第12話 ルナ=ウルメナ

数人の侍従に先導されながら、そのまま静かに王宮内の一角へと歩みを進めていく。白壁に蝋燭の灯が揺れ、足音だけが遠ざかる宴の気配を縁どっていた。


案内されたのは、王宮の南翼、貴賓のために設けられた特別室。〈黎明の小庭〉に面したその部屋は、優美な調度と静けさを湛え、まるで時が緩やかに流れているかのような空間だった。


部屋に入ると、侍従は深く一礼し、扉を閉めて去っていく。


ラグナは、そっと息を吐いた。


それは、舞踏会での視線の熱気でも、王族との丁寧な対話でもなく、自身の中に降り積もるもの――それらを一度、静かな夜の空気の中に流し出すような、微かな解放の息だった。


夜の部屋にて──揺らぎと問い


椅子に腰を下ろし、ラグナは膝に置いた手を見つめた。指先にはまだ、イレーネと交わしたダンスの感触が残っていた。そしてその前、セラフィナと目を合わせたときの淡い感情も、胸の奥で灯のように揺れている。


「……私は、この世界において何者なのだろう」


ぽつりと漏れたその呟きは、誰にも聞かれることのない静寂へと溶けていった。


王に迎えられ、王妃に言葉をかけられ、王子と剣について語り、王女と舞を踊る――


自分が望んだわけではないにもかかわらず、目の前に差し出されてゆく人々の期待と関心。そのすべてに応えなければならないというわけではないと、理屈では理解していた。


だが、それでもなお――


「……私は、ここにいて、良いのだろうか」


掌を見つめながら、ラグナは思う。何も知らずに現れたこの地で、神の御使いと呼ばれ、畏敬を寄せられ、王たちすら礼を尽くす存在として扱われている。


けれど、彼自身は未だ何者でもない。ただ選ばれ、送り出された者。名を持ち、姿を与えられ、記憶のないまま降り立った者にすぎない。


その“空白”が、今夜のような静かな時間の中で、重くのしかかってくる。




ベッドの上

寝具に身を沈めてからも、なかなか眠りは訪れなかった。


天蓋の垂れ布が夜気に揺れ、窓辺には小庭の草木が風にそよぐ音が微かに響いている。


まぶたを閉じれば、舞踏会の場がありありと浮かぶ。


足元に集う貴族たちの視線、名を呼ぶ声、興味と警戒と希望が入り混じったあの空気。手の中に感じた温もりとともに、そこには“期待”という名の重さがまとわりついていた。


(……もし、あの時の微笑みに応えられなければ、私は――)


“誰か”になることを求められているようで、しかしそれに応えるだけの「自分」が、まだ何も見つかっていない。


それが、ラグナにとってこの夜最大の悩みだった。


どのような言葉を選ぶべきか、どのような在り方を貫くべきか。


王族たちのように誇り高く?

セラフィナのように誠実に?

それとも、もっと別の何かとして――


答えはまだ、見つからない。


けれど、心の奥底にひとつだけ、小さな確かさがあった。


それは、


「私は、この世界で――ただ“生きたい”。一人の人として」


という、静かな願いだった。


それがどのような意味を持つのかは、まだ分からない。


けれど、その答えを探しに行こうと思えること自体が、今の彼にとっての第一歩だった。



───



 ――夢を見ていた気がする。

 けれど、その内容は目覚めと共に静かに霧散していった。


 ラグナは、ゆっくりと瞼を開けた。


 重厚な天蓋が取り払われたベッドの上、目に映ったのは、やわらかな紗幕越しに広がる蒼の空気。

 窓はまだ開かれていない。けれど、その隙間から漂ってくる空気には、どこか微かな草の匂いが混じっていた。


 身体を起こすと、掛け布の上に薄く冷気が降りていたことに気づく。

 それはもう、夜の残り香ではなく、朝の静けさが始まりかけている証だった。


 


 まだ誰も、来ていない。


 


 従者の足音も、扉を叩く気配もない。

 まるで、世界そのものが息を潜めて、ただ彼の目覚めを待っていたかのようだった。


 


 ラグナは、足を床に下ろした。

 冷たさはほんのわずかで、むしろ“確かに今この場所にいる”という感覚を足元から伝えてくる。


 扉の方へ歩み寄ると、その向こう側から――香りが、届いた。


 清々しい空気。濡れた石。わずかに甘い草花の香。

 それらは、呼ぶ声のように彼の意識に染み入ってくる。


 


「……あそこに、行ってみたい」


 


 誰に問うでもなく、そう小さく呟いて、ラグナは静かに扉を開けた。


 音を立てぬよう慎重に。

 王宮の廊下は、朝の光をまだ知らず、灯も落とされたまま。

 けれど、壁にかけられた絵画も、床を覆う敷物も、すべてがどこか“目覚めかけている”ように見えた。


 


 ――まるで、黎明そのものがこの館を包んでいるようだった。


 


 歩みは自然と、ある方角へ向かっていた。


 誰に教えられたわけでもない。

 けれど、気配と匂いが、確かに導いている。

 まるで、自分がまだ知らぬはずの場所を――すでにどこかで知っていたような、そんな不思議な確信。


 


 そして、扉の先にたどり着いた。


 


 扉は重かったが、ゆっくりと開くと、その先に広がっていたのは――


 


 黎明の小庭(れいめいのこにわ)。


 


 高い壁に囲まれた、小さな庭園。

 だが、決して閉ざされている印象ではなかった。


 丸く整えられた低木。柔らかく波打つ芝生。

 そのあいだを縫うように敷かれた淡灰色の石畳が、朝露に濡れて静かに光っている。


 その中央には、一抱えほどの大樹があり、白い花をわずかに咲かせていた。

 その葉先が揺れるたびに、朝の陽がその輪郭を照らし、まるで何かを語りかけてくるようだった。


 


 ラグナは、思わず息をのんだ。


 


 言葉も、思考も、一度すべてが静まり返った。

 ただ、立ち尽くし、光と空気に身を委ねる。

 その一瞬、彼は――ここが、どれほど丁寧に守られてきた場所なのかを、肌で感じ取った。


 


 後に知ることになる。

 この庭は、王妃マグダレーナがかつて手入れをしていた場所。

 花の配置も、木々の高さも、朝陽がどこに落ちるかも――

 すべてを知り尽くした者の手によって、静かに整えられていたことを。


 


 だが、今はまだそれを知らないラグナが、ただ素直に感じていたのは――


 


 **「ここには、祈りのような静けさがある」**ということだった。


 


 石畳を、ひと足。

 露がしみ込む音が、ほんのわずかに響いた。


 そしてその時、生垣の影に立つその姿に、ラグナは足を止めた。


 風が衣の裾を揺らし、朝の光がやわらかにその輪郭を照らしている。


 ――そこにはイレーネの姿があった。


 淡く波打つ栗色の髪が頬をなぞり、深い紺碧の瞳がまっすぐにラグナを捉えていた。

 その表情には驚きも警戒もなく、ただ静かに、そこに在ることが“自然”であるかのような、穏やかな気配があった。


 


「……おはようございます、御使様」


 


 その声は、空気に溶けるように柔らかく響いた。


 ラグナは一瞬の逡巡ののち、深く礼を取る。


 


「王女殿下こそ……こんな朝に、まさかお会いできるとは」


 


「ふふ。お互い様ですわ。……でも、きっとこれは偶然ではない気がします」


 


 そう言って、イレーネは噴水の縁へと歩み寄った。


 淡い水音が響く。

 彼女の背中は華奢でありながら、その佇まいには王族としての気品と、どこか“人としての静けさ”が同居していた。


 


 ラグナもまた、歩を進め、少し離れた場所に腰を下ろす。

 朝露が石にきらめき、ふたりの影がそっと並ぶ。


 しばらく、言葉はなかった。


 けれど、それは沈黙ではなく、“空気を聴く”時間だった。


 


「……昨日の朝のことなのです」


 


 ふいに、イレーネが口を開く。


 その声音は低く、けれど震えを孕んでいた。


 


「舞踏会の準備が始まるより、少し前……まだ日が昇りきる前に、私は目を覚ましました。理由もなく……胸が、締めつけられるように苦しくて」


 


 ラグナは顔を上げ、彼女の横顔を見つめた。

 その眼差しには、まだ残る迷いが微かに宿っていた。


 


「まるで……どこか遠くで、誰かが目を覚まそうとしている。そんな感覚でした。

 冷たくて、でも……悲しくもあって、だけど、どこか、呼ばれているような……」


 


 彼女の瞳が、ゆっくりとラグナを向いた。


 


「御使様。……あなたは、その時、何をしていましたか?」


 


 問いかけは、ためらいながらも真剣だった。

 その“確かめたい”という意志に、ラグナは静かに頷き返す。


 


「……ちょうどその頃、私は神殿で魔術の初歩を学んでいました」


 


「魔術……?」


 


「はい。術の基本構造を教わり、簡単な“灯り”の術を唱える練習をしていたのです。……そのときでした」


 


 ラグナの声音がわずかに低くなる。


 


「……確かに、誰かの意識が、私の心に“触れた”のです。

 姿も名も分かりません。ただ、静かに、そっと、指先で心を撫でられたような……。

 あれは……声ではなく、“感情”そのものでした」


 


 イレーネの息が、微かに震えた。


 


「――やっぱり」


 


 彼女は言った。


 その表情は、驚きではなく、むしろ何かが腑に落ちた者の安堵に近い。


 


「……同じです。わたくしが感じたものと。

 あの“予感”は、恐れでも災いでもない……何かの目覚め。誰かの揺らぎ。

 あなたが灯した光に、呼応するように、その何かが……“触れてきた”のだと」


 


 ラグナは小さく頷いた。


 


「……そうかもしれません。

 私の力が、それを“呼んだ”のか……あるいは、向こうが、私の存在に気づいたのか」


 


「“向こう”……?」


 


「ええ。たとえば、“私が誰かを呼び起こした”のではなく、

 私の中にある何かが、“誰かに呼びかけられていた”のではないか……そんな気がしているのです」


 


 ふたりは再び、言葉を止めた。


 だが、今度の沈黙は――魂が重なろうとする気配で満たされていた。


 


「……不思議ですわね」


 


 イレーネが微笑む。


 


「こうして、言葉を交わすうちに……心の奥が震えていくのが、分かるのです。

 あなたの言葉が、私の中の“揺らぎ”に触れている気がする。

 ――まるで、“魂が響き合っている”みたい」


 


 その言葉に、ラグナの胸の奥が、ふと波紋のように揺れた。


 


「……魂の響き。……はい、私も、そう感じています」


 


「昨日、あなたと踊った時もそうでした。

 あなたは、“引いて導く”のではなく、“共に歩こう”としてくださった。

 だからこそ、私の中の不安や迷いまでも……踊りの中で静まっていったのです」


 


 それは、王女としての言葉ではなく、一人の少女としての想いだった。


 ラグナは深く息を吸い、そして――正面から、イレーネを見つめた。


 


「……私は、まだ何者でもありません。

 けれど、あなたとこうして言葉を交わし、感じ合えることが……とても嬉しいのです。

 それが、私が“誰か”であるという証なら――その始まりに、あなたがいてくださったことに、感謝しています」


 


 イレーネはゆっくりと目を伏せ、手のひらをそっと重ねた。


 その動作には、語らぬ想いが込められていた。


 


 ――静けさの中に、共鳴があった。


 


 まだ名も与えられていない絆。

 けれど、それは確かに、ふたりの間に芽生え始めていた。



 小庭に射す光がわずかに角度を変え、噴水の水面がより鮮やかなきらめきを帯び始めたころ――


 二人の対話は、そっと静かに幕を下ろしかけていた。


 互いに何かを言葉にしきらぬまま、それでも確かに想いを交わしたという手応えだけが、空気の中に残っている。


 そんな中、庭園の出入口に近い石敷きの回廊から、やわらかな衣擦れの音が響いた。


 ラグナが振り返ると、そこに静かに現れたのは――


 


「おはようございます、主様」


 


 白銀の裾が朝陽を受けてほのかに光る。

 長衣の揺れとともに歩み寄る姿は、まるでこの場所に最初から在ったかのような自然さで庭に溶け込んでいた。


セラフィナは軽く会釈をすると、すぐにラグナのもとへと歩み寄り、柔らかな声で続けた。


 


「朝の支度のためにお迎えに参りました。……貴賓室にお戻りいただけますか?」


 


 その声音は決して急かすものではなく、むしろ“今の静けさを崩さぬように”と気遣うような柔らかさを帯びていた。


 


「ありがとう、セラフィナ。少し、庭を見たくて……」


 


 ラグナの言葉に、彼女は微笑を返すだけで、咎める様子はない。


 それどころか、その視線にはほんの一瞬だけ、少し安心したような気配すら宿っていた。


 


「……この小庭は、朝の光をもっとも美しく受け止めるよう設計されています。

 王妃様が、おひとりで佇むことも多かったそうです」


 


 イレーネがふと口を開き、セラフィナに向けて会釈する。


 


「おはようございます、セラフィナ。……ラグナ様と少し、お話をしていました」


 


「それは……主様にとって、よき朝の時間となったのなら、私も嬉しく思います」


 


 目を細めるように語るその言葉に、ラグナは思わず頷いた。


 そして、その時だった。


 セラフィナはふと懐から小さな封筒を取り出すと、恭しく両手で差し出した。


 


「それから、主様。こちらは――王宮より、今朝ほど届いた書簡でございます。

 差出人は、第一王子カイエル・エルディアン殿下」


 


「……カイエル王子殿下から?」


 


 ラグナは少し目を見開きつつも、受け取った封筒の感触に意外な温もりを覚えていた。


 それは、重厚な王室印の押された封蝋がなされてはいたが、書簡そのものは堅苦しさのない手紙のような装いで、むしろ「個人としての意志」が込められていると感じさせた。


 封を切り、視線を落とす。


 


『御使ラグナ=クローディア殿へ


昨夜の宴、そして舞の余韻を胸に記す。

あなたの所作、言葉、その佇まいから、私は“剣”を思い出した。


鋭く、静かで、どこまでも澄んだもの。


この世界であなたが何を選び、どのように歩まれるのか……


言葉だけでなく、“剣を交える”というかたちで、互いを知る機会をいただければと願う。


それが争いでなく、理解を深める手段としてあることを、あなたなら理解してくださると信じている。


日時は、そちらのご都合に任せる。

一人の剣士として、あなたと語り合える日を楽しみにしている。


    アストラント王国 第一王子

    カイエル・エルディアン』


 


 読み終えた瞬間――ラグナの胸に、静かに沁み入るものがあった。


 それは、昨日の舞踏会で感じた“視線の圧”とも、“神聖視される存在”としての居心地の悪さとも異なる――


 ひとりの存在として向けられた、誠実なまなざし。


 剣を交えるという申し出は、力を試すためではなく、言葉を超えて“信を問う”という意志の表れだった。


 


 (……御使としてではなく、私という“人”を見てくれている)


 


 ラグナは、わずかに目を伏せた。


 胸の奥に小さな安堵が広がる。


 それは、世界から与えられた役割ではなく、

 誰かの“個”として向けられた理解の種だった。


 


「……ありがとうございます、セラフィナ。王子殿下のご厚意、大切に受け取ります」


 


 ラグナの言葉に、セラフィナは深く礼をする。


 


「主様のお気持ちは、きっと届くでしょう。

 あの方もまた――“本当の何か”を探しておられる方なのだと思います」


 


 その言葉に、ラグナはそっと視線を上げた。

 空はすっかり朝を迎え、光は確かに庭の草花を照らし始めていた。


 


 イレーネが、少し名残惜しそうに立ち上がり、ラグナへと小さく微笑を向ける。


 


「……また、お話できると嬉しいですわ。

 今度は、もっと穏やかに……何も気にせずに」


 


「はい。ぜひ、また」


 


 ふたりの間に交わされたその言葉は、形式を越えた、個と個としての約束だった。


 


 ラグナはセラフィナとともに庭を後にし、ゆるやかな朝の回廊を歩き始める。

 手には、未だほんのりと温もりを残す手紙。


 それは、ひとつの予感と共鳴、そして“始まり”を告げる静かな鐘のように――

 ラグナの胸の内に、確かな光となって灯っていた。


 

───



王宮の朝食は、儀礼的ながらも落ち着いた雰囲気で進められた。


 ラグナは、王族の席に同席することを遠慮し、神殿からの使者という立場を貫いて、控えの間で簡素な食事を取るに留めた。

 だが、その選択に不快を示す者はいなかった。むしろ、「自らを律する」在り方に、王宮の侍従たちは静かに敬意を払っていた。


 食後、セラフィナの案内で王城を後にした。


 神殿へと戻る馬車の中、窓外を流れる街の景色は、前日に見たものと同じはずなのに、どこか異なる印象を帯びていた。


 舞踏会、イレーネとの邂逅、そして――あの手紙。


 静かに、確かに、ラグナという存在を取り巻く世界が“輪郭を持ちはじめた”ことを、彼自身も感じていた。



───



 神殿に戻ったのは、昼下がりの柔らかな陽光が敷石に落ち始めた頃。


 侍神女セラフィナは、午後は自由に過ごしてよいと告げ、軽く礼をして静かに下がっていった。


 ラグナは少し迷った末に、神殿中央棟の奥にある書架室へと向かうことにした。


 


 ――答えが欲しい。


 


 そう思っていた。


 柔らかな何かが、胸の奥をそっと撫でていったような感覚。

耳に残るその響きは、言葉にもならないまま、名残のように心に滲んでいった。



 それを知るには、知識という光が必要だった。




 神殿書架――静謐と叡智の眠る場所。




 高い天井まで積み重ねられた書棚には、歴代の神官や巫女たちが記録し、編纂してきた膨大な文献が眠っている。

 中には、王宮の記録室にも存在しない古文書すら含まれていると聞く。


 ラグナは案内役の修道士に軽く礼を述べると、探索を始めた。

 自然と足が向いたのは、最奥の閲覧席――静かで、午後の光が斜めに差し込む一角だった。


 


 一冊目に手に取ったのは、革装丁に銀糸の装飾が施された中型の書――


 『御使録拾遺(みつかいろくしゅうい)』。


 


 歴代の「御使」に関する断片的な逸話や伝承を、ひとつずつ拾い集めた記録集だった。

 編纂者による主観や解釈も多く、正確性は保証されないとされていたが、それでもなお――


 **“そこにしか記されていない”**真実の気配が、ラグナの指先を止めさせた。


 ページをめくるごとに、知られざる御使たちの名が現れる。


 その中で、ふと目に留まった一行があった。


 


『月の声と呼ばれし者――ルナ=ウルメナ』


人の魂に寄り添い、癒しの力をもって民を導くも、

やがて魂の深奥に触れ、理を乱す“歪み”へと至る。


魔族に担がれ、王の座に就きしのち――御使ゼルによって断たれた。

その身は滅びるも、なお魂は彷徨い、現在の理より外にあるとされる。


これは、魂の悲鳴か、神の試みか――記録は、沈黙を守る。


 


 指が止まる。


 “ルナ”――


 


それは、書架で開いた一冊の中に記されていた名。だが、その響きは、不思議と――あの夜に感じた気配に、どこか似ていた。

 


「……ルナ=ウルメナ……」


 


 小さく呟いた瞬間、書架の静けさが、ぴたりと時を止めたかのように感じられた。


 その名には、どこか懐かしく、けれど得体の知れぬ痛みが滲んでいた。


 王国の記録では「理を乱し、魂を歪めた魔族の王」として断罪された存在――


 しかし、それが御使の一人であったならば……?


 何が彼女をそうさせたのか。何が、断罪という終焉へ導いたのか。


 ラグナの中に、ひとつの疑問が芽生えていた。




 二冊目に手に取ったのは、題名すら読みにくい古文書。


 装丁は朽ちかけていたが、見開きに書かれた文字は今も確かに意味を持っていた。


 『理環論(りかんろん)』。


 魔術理論の深部を扱った文献であり、一般の神官ですら解読に苦労するような難解な用語が並ぶ。

 だが、ラグナはなぜか、その内容を“読める”と感じた。


 


 ――理とは流れであり、環は結び。

 魂はその理環に沿いながらも、時に“理を越えて響く”ことがある。


 それは、**“幽応(ゆうおう)”**と呼ばれる。


 


『幽応とは、魂と魂が、言語や魔術を介さず、理の領域を超えて交わる現象を指す。

それは偶然ではなく、共鳴の果てに生じる“応え”である』


『この現象は、理環の構造にわずかな揺らぎを与え、

非詠唱的な魔術誘発、精神感応、さらには魂への呼応を誘発する可能性がある』


『御使など、高次の魂格を持つ者においては、

その感応は稀ではなく、古くは“記憶を越えた対話”とも称された』


 


 ラグナは、そっと本を閉じた。


 


 それは――確かに、あの日、自身が感じた“気配”だった。


 魔術の灯りをともした刹那、心に触れた**“何か”**。


 誰かの名も、顔も知らないはずなのに、

 胸の奥が震え、懐かしさにも似た感覚に包まれたあの一瞬。


 


 (あれは、“幽応”だったのか……?)


 


 ラグナの心に、静かな波紋が広がっていく。


 偶然ではない。

 それは、“誰か”が確かに、彼に触れようとした結果なのだ。


 


 ――ならば、その“誰か”とは?


 


 手元の記録には、「ルナ=ウルメナ」という名。


 魂を歪ませ、理を乱し、斬られた存在。


 だが、いま彼に触れたのがその存在だったとすれば……


 彼女はいまも、どこかで“応えている”ということになる。


 


 光が書架の奥まで差し込み、埃の中に浮かぶ粒子が、ゆるやかに揺れていた。


 ラグナはそっと本を閉じ、その上に両の手を重ねた。


 


 “知る”ことは、恐れにもつながる。

 だが同時に、それは“向き合う”という選択でもある。


 


 (……私は、知らなければならない。

  なぜ、呼ばれたのか。誰に、何のために)


 


 神殿の鐘が、午後を告げる静かな音を響かせていた。




 午後の陽は、書架室の高窓から斜めに差し込んでいた。


 ラグナは、閉じた本に指先を乗せたまま、じっとその背表紙を見つめていた。

 読み終えたはずの内容が、まるで今なお胸の中で語りかけているかのようだった。


 『御使録拾遺』の中で出会った名――ルナ=ウルメナ。


 そして、『理環論』で記された“幽応”という理を超えた魂の共鳴。

 どちらも彼にとっては、ただの記述や理論ではなかった。

 それは、確かに自らが“触れられた”ものに他ならなかった。


 


 ――触れられた、あの瞬間。

 声ではない。映像でもない。

 ただ、“痛みと祈りが混ざったような気配”だけが、確かにそこに在った。


 


 そんな思索の只中――


 


 カタン……と、遠慮がちな控えめな音がした。


 振り向いた先には、白衣の裾を静かに揺らしながら現れたひとりの女性の姿。


 


「主様……お疲れではありませんか?」


 


セラフィナは手に小さな銀盆を持ち、そこには湯気を立てる陶器の茶器と、花の蜜で甘く味つけされた焼き菓子が載っていた。


 


 ラグナは驚いた様子を見せながらも、すぐに微笑を浮かべた。


 


「……ありがとうございます。ちょうど、一息つきたいと思っていました」


 


「それを感じたのかもしれませんね。……なぜか、今日はこちらに足が向きました」


 


 セラフィナはそう言って、木製の机にそっと盆を置き、ラグナの向かいに静かに腰を下ろした。

 窓辺の光が彼女の髪に柔らかな金色の縁を与え、その横顔はまるで静謐の象徴のように、揺るがなかった。


 


 茶器を手に取りながら、ラグナは、ふと目を伏せた。


 


「……セラフィナ」


 


「はい、主様」


 


「……『御使録拾遺』という本をご存じですか?」


 


「ええ。逸話が多く記されておりますが、真実と断ずるには諸説あるものも含まれております。ですが、読み手が何を受け取るか――それもまた、巡りです」


 


 その言葉に、ラグナはわずかに目を見開いた。


 “巡り”――

 その響きが、胸の奥に触れる。


 


 そして、静かに問いかけるように口を開いた。


 


「……“ルナ”という名を……ご存じですか」


 


 茶を口に含む手が、ふと止まる。


 しかし、セラフィナの表情に、動揺はなかった。


 むしろ、それは以前からその問いがくることを、どこかで知っていたかのように――

 やわらかく、深い瞳が、静かにラグナを見つめ返す。


 


「……ええ。その名を記した書は、神殿の中にいくつか残されております。

 禁忌ではありません。ただ――扱いには、慎重さが求められる名、です」


 


「断罪された御使。魂を歪め、理を乱し、魔族の王になった存在……と、書にはありました」


 


 ラグナの声には責めも怒りもなく、ただ“確かめるような”静けさがあった。


 セラフィナはうなずきながらも、ふと視線を落とし、まるで胸の奥の記憶をなぞるように、ゆっくりと口を開く。


 


「……罪とは、誰が定めるものでしょうか。

 その行いが“祝福”であったのか、“災い”であったのか――

 それを決めるのは、今を生きる我らではなく、“理”そのものなのだろう……」


 


 その言葉は、まさに――

 先ほど『御使録拾遺』の中に記されていた一文と、寸分違わぬものだった。


 


『その行いが祝福であったか、災いであったか――

それを決めるのは、今を生きる我らではなく、“理”そのものなのだろう』


 


 ラグナの心に、その一節が再び深く染み入る。


 何かを断ずるのではなく、

 何かを拒絶するのでもなく――

 ただ、“それが在った”ということを、受け止める強さ。


 セラフィナの声には、裁きではない祈りのような響きが宿っていた。


 


「……主様。

 “その名”を知ったとしても、恐れないでください。

 名前は過去を指すものではなく、想いを映す鏡でもあるのですから」


 


 ラグナはゆっくりと息を吐いた。


 そして、その名を口にしたことを、後悔しなかった。


 むしろ、それを受け止めてくれる人がいるというだけで、

 胸の奥の冷たい部分が、ほんのわずかに溶けていくのを感じていた。


 


「……ありがとうございます、セラフィナ。

 あなたの言葉は、いつも……“私”に向けて語られている気がします」


 


「それは、主様が“御使”であっても、“人”であっても、変わりません。

 私は、あなたの傍に在る者として、ただ……感じたことを、正直にお伝えしているだけです」


 


 窓の外で、風が葉を揺らした。


 光と影が机の上に揺れ、閉じられた本の背表紙をやわらかく撫でていった。


 

“彼女”の名は、もはや単なる記録の中の文字ではない。


 それは、ラグナの胸の奥に、確かに何かを残していた。


 


 ――この名が、祝福か、災いか。

 それを決めるのは、誰かではなく、この“世界”そのものなのだ。


 


 そして今、ラグナ自身が、その名と出会い、向き合い始めていた。


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