第7話【すれ違う心】

 試験の日々が終わり、観測任務というアレサたちにとっての日常が戻ってきた。


 それでも、試験を終えてから完全に以前の日常に戻ったわけではない。


 観測室にはアレサとシンシアのふたりだけが残され、どこか気まずい空気がその場を満たしている。


「クラリスさん、行っちゃいましたね」


 沈黙に耐えかねたのか、シンシアがぽつりとこぼした。


「もう観測の時間は過ぎてるし、シンシアも無理に付き合ってくれなくてもいいんだよ」


 シンシアの不安を感じ取ったアレサは、つとめて明るい口調で返した。


 既定の観測時間は終わっていて、今はアレサが勝手に居残りを続けているだけに過ぎない。


 アレサの居残り自体は珍しいことではなく、むしろ日常といえる。以前であれば、シンシアやクラリスも時間の許す限りそれに付き合うのが習慣ではあった。


 ただ、試験が終わってからというもの、クラリスはアレサの居残りに付き合うことはなくなり、サリアの部屋に行くようになっていた。


「アレサさんまで、私のこと邪魔みたいに言うんですか!」


 シンシアが珍しく声を荒げる。


 アレサは驚いて、観測道具から顔を離した。


 シンシアを見れば、目を赤く腫らして小さく震えている。


「違うよ。そんなつもりじゃない」


「わかってます。アレサさんがそんなつもりじゃないって。でも、ごめんなさい、私、もう、わかんないです」


 シンシアは両手で顔を覆ってうつむく。


 アレサはシンシアの隣に座り、そっと背中を撫でた。震える背中が、いつもよりもさらに小さく感じる。


「私、怖いんです。クラリスさんがどこか遠くに行っちゃうんじゃないかって。今まで当たり前みたいに思ってたことが、当たり前じゃなくなるのが、怖い」


「クラリスはどこかに行ったりしないよ。もちろん私だって。クラリスが正しいと信じることを、私たちも信じてあげよう。ね?」


「そう、ですよね」


「今日はもう、先に戻ってなよ。片付けは私がやっておくから」


 アレサに促され、シンシアは軽く頭を下げてから観測室を出て行った。


 ひとり残されたアレサは、観測道具を片付けながら自分の言葉を反芻する。


 シンシアにはああ言ったものの、アレサもクラリスの行動に対して不安は感じていた。


 もともと優秀なクラリスにしてみれば、アレサたちと付き合うよりもサリアと付き合うほうが有意義なことは理解できる。ただ、それを認めてしまうことが怖かった。果たして、クラリスはそこまで冷徹なのだろうかと。


 片付けを終え、部屋に戻る途中でアレサは足を止めた。廊下の向こうから、資料を脇に抱えたクラリスが歩いてくるのが見えたからだ。


 クラリスもアレサに気付いたのか、足を止める。


「サリアさんのところからの帰り?」


「ええ。そっちは相変わらず観測みたいね」


 何度も繰り返してきた日常会話のはずなのに、アレサはそのやり方が思い出せない。


 どこかぎこちない挨拶を交わし、ふたりは並んで部屋に向かって歩き出した。


「シンシアがさみしがってるよ。最近、クラリスの付き合いが悪いって」


 アレサの言葉に、クラリスは少しだけ笑みをこぼす。


「あの子の甘えんぼにも困ったものね。そんなんで一人前の星読みになれるのかしら」


 口調は相変わらず冷たいが、その雰囲気はいつもと変わらないクラリスだった。


 それを見て、アレサは少しだけ安心する。


「ねえ、アレサ」


「何?」


「もしも……もしも、空の秩序を守るために目の前の星を見捨てなければならない状況で、あなたならどうする?」


「どういうこと?」


「だから、仮定の話よ。全体の秩序を守ることと、目の前の星と、あなたならどっちを選ぶ?」


「うーん」


 アレサは足を止めて考え込んだ。クラリスも足を止め、アレサの言葉を待っている。


「規律のことを考えるなら、全体の秩序を優先するのが正しい……よね? だけど、実際に目の前にしたらどうかな。私は、どっちも選べないような気がする。だって、全体のために犠牲になってくれなんて、あんまりじゃない?」


「まあ、アレサならそう答えると思った」


 クラリスは軽くうなずき、また歩き出す。


「クラリスなら、きっと迷わず全体のための決断ができるんだよね」


 アレサが素直な感想を口にすると、前を歩いていたクラリスがぴたりと足を止める。


「クラリス?」


「そう見える?」


 背中越しのクラリスの言葉は、どこか遠く、さみしげにすら聞こえた。


「だって、クラリスはいつも冷静で、私みたいに迷ったりしないでしょ」


 少なくとも、アレサはそう思っていた。


 クラリスはいつも冷静で、積み重ねた努力を根拠に下される判断はいつも正しい。それは誰にも真似できない。


「だから、私もシンシアも、いつもクラリスに甘えちゃうんだよね」


「いつまでもそんなんじゃ困るわよ。今はこうして3人でいるけど、いつかはそれぞれ自立しないと星読みにはなれないんだから」


「そうなんだよねぇ」


 アレサがのんきに笑うと、クラリスは呆れたようにため息をこぼす。


「いきなりごめんね。ほら、遅くなるわよ」


 振り返ったクラリスは、いつもの調子に戻っていた。


 アレサはそのことに少しだけ安心して、並んで部屋に向かって歩き出した。


 ◆ ◆ ◆


 翌日は他の候補生たちとの合同訓練だった。


 合同訓練は、それぞれの監督官の評価を決めるためのものでもあり、候補生にとっても重要な訓練になる。


「集まりましたね。今日は合同訓練ですが、いつもと変わらず訓練の成果を発揮することを期待しています」


 アレサたちを集めたハンナは、いつもと変わらない調子で訓練内容をアレサたちに提示した。


 今日の訓練内容は操船技術を見るもので、提示された航路を巡り、途中でいくつかの星の様子を確認し、その記録をつけて戻ってくるというものだ。


 空の巡回を日常とする星読みにとって、これはかなり実際の役目の内容に近い。


「まあ、いつも通りにやってれば何の問題もないでしょ」


 クラリスは受け取った航路にざっと目を通してから言う。


「私が足を引っ張らなければね」


 アレサが乾いた笑いをもらす。


 クラリスやシンシアが先導する限り、航路から外れる心配はない。アレサも、記録をつけることに関しての不安はないが、やはり操船技術には不安が残る。


「あのね、アレサは比較対象が悪いのよ。私とシンシアに比べて劣ってるっていっても、別にほかの候補生と比べて特別劣ってるわけじゃないんだから」


「そうですよ。アレサさんだってちゃんと訓練して上手になってるんですから。自信持ちましょう!」


 クラリスの言葉に、シンシアも鼻息荒く賛同する。


「クラリスとシンシアの言う通りです。あなたたち3人なら何の心配もいりません。さあ、手を出して」


 ハンナはアレサたちの様子を見て満足そうにうなずき、アレサたちの手枷を外した。今日の訓練では実際の星読みと同じ動きが求められるため、候補生たちの制限が解除される。


 ハンナはアレサたちひとりひとりの背中を順番に押し、舟を漕ぎだす3人を見送った。


 アレサたちは予定通りの航路を進み、順調に課題をクリアしていった。今日の空も穏やかで、このままいけば何の問題もなく終えることができる。アレサはそう思っていた。


 問題は、3つ目の課題の星の記録をつけ終えたときに起こった。


 ――消えてしまいたい……もう、いなくなりたい。


 次の星に向かう準備をしていた時、か細い呟きがアレサの耳を打った。とっさに顔を上げたアレサの目に、不規則に触れる星が映る。


「クラリス、シンシア!」


 アレサの悲鳴にも近い声に顔を上げたふたりも、アレサの指さした先に目をやって驚愕の表情を浮かべた。


 その星は予定の航路からはかなり外れた位置にあり、そこに立ち寄ってからではまず間違いなく予定の時間に戻れない。


 アレサは、以前も不規則に揺れる星を観測したことがあった。そして、その星は流れ星として消滅するところも実際に目の当たりにしていた。だとすれば、不規則な揺れという異常は流れ星の予兆かもしれない。そう考えるのは自然なことだ。


「行こう! 今ならまだ間に合うかもしれない」


 そう言うが早いか、アレサは櫂を手に取る。


「待って!」


 クラリスの鋭い声が飛んだ。


「落ち着いて、アレサ。あの星は私たちの担当じゃない。星の異常を観測したなら、戻ってそれを報告すれば良い。私たちは私たちのやるべきことを優先するべきよ」


 クラリスの意見は正しかった。理性的で正しい判断だった。アレサもそれは理解できる。


 しかし、理解と納得は別物だった。アレサの心は、クラリスの判断を否定する。


「だって、あの星は苦しんでる。私たちしか救えないんだよ!」


「違う、そんなのはただの思い上がりよ。そうやってあなたのわがままで全員を巻き込むつもりなの?」


 アレサの語気につられて、クラリスの口調も次第に熱を帯びていく。


 アレサとクラリスの意見は平行線で、お互いに譲るつもりもない。そんな均衡を崩したのは、シンシアだった。


「そんな言い方……ないじゃないですか」


「シンシア?」


 クラリスはけげんな表情でシンシアを見る。


「アレサさんは、また星の声を聞いたんですよね? だとしたら、あの星はアレサさんに助けを求めてるんだと思います。それなのにわざわざ見捨てろなんて、あまりにも冷たいですよ、クラリスさん」


「シンシアまで、そんなことを言うの?」


 クラリスの表情には明らかな失望の色が浮かび、その言葉にはどこかすがるような様子までにじんでいた。


「クラリスさんは正しいです。でも、冷たいです」


「冷たいって……何? 星読みは空の秩序を守るもの。それが、個人の感情を優先して良いわけがないでしょう。私たちは常に正しくなければならない。そのためには、個人の感情を捨てないといけないことくらい、あなたたちにもわかるでしょう」


「わかりません! 最近のクラリスさん、おかしいですよ。前のクラリスさんだったらそんなこと言わなかった!」


 シンシアの叫びに、クラリスの顔は蒼白になり、櫂を抱えたまま座り込んだ。


「行きましょう、アレサさん。きっと間に合うはずです」


「う、うん! 行こう!」


 アレサはシンシアの様子を気にしながらも、舳先を星に向けて漕ぎ出す。


 その途中、小さくなるクラリスを振り返るも、力なくうなだれたクラリスはついにその場から動かなかった。


「わかってる。そんなこと、わかってるわよ……」


 うつむいたまま、クラリスは櫂を強く握りしめる。口からこぼれたその言葉は、誰にも届かない。


 アレサとシンシアが不規則に揺れる星に近づくと、いよいよもって星は弱々しい明滅を繰り返していた。このままでは間違いなく落ちてしまうだろう。


 アレサは揺れる星に両手を添え、シンシアもそれを支えた。


「大丈夫、私がついてるよ。もう震えなくても良いの。あなたは大丈夫だから、もう不安がらないで。ゆっくり、ゆっくりで良いから、今までのことを思い出して」


 アレサは優しく星に語りかける。


 ふたりの手の中で揺れていた星は、次第に揺れが小さくなり、やがて静かな輝きを取り戻していった。


「ほら、もう大丈夫。あなたが消えてしまったら、私はさみしい。いつか来る終わりまで、私たちがずっとそばにいるから。だから今は、生きて」


 そう言って、アレサは星から手を放す。


 星はその声に応えるかのようにまたたき、ふたりの表情を照らした。


 アレサは大きく息をつき、傍らのシンシアに笑みを浮かべてみせる。シンシアもにっこりと満面の笑みを浮かべていた。


「これで、よかったのかな」


「たぶん、ですけど」


 アレサとシンシアがクラリスのもとに戻ると、クラリスは何も言わずに舟を漕ぎだした。


 ふたりとも先を行くクラリスの背中に声をかけることができず、結局、無言のまま訓練を終えることになった。


 3人は予定時間を大幅に超過し、今回の訓練は落第になる。


「私が勝手なことをして、ふたりを巻き込みました。どんな罰でも受け入れます」


 ハンナに事の顛末を報告したアレサは、ハンナに深々と頭を下げた。


 ハンナはしばらく考え込んだ後、やさしく微笑んでアレサの肩に手を置く。


「とっさの状況で、あなたは星を救った。その判断は尊いものであったと、私は評価します。したがって、今回の件について私からは不問といたします。ただし、落第を覆すことはできませんから、今後一層励むように」


「あ、ありがとうございます」


「よかったですね、アレサさん!」


 固唾をのんで成り行きを見守っていたシンシアがアレサに抱き着く。


 ◆ ◆ ◆


 クラリスは、そんな様子をどこか遠い出来事のように感じていた。


 遠く離れてしまった。その事実がクラリスの胸をかきむしる。


 しかし、クラリスはそれを表に出さなかった。出すことができなかった。


「私が、守らないと……空の秩序を……私が……」


 その小さな小さな呟きは誰にも届かず、ただ空の闇に溶けていった。

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