部屋の肌(ショートショート)

雨光

二十年の繭

私の世界は、この、四畳半の部屋の、その内側だけである。


大学という、あの、騒がしい光の洪水の中から、此処へ逃げ込んで、もう、二十年の歳月が、流れた。


かつては、この、薄い扉一枚を隔てて、母と、獣のように、罵り合ったこともあった。

しかし、今は、もう、何の音も、聞こえない。


ただ、一日に二度、食事の載った、黒い盆が、ドアの外に、静かに、置かれるだけだ。


私は、一日の、その、ほとんどの時間を、ベッドの上で、横たわって、過ごす。


そして、天井の、その、古い木目を、ただ、じっと、眺めている。


あの、うねるような木目は、私が、この部屋に来た、その日から、ずっと、私を、見下ろしている。


それは、もう、私にとって、ただの木目ではない。


私の、思考の、その、迷路のようだ、と、私は、思う。あるいは、私の、脳の、その、皺の、一部なのかもしれない。


近頃、この部屋が、私に対して、奇妙な、愛情を、示し始めた。


壁紙に、かすかに、描かれている、その、色褪せた、小さな花の模様が、夜、私が、眠りにつく頃、ゆっくりと、その、小さな蕾を、開いたり、閉じたり、するのだ。


まるで、私の、浅い呼吸に、合わせるかのように。


そして、時折、この、古い木造の床板が、私の、弱々しい心臓の鼓動と、全く、同じリズムで、とくん、とくん、と、微かに、脈打っていることがある。


私は、もう、母の運んでくる食事を、あまり、口にしなくなった。


しかし、不思議と、空腹は、感じないのである。


夜中、喉の渇きを覚えて、私は、無意識に、壁を、指で、そっと、舐めてみた。


すると、そこから、まるで、私が、赤子の頃に味わった、母の乳のような、甘く、懐かしい味が、したのだ。


この部屋が、私を、養っている。


この、二十年の、私の、孤独と、絶望と、そして、諦念の、すべてを、吸い込んだ、この部屋が、今や、私の、新しい、母親なのだ。


ある日のこと。ドアの外から、老いた、母の、か細い声が、聞こえた。


「もう、お母さんは、疲れてしまいましたよ……」


その、言葉を、最後に、食事の盆は、二度と、運ばれてくることは、なかった。

しかし、私は、何の、不安も、感じなかった。



その夜、私は、自分の体が、ベッドと、ゆっくりと、融合していくのを、感じていた。


私の、その、白く、薄くなった皮膚が、年季の入った、シーツの、その、冷たい繊維と、混じり合っていく。


私の、白髪の交じった、長い髪の毛が、枕の、綿の奥深くへと、植物の、根のように、静かに、張っていく。


壁紙の花の模様が、壁から、するすると、抜け出して、私の、その、痩せた腕に、蔦のように、優しく、絡みついてくる。


部屋の、四隅の、暗がりから、何かが、生まれてくる。


それは、この部屋が、二十年という、長い、長い時間をかけて、吸い込んできた、私の、すべてが、形を成した、新しい、生命体であった。


数ヶ月後。


家の、売却が決まり、不動産業者が、遠い親戚だという男と共に、その、固く、閉ざされていた、部屋のドアを、初めて、開けた。


しかし、部屋の中は、もぬけの殻であった。


ベッドも、机も、本棚も、そして、そこに、二十年間、いたはずの、女の姿も、何もかもが、消え失せていた。


ただ、部屋の、その、真ん中に。


一本の、見たこともない、巨大な、乳白色の、きのこのようなものが、ぬらり、と、生えているだけだった。


その、きのこの、滑らかな、白い肌は、まだ、微かに、人間の、生温かい体温を、保っている。


そして、傘の、その裏側の、無数のひだの部分は、まるで、人間の、脳の皺のように、複雑で、美しい、模様を、描いていた、という。


業者と、親戚の男は、その、あまりにも、異様で、そして、どこか、神々しい、光景を、ただ、言葉もなく、見つめていた。

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部屋の肌(ショートショート) 雨光 @yuko718

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