盤全体の調和が微かに乱れ、周囲の光の流れまでも細く震えた。
共鳴環がわずかに低く沈む。目に見える動きではなく、観測している者にしか分からないほどの、ごく小さな“重み”の変化。
記録官は息を呑まず、定め通りに筆を走らせた。
「南方域・濃度一段上昇・位相差微小・持続瞬間」――冷徹な記号が紙に残される。
修導官は眉を寄せ、銀線の接点を確かめつつ囁いた。
「……外因か、あるいは……」
声は消え入るほど低い。だがそれだけで、水晶盤に広がった静謐はひとしきり緊張を孕んだ。
次の水滴が水鐘から落ちる頃には、盤面は再び安定を取り戻していた。
流れは再び緩やかに、何事もなかったかのように巡っていく。
しかし記録の符号は確かに残り、この日の観環室に居合わせた者たちの心にも、“一度だけ理が揺らいだ”という感覚が静かに刻み込まれていた。
観環室の重い扉が静かに開かれた。
しんと張り詰めた空気の中、白銀の髪を後ろへ流した長身の影が歩み入る。その存在だけで、室内の灯りが一段と厳かに見える。神官長レメゲトン・ヴァルトリエである。
彼は一歩ごとに音を立てぬよう進み、中央の水晶盤に近づいた。共鳴環の下に立つと、深い翠色の瞳が淡く輝き、盤面をひと目見ただけで、その変化を察知する。
「……なるほど」
彼の声は低く、それでいて奥深く響いた。
「ごく微弱ではあるが、確かに“層”へ触れる感覚があった。理の大河に石が投げ込まれたのではなく、むしろ内側から――ひと粒の息が波を立てたような……。記録官よ、この揺らぎはいつ発生したと記している?」
記録官は慌てることなく、筆録を捧げ持ち、深く頭を垂れる。
「はい、神官長。今朝、第七刻、午前の訓練時間帯に一致いたします。南方域にて、濃度の一段上昇、位相差は微小、持続は瞬間にとどまりました。符号はすでに記録してございます」
レメゲトンは小さく目を閉じ、数息分の沈黙を置いた。やがてゆっくりと瞼を開き、盤面を見据えたまま言葉を紡ぐ。
「……午前の訓練――。それは、御使殿が基礎術を学んでおられる刻と符合するはずだな」
傍らに控えていた上席神官が、慎重に頷いた。
「はい。修導官サリウスより報告を受けております。本日は初歩的な術の発動を試みると……。まさか、その際にここまでの揺らぎが現れるとは」
レメゲトンは口元に淡い笑みとも沈痛ともつかぬ表情を浮かべた。
「驚くには及ばぬ。御使とは、そもそも理の層に近き者。その身に宿る呼吸が、そのまま環を震わせることもあろう。むしろ、これほど微かに留まったことを幸いと見るべきかもしれぬな」
上席神官が一歩前に出、声を低める。
「しかし神官長……この揺らぎ、ただの訓練による偶発とは思えませぬ。どこか……“呼応”に近いものを感じました。外因の兆しかと」
その言葉に、レメゲトンはわずかに眉を上げた。
「呼応、か……。ふむ。理の層に揺らぎが生じたとき、必ずしもそれは一方からの働きだけとは限らぬ。大河に投じられた石が波を起こすと同時に、川底の岩もまた共鳴するように……。その懸念は、記録に留めよ。ただし今は騒ぐ時ではない」
そして、集う神官たちをゆっくりと見渡した。
「肝要なのは、事象を見逃さぬこと。そして、名を与えるのを急がぬことだ。異変を“災い”と呼ぶのも、“兆し”と呼ぶのも、後の世の解釈にすぎぬ。今の我らに許されているのは――ただ記し、ただ待つことのみ」
記録官たちは一斉に深く頭を垂れ、その言葉を胸に刻むように沈黙した。
最後に、レメゲトンはセラフィナの名を静かに呼んだ。
「侍神女セラフィナに伝えよ。もし主様が訓練の折に何かを感じ取られたご様子があれば、些細なことであろうと報告を怠るなと。……時に、かすかな揺らぎこそが、未来を形づくる端緒となる」
そう言い残し、彼は背を向けた。衣の裾が床を擦る微かな音だけが観環室に残り、やがて再び水鐘の音が室内の唯一の律動となった。
神殿の回廊を渡る夕光が傾きはじめたころ、観環室からの報せが静かにセラフィナのもとへ届けられた。使いに来たのは上席神官の一人で、その声音には大げさな抑揚はなく、あくまで淡々と、しかし確かな意味を帯びていた。
「侍神女セラフィナ。神官長よりお言葉を預かっております。
――“もし主様が訓練の折に、何かを感じ取られたご様子があれば、些細なことであっても必ず知らせよ”とのことです」
その言葉を聞いた瞬間、セラフィナは胸の奥がふと揺らぐのを覚えた。
表情は変えず、深く一礼して答える。
「……かしこまりました。必ずや、細事といえどお伝えいたします」
上席神官が去り、足音が遠ざかると、回廊には鳥の羽ばたきのような静寂だけが残った。白い石床に差し込む夕陽が橙の帯を描き、その中にセラフィナはただひとり佇んでいた。
彼女は胸の前で両の手をそっと組み合わせる。
「やはり……」
心の奥で、言葉がゆっくりと立ち上る。
「主様のお歩みには、もう新たな影が寄り添い始めている。揺らぎは小さくとも、それは確かに呼応の徴……。理が静かに応えた証に違いない」
瞼を伏せると、訓練場で見守った主の姿が脳裏に浮かんだ。まだ初歩にすぎぬ灯りの術――それでも、主様の声が理へ触れた瞬間、空気は確かに震えた。あの震えは偶然ではなく、もっと深いものから来たのではないか……。
「主様が感じたかどうか、その表情だけでは分かりませんでした。けれど、あの瞳の奥にほんの一瞬、戸惑いの影が揺れたように……」
彼女は小さく息を吐き、視線を夕空に上げる。
空は赤と紫の狭間に染まりつつあり、遠くで鳩の群れが旋回していた。その光景が、どこか「兆し」を象徴するかのように見える。
「影とは、必ずしも災いではない。けれど、歩む方にとって避けがたい重みとなることもある。……それでも私は、寄り添う者としてその道を見届けましょう」
胸に宿した決意をそっと押し隠すように、セラフィナは裾を整え、静かに歩みを進めた。彼女の足取りは迷いなく、しかしその心の奥底には、まだ誰にも語れぬ不安と期待が、複雑に絡まり合っていた。
───魔族領
魔族領の大地は、かつてゼルが大渓谷を刻み、理の断絶によって外界と隔てられた土地である。そこに流れる魔素は、人族の住まう大陸よりも濃く、時に荒々しく、時に豊饒な力として息づいていた。しかし――その呼吸が、ここしばらく妙に乱れはじめていた。
ある沼地では、夜明けとともに濃霧のような魔素が立ち込め、鳥すら飛ばぬ空気を生み出していた。普段は淡い光を帯びて漂うだけの霧が、まるで脈打つように濃淡を繰り返し、草木の葉は必要以上に黒ずんで揺れている。逆に、隣接する丘陵地帯では、かつて繁茂していた魔草が青白く色を失い、地の底を流れる力が急に痩せたような印象を与えた。ほんの一夜で、魔素の濃淡が不自然に入れ替わる――それは地形の変化や季節の巡りでは説明できぬ現象だった。
魔獣たちも落ち着きを失っている。
山中に棲む二首狼は、これまで縄張りを決して離れなかったが、近頃は峠を越えて村落近くまで姿を現すようになった。逆に、森に群れを成して飛び交っていた魔蝙蝠は、どこかへ姿を消し、洞穴の奥深くに籠もって出てこない。狩人や放浪者たちは、この不安定な気配を察し、焚き火の傍で囁き合う。
「魔素が荒れている……大地の呼吸がおかしい」
その言葉に、誰も反論しない。ただ剣を握る手が強張り、次の夜が来ることを恐れながらも、どうしようもなく待つしかなかった。
そして――こうした揺らぎを最も敏感に捉えるのは、魔族の中でも長命の者たちであった。
ある老いた魔女は、黒曜石の窓辺に腰掛け、長い指で糸を撫でながら低く呟く。
「……懐かしい響きだ。忘れ得ぬ、あの時代の波……」
彼女の視線は遠い過去、かつて大渓谷が裂ける前の混沌の記憶に向かっていた。
また別の妖精種の古老は、夜空に羽ばたきながら空気の振動を聴き取り、仲間にこう告げた。
「理が、応えている。誰かが触れ、誰かが呼びかけている」
彼らにとってそれは畏怖と同時に郷愁でもあった。理の流れが見せた“どこか懐かしい波形”は、安寧を意味するのか、災いの再来を告げるのか――その答えを知る者はまだいない。だが、確かに世界の奥底で、長き眠りについていたものが静かに揺れ始めていた。
───W.S.S.部室
昼下がりのW.S.S.部室は、いつものように空気が雑多に混ざり合っていた。窓際から差し込む陽射しは柔らかいが、机の上はとても学園の部室とは思えないほど散らかっている。印刷した観測ログ、波形を出力した紙束、飲みかけのペットボトル、そして主役のように鎮座する唐揚げのパック。油の匂いが漂い、機材の発する低い駆動音と入り混じって、不思議な“部室の匂い”を作っていた。
坂間は、空になりかけた唐揚げパックを覗き込み、眉間に皺を寄せた。
「……おい、あと一個じゃねぇか」
口を尖らせて名残惜しそうに手を伸ばす。その仕草は、戦場の指揮官というより子どもが駄菓子を死守する姿に近い。
だがその指先が届く寸前、亜美の箸が素早く滑り込んだ。
まるで待ち構えていたかのような動きだった。
「……あ、取った」
坂間の声は半ば悲鳴じみていた。
亜美は涼しい顔で唐揚げをつまみ上げ、ひらひらと軽く振ってみせる。
「気のせいじゃない? 美味しいものは独り占めするんじゃなくて、皆で分け合うものよ」
「いやいやいや、分け合うも何も、もう分ける余地がねぇだろ! 俺のラスト一個だったんだぞ!」
坂間は必死の形相で訴える。
亜美はわざとらしく唐揚げを口元へ近づけ、わずかに噛むように見せては止める。
「……んー、香ばしい匂い。揚げたてを最後に味わえるなんて、幸運だわ」
「やめろぉ! それ俺の楽しみを盗んでるだけだろ!」
坂間が身を乗り出すと、唐揚げを持つ亜美の箸がひらりと逃げ、まるで猫にからかわれているかのようだ。
その様子を、康太は向かいの椅子に腰かけ、呆れ半分で眺めていた。
「……先輩たち、唐揚げひとつでそんな真剣になれるの、ある意味すごいっすよ」
軽口を交わす声が重なり、機材の低い稼働音をかき消して部室に響いた。
ただの昼休みの一幕――けれどその笑いの裏には、モニタに映し出された微かな“異常”が、じっと息を潜めていた。
だが次の瞬間――。
モニタに映し出された波形が、不意に形を変えた。これまで緩やかに流れていた数値の揺らぎが、ひと呼吸ぶんだけ強く脈打ち、その鼓動を残すように光が滲んだ。
「……?」
亜美が眉をひそめるより早く、坂間の手が止まった。指先にはまだ唐揚げが摘まれたまま。しかし視線は完全にモニタに釘付けになり、ふざけた色はみるみる消えていった。部室の空気が一変する。機材のファンの回転音だけが、やけに大きく響いて聞こえた。
普段なら何気なく流し見して終わるはずの微細な数値。だが、今のそれは違った。
規則正しいはずの数列の中で、ひとつの揺らぎが生き物の鼓動のように見えたのだ。まるで遠いどこかで巨大な心臓が一度だけ鳴り、残響がモニタを通じて伝わってきたかのように。
坂間の喉がごくりと鳴る。唐揚げを持つ手は固まったまま、彼は低く呟いた。
「……南方域。魔素濃度、脈動あり……。これ……懐かしい、なんて言ったら変かもしれんが」
“懐かしい”。その言葉に、亜美の箸が空中で止まった。
先ほどまで茶化すように笑っていた口元が、すっと引き締まっていく。瞳の奥に浮かんだ色は、恐れか、それとも確信か。
「……似てる」亜美の声は小さく、それでいて重かった。
「ゼルが断ち切った後に、何度か観測された“残響”に……。これ、もしかして――」
だがその先の言葉は喉で途切れた。
言い切ってしまえば、ただの仮説が現実の名を帯びてしまう。
部室に唐揚げの匂いと共に沈黙が落ちた。
坂間は腕を組み直し、深く息を吐いた。吐き出した空気には、言葉にできない重さが混じっている。
「……俺は疑う」
短い言葉が、唐揚げの匂いに満ちた部室を一瞬で冷えさせた。
「もしこれがルナの再活性の兆しなら、見過ごすのは危険だ。兆しを兆しのうちに捉えなければ、次は……取り返しがつかなくなる」
彼の声は硬質だったが、わずかに震えもあった。
強がりの鎧の下で恐れが蠢いているのが、聞く者にも伝わる。責任感が彼を突き動かしているのか、それとも恐怖に駆られているのか――本人すら判別できない。
机の上に置いた拳は固く握られ、血の気が引くほどに白かった。
康太は二人の先輩のやり取りを黙って見つめていた。
沈黙の間、彼の耳には機材の駆動音と時計の秒針だけが規則正しく響いていた。まるで世界全体が会話の続きを待っているかのように。
やがて彼は小さく肩をすくめ、苦笑を浮かべた。
「……先輩たち、落ち着きません?」
努めて柔らかい声色だったが、その裏にある冷静さは隠しようがない。
「南方の魔素は昔から不安定でしょう。濃くなったり薄くなったり、ちょっとした要因で揺れる。似てるってだけで“ルナだ”って断定するのは……ちょっと飛躍じゃない?」
言葉は穏やか。けれど彼の瞳の奥には別の光が宿っていた。
それは軽口で流すための笑みではない。
むしろ、先輩たちの焦りを見抜いたうえで「だからこそ、冷静に観測するべきだ」と告げる静かな意志。
後輩である彼があえて緊張を和らげる役を担っている――そんな逆転した力関係が、今この場の空気をかろうじて保たせていた。
「……それに」康太は机の端に転がった空の唐揚げパックを指先でつつき、片手で缶コーヒーを開けながら続けた。
「二人共、さっきまで食い物の取り合いしてたのに、その直後には“世界の命運”とか言い出すし。冷静に考えると……だいぶシュールですよ」
金属のプルタブが鳴り、ほろ苦い匂いが油の残り香に混じった。
その何気ない動作に、亜美が思わず吹き出してしまう。緊張で張り詰めていた頬が緩み、笑い声が小さく部室に響いた。
坂間も観念したように肩を落とし、溜息を吐きながら口元を緩める。
ほんの短い間だけ、重く沈んでいた空気が和らぎ、三人の間に温度差のある笑みが流れた。
だがモニタに映る波形は変わらずそこにあり、淡々と光を刻み続けている。
笑いは確かに緊張を和らげたが、それは幕間の休息に過ぎない。
画面に揺れる脈動の奥底には、まだ正体を与えられぬ“影”が息を潜めており、誰もが心のどこかでそれを意識していた。
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