第8話【見えない、聞こえない】

 合同訓練から数日が経った。


 授業を終えたハンナは、どこかさみしそうな目でアレサたちの表情を見まわした。


「今日は通達事項があります。サリア監督官、中へどうぞ」


「はい」


 ハンナに促され、教室にサリアが入ってくる。


「本日付けで、クラリスはサリア監督官の指導を受けることになります」


「え?」


「ちょ、ちょっと待ってください! そんな、いきなり……」


 アレサとシンシアがそれぞれ驚愕の反応を示す中、クラリスは静かに立ち上がった。


「クラリス、拝命します」


 静まり返った室内に、クラリスの凛とした声が響き渡る。


 アレサとシンシアは、信じられないといった表情でクラリスを見た。


 クラリスは、そんなふたりを一瞥することなくハンナのもとに向かう。


 ハンナは静かにうなずき、クラリスが差し出した両手にゆっくりと手をかざし、クラリスの手枷を外した。


 続いて、サリアがクラリスの両手に手をかざし、新しい手枷をつけた。


 手枷の権限の譲渡によって、正式にクラリスはハンナの監督下を離れ、サリアの監督下に入ったことになる。


「通達事項は以上です。クラリスは本日中に部屋の移動を済ませるように」


「わかりました」


 あくまでも事務的なやり取りを交わし、クラリスはサリアの後について教室を出ようとする。


「待ってください!」


 シンシアが立ち上がり、クラリスが歩みを止める。


「どうして、私たち、今までずっと一緒だったじゃないですか。これからも一緒に頑張ろうって――」


「私は、きっと無意識のうちにあなたたちに甘えてた。だから、あなたたちと離れて、改めて自分のやるべきことを探すつもりよ」


 クラリスは振り返らないまま、シンシアの言葉を遮るように告げた。


「そんな……甘えてたのは私のほうです。いつもいつも、クラリスさんに頼ってばかりで。それがいけなかったんなら、努力して直します。だから、行かないでください!」


 シンシアの言葉に涙が混じる。


「いつまでも仲良しごっこじゃいられないのよ。あなたも自立しなさい、シンシア」


 そう言い放つと、クラリスは再び歩き出した。


「アレサさん、何とか言ってくださいよ!」


 シンシアがアレサに縋りつく。


「それが、クラリスが選んだ正しいことなんだね?」


 アレサは何とか言葉を絞り出した。ほかにも言いたいことはたくさんあった。それでも、今はこれが精いっぱいの言葉だった。


「……そうよ」


「わかった。クラリスを信じる」


 アレサの言葉に、クラリスの背中が小さく震えた。


 しかし、クラリスは歩みを止めることも、振り返ることもせず、教室を出て行く。


 ドアの閉まる音が、はっきりとアレサたちとの関係の終わりを告げていた。


「やだ、いや、こんなの、いやぁ!」


 シンシアは膝から崩れ落ち、大声で泣き始めた。


 泣きわめくシンシアの背中を撫でながら、アレサも唇を噛みしめる。


「クラリス、どうして……」


「あなたたちにも、そろそろ話さなければいけませんね」


 ずっとクラリスが出て行ったドアを見つめていたハンナが、ぽつりとつぶやいた。


「ハンナさん?」


「クラリスは、アレサやシンシアを見捨てたわけではありません。彼女に見限られたのは、私です」


 ハンナは、まるで身を裂かれているかのように苦しげな様子で言葉を絞り出した。


「ど、どういう、こと、ですか?」


 シンシアがしゃくりあげながらたずねると、ハンナは意を決したようにアレサたちに向き直り、椅子に腰を下ろした。


「私がまだ新人の星読みだったころ。そのころはまだ、延命は禁忌ではありませんでした。

 私は、星の延命に酔いしれていた。この手で星を救うことこそが、私に課せられた使命なのだと思い込んでいた。

 その浅慮が、恐ろしい出来事を引き起こしてしまったのです。


 私が無秩序な延命を続けた結果、空に星があふれた。そして、空は増えすぎた星を支えることができず、崩れ落ちた。


 無数の星が流れ星となって降り注ぎ、その後に残されたのは、まるで大穴が空いたような光景」


 ハンナの声が震え、同様に、膝の上に置かれた両手も細かく震えていた。その顔色は蒼白で、その体験の恐ろしさを言葉よりも雄弁に物語っていた。


「その出来事によって、空には星の許容量があることを星読みは知った。ゆえに、延命は禁忌とされた。私は星読みの役目を離れ、監督官として後進の育成にあたることになりました……いえ、私は逃げ出したのです。空の秩序と向き合うことから」


「サリアさんが言っていた、ハンナさんの甘さって……」


「サリアは、当時から私のやり方には批判的でした。同情で秩序を守ることはできないと。結果的に、彼女の言う通りになってしまいました」


 ハンナは疲れ切ったように、ぐったりと椅子に背を預けた。


「もしも、あなたたちもサリアのもとで学ぶことを希望するのでしたら、そのように取り計らいます。もちろん、すぐに決める必要はありません。少なくとも、今日は色々あって疲れたでしょう。部屋に戻って、ゆっくり休んでください」


「わかりました。行こう、シンシア」


 アレサはシンシアを支えながら、自室に向かった。


 廊下を歩くアレサは、荒れ狂う思考に頭の中がぐちゃぐちゃにされている。


 ハンナの過去。クラリスとの別れ。サリアのこと。色々なことが同時に起きたせいで、完全にアレサの処理能力を超えていた。特に、ハンナの過去はショックが大きい。


 アレサたちが無言のまま自室のドアを開けると、すでにクラリスのスペースはもぬけの殻になっていた。


 まるで、クラリスなんてはじめからいなかったかのように、そこにあったはずのクラリスの存在を示すものが一切合切なくなっている。3人で使うには少し狭いと感じていたはずの部屋が、妙に広い。


「う、うわあああん!」


 その光景を目の当たりにしたシンシアは、またも大粒の涙を流し、自分のベッドに飛び込んでシーツにくるまってしまった。丸まったシーツの中からは、絶え間ないくぐもった嗚咽が聞こえてくる。


 アレサはシンシアにかける言葉も見つけられず、ただクラリスのベッドを撫でた。しわひとつなくピンと張られたベッドシーツだけが、几帳面なクラリスの唯一の残り香として感じられた。


 シンシアをひとりで残すのは心配だったが、アレサにもシンシアを気遣う余裕が残されていない。申し訳ないと思いつつも、アレサは逃げるように部屋を出た。


 ◆ ◆ ◆


 クラリスは無言のまま、新しい自室で荷解きをしていた。候補生の荷物はそれほど多くはない。クラリスの持ち物の大半は資料の類で、机の上に並び切れない分はベッドや床に積み上げる。


 今回は、サリアが特例として臨時の監督官になり、クラリスが編入されたので同居する候補生はいない。部屋も通常の同居用の部屋ではなく、サリアの私室の横を臨時の部屋として与えられた。


 アレサたちと同室の時には、アレサやシンシアが勝手に資料を抜き取っては適当な位置に戻すので、資料の行方が分からなくなってよくケンカをした。


「これでよかったはず。アレサたちにとっても……」


 クラリスは荷物の整理を終え、窓際の椅子に腰を下ろす。


 窓の外の星空を見てから、机の上の資料に手を伸ばし、パラパラとページをめくった。


 ――アレサとシンシアがつまらないことで言い争いをしている。クラリスは読んでいた資料から顔を上げ、そんなふたりをたしなめる。


 ――やれやれ、落ち着いて資料も読めやしない。


 ――だってシンシアが。


 ――アレサさんこそ。


 ――うるさーい! 外でやってよ、もう!


 ――わあ、クラリスが怒った!


 ――アレサさんのせいですよ!


 ――シンシアのせいでしょ!


 ――口で言ってもわからないみたいね……。


 ――ぎゃああああ!!


 ふと、頬を伝う冷たい感触でクラリスは我に返った。


「え? あ、なんで?」


 クラリスが慌てて頬を拭うと、部屋のドアがノックされた。


「はい!」


 クラリスは袖口で涙を拭い、部屋のドアを開けた。そこにはサリアが立っている。


「お疲れさま。もう、荷物の整理は終わったようね。手が早くて感心だわ」


「ありがとうございます」


「入れてもらっても良い?」


「もちろんです。どうぞ」


 クラリスはサリアを部屋に入れ、予備の椅子を出す。


 椅子に腰を下ろしたサリアは、優雅に足を組んだ。


 クラリスに座るように促したサリアは、そそくさと腰を下ろすクラリスの目元に視線を移す。


「お友達と離れて、さみしい?」


「あ、いいえ!」


「良いのよ。ただし、涙は心の弱さ。今のうちに流して捨ててしまいなさい。これから、私たちはもっとつらい決断をしなければならないのだから」


 サリアの口調は冷たかったが、どこかぬくもりを持ってクラリスの耳に沁み込む。


 それが、クラリスが押さえ込んでいたものを決壊させた。


 クラリスの両目からは大粒の涙があふれだし、零れ落ちたしずくが膝の上にいくつもしみを作る。


 サリアは立ち上がり、ゆっくりとクラリスのそばに立つと、その頭をやさしく抱きしめた。そして、耳元に口を寄せてささやく。


「あなたは正しい。空の秩序のために大切なものを切り捨て、傷付くことを恐れず、痛みを背負い、その身を捧げることを選んだ。誰にでもできることじゃない。あなたにしかできない、だから私もあなたを選んだ。この空を守れるのは、私とあなただけ……」


「私が……空を守る……」


 クラリスがおうむ返しにつぶやく。


 サリアが両手でクラリスの頬を挟み、まっすぐにその顔を見つめた。


「そう。私と、あなたが。簡単な道のりではないけれど、あなたがいてくれて心強いわ、クラリス」


「ありがとうございます……私、きっとやり遂げます。この空を、守ります」


 クラリスの言葉に、サリアは満足げに微笑んで見せた。


 ◆ ◆ ◆


 ひとりきりの観測室で、アレサは星空を見上げていた。


 アレサがひとりで観測室にいることは珍しくない。星の観測をするとき以外でも、考え事をしたいときやひとりになりたいときは観測室にこもることが多い。


 クラリスやシンシアも、自分の用事がなければアレサの観測に付き合うが、四六時中観測室にこもっているアレサに付き合えるほど候補生も暇ではない。


 空は静かで、静謐な星のまたたきがアレサの目にしみた。


「ハンナさんにあんな過去があったなんて……きっとクラリスはサリアさんに聞いてたんだ。だから、ハンナさんよりもサリアさんを選んだ」


 じっと星空を見上げながら、ぽつぽつと独り言をこぼす。


「星を救うことは、空の秩序を乱すこと。でも、それならどうして私たちには延命の力があるの?」


「どうして、私には星の声が聞こえるの?」


 指先でそっと耳をなぞる。


「どうして、星読みがいるの?」


 爪で耳を掻く。


「何も聞こえない……聞こえないよ!」


 掻きむしる。その指先に血がにじむ。


 アレサは髪を振り乱しながらその場にうずくまり、抱えた膝に顔をうずめた。


「何も見たくない……何も聞きたくない……」


 両目を閉じ、両耳をふさぐ。


 星のまたたきすらない真の静寂な暗闇で、アレサはそっと思考を手放した。

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星をみるひと 稲岸ゆうき @inagishi

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