不悪院

実家での話

 大学の夏休みを利用して俺は一年ぶりに実家の玄関の前に立っていた。

 一人暮らしの安アパートのそれとは違う、重厚で冷たいドアノブを回す。


「ただいまー」


 がらんとした玄関に声を響かせると、奥の台所からパタパタと軽いスリッパの音がして母親が顔を出した。


「あら、和也。おかえりなさい」


 母はそう言って微笑んだ。一年前と変わらない、優しい顔に安堵を覚える。


 すると、鼻腔を突く、微かだが確かな異臭に気づいた。

 それは獣の匂い、もっと言えば家畜小屋に漂う、糞尿と体臭が混じり合ったような悪臭だった。


「……なんか、変な匂いしないか?」


「そう? 気のせいじゃないかしら。さあ、上がって。お父さんも待ってるわよ」


 お父さん。その単語に、俺は胸の裡に小さな棘が刺さるのを感じた。

 父は昔ながらのいわゆる頑固親父というやつで、俺が地元の大学ではなく東京の私大に進学することに最後まで反対していた。

 結局、勘当同然の形で家を飛び出した俺と父との間には、一年近く没交渉という名の深い溝が横たわっている。その父が、俺を待っている?


 リビングに通された俺の目に飛び込んできた光景に、思考が数秒間、完全に停止した。

 ソファのいつも父が座っていた定位置に鎮座していたのは、巨大な一頭の豚だった。


 ぶよぶよとしたピンク色の皮膚は脂汗でぬめり、ところどころに生えた硬質な毛が逆立っている。

 小さな悪意に満ちたような黒い瞳は虚空を睨み、絶えず何かを咀嚼するように動く口元からは、黄ばんだ泡とよだれが糸を引いてソファのクッションに染みを作っていた。

 湿った鼻からはフゴ、フゴ、と不快な呼吸音が漏れ、部屋の悪臭の発生源がこの醜悪な塊であることを雄弁に物語っていた。


「お父さん、和也が帰ってきたわよ」


 母が、その豚に向かって優しく語りかける。

 豚は億劫そうに片方の瞼を少しだけ持ち上げたが、すぐに興味を失ったように再び固く閉じてしまった。


「……母さん、何なんだよ、これ。親父は? 親父はどこにいるんだ」


 俺の声は、自分でも驚くほど震えていた。これは何かの悪い冗談か。

 俺を勘当した父への、母なりの当てつけなのだろうか。


 しかし、母は心底不思議そうな顔で俺を見返した。


「何言ってるの、和也。お父さんでしょ? 昔からずっと、そうじゃない」


「いや、昔からとかそういう問題じゃないだろ! これは豚だぞ! 本物の、汚い豚じゃないか!」


 俺が叫ぶと、リビングのドアが開き、高校生になったばかりの妹の夏美が顔をのぞかせた。


「おかえり、お兄ちゃん。……何、大声出してんの? お父さんが起きちゃうでしょ」


 夏美はそう言って、ごく自然に豚の傍に寄り、その脂ぎった背中を優しく撫でた。

 豚は気持ちよさそうに喉を鳴らし、部屋の淀んだ空気を震わせる。


 信じがたいことに、この家の人間は、俺以外この醜い家畜を「父親」として認識しているようだった。

 それも、今に始まったことではなく、まるで物心ついた頃からそうであったかのように。


 その日の夕食は、俺にとって拷問以外の何物でもなかった。

 食卓には、俺と母と夏美の分の食器のほかに、床に置かれた巨大な桶があった。

 中には野菜くずやパンの耳、残飯がごちゃ混ぜに詰め込まれており、豚はそこに顔を突っ込んで、凄まじい音を立てて中身を貪っていた。

 餌を撒き散らし、口の周りを汚物でべとべとにしながら、時折満足げな呻き声をあげる。

 母と夏美は、その様子を微笑ましげに見守りながら、自分たちの食事を進めていた。


「お父さん、今日のはお口に合うみたいね」


「この間のお豆腐屋さんのオカラ、気に入ったのかな」


 繰り広げられる会話は、俺の正気を少しずつ削り取っていく。

 俺の記憶の中の父親はどこへ消えたんだ?

 背広を着て会社に行き、休日には無口に新聞を読んでいたあの男は。

 俺の記憶だけがこの家では異端なのか?


 食後、俺は自室に逃げ込んだ。

 一年放置された部屋は出発前とほとんど変わっていなかったが、本棚に飾ってあった家族写真立てだけが裏返しに置かれていた。


 手に取って表に返すと、そこに写っていたはずの父の顔の部分が黒いマジックで無惨に塗りつぶされていた。

 代わりに稚拙な筆跡で「おとうさん」と書かれ、豚のイラストが描き加えられている。

 心臓が氷水で満たされたように冷たくなった。


 父の書斎をそっと覗くと、中はもぬけの殻だった。

 あれだけあった蔵書も愛用していた万年筆も机も、何もかもが無くなっている。

 がらんとした部屋の真ん中に、ぽつんと豚用の寝床が作られていた。


 使い古されたタオルケットや明らかに父のものだったであろうセーターが敷き詰められ、部屋にはあの獣の匂いが染み付いていた。

 父という人間の痕跡がこの家から計画的に消去され、「豚」という存在に上書きされているのだ。


 いや、違う。母や妹に言わせれば、これは「上書き」ですらない。これが「最初から」の姿なのだ。


 翌日、俺は意を決して夏美に話しかけた。二人きりになるタイミングを見計らい、近所の公園まで連れ出した。


「夏美、正直に言ってくれ。あれは、親父じゃないだろ。俺たちの親父は、あんな醜い恰好はしてなかった。ちゃんと人間の男だったはずだ」


 夏美は、俺の顔をじっと見つめた。その瞳には、憐れみと、純粋な困惑が浮かんでいる。


「お兄ちゃん、どうしちゃったの? 疲れてるの? お父さんは昔からお父さんだよ。小さい頃、お兄ちゃんもお父さんの背中に乗って遊んだりしてたじゃない」


 そんな記憶はない。俺の記憶にあるのは、硬い背広の感触と、煙草の匂いだ。

 豚の脂ぎった背中などではない。だが、夏美の口ぶりはあまりにも自然で、確信に満ちていた。

 まるで、俺のほうこそが、ありもしない幻覚を見ているのだとでも言うように。


「お兄ちゃんが都会に行って、何か変なものでも食べたの? お父さんは、いつもリビングのソファでテレビを見てる、優しいお父さんだよ。ね?」


 その言葉は、重い鉛となって俺の胃の底に沈んだ。

 狂っているのはどちらだ? 俺か、それとも家族か?

 この家の中では、俺の常識こそが「異常」だった。


 家に帰ると、母が豚の体を拭いていた。

 湯気の立つタオルで、ぬめった皮膚の汚れを丁寧に拭き取っている。

 その光景は、献身的で、滑稽で、そして恐ろしかった。


「あら、和也。ちょうどよかった。お父さんのお体を拭くのを手伝ってちょうだい」


「……嫌だ」


「どうして?和也もお父さんの子でしょ?家族なんだから、当たり前のことじゃない」


 母の目は笑っていなかった。

 それは道理のわからない子供を諭す、静かで冷たい光を宿していた。


 俺はもう限界だった。この狂った家から一刻も早く逃げ出さなければならない。

 自分の精神がこの不条理に汚染され、破壊されてしまう前に。

 荷物をまとめるために自室に戻ろうとした俺の背中に、母の声が突き刺さる。


「和也、みんなでご飯を食べましょう。お父さんもお腹を空かせてるわ」


 その声には何の棘もなかった。ただ、当たり前の日常を告げる、穏やかな声だった。


 振り返ると、母は豚の体を拭くのをやめ、まっすぐに俺を見ていた。

 その隣で、夏美も同じ顔で俺を見ていた。

 二人分の視線が、家族の輪に入ろうとしない俺という「異物」を静かに見つめている。


 その瞬間、俺の中で何かがぷつりと切れた。


 そうだ、俺がおかしいのかもしれない。

 一年ぶりに帰ってきた俺だけが、この家の変わらない秩序を理解できていない。

 俺だけがありもしない過去の幻影に囚われている。父はあの豚なのだ。

 太って、汚くて、言葉も話さず、ただ貪り、眠るだけの生き物。

 それが、俺の父の「昔からの」姿なのだ。


 俺はゆっくりと踵を返し、母と、豚のいるリビングへと歩を進めた。


「……ごめん、母さん。手伝うよ」


 俺がそう言うと、母と夏美の表情が、ふっと和らいだ。


「ええ、そうしなさい、和也」


 俺は震える手でタオルを受け取り、豚の前に膝をついた。

 間近で見るそれは、想像を絶するほどに醜悪だった。

 濁った瞳、荒い息遣い、糞尿の酸っぱい匂い。

 俺は嘔吐感をこらえながら、そのたるんだ腹の肉を拭いた。

 豚は気持ちよさそうに、フゴ、と鼻を鳴らした。


「上手よ、和也。お父さんも喜んでいるわ」


 母の声が遠くに聞こえる。俺は無心で手を動かし続けた。

 この家の静かな狂気に、俺もまた、その身を沈めていく。


 窓の外では、真夏の太陽が何もかもを焼き尽くすかのようにぎらぎらと照りつけていた。


 これが、俺の帰るべき実家なのだ。

 これが、俺の家族なのだ。

 そして、この醜い獣が、俺の父親なのだ。


 俺はもう、そこから逃げ出す術を知らなかった。

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不悪院 @fac

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