剥がれた影(ショートショート)
雨光
頭を下げない男
私は、成功という、眩い光の、その真ん中に立っていた。
若くして築き上げた富と、名声。
私の言葉は、いつしか、絶対の重みを持つようになった。
かつて、泥水の中を這うようにして生きていた頃の、あの卑屈な自分は、もう、どこにもいない。
私は、私の力だけで、この場所へと、登り詰めたのだ。
その日、役員会議で、古参の役員が、私の計画に、些末な懸念を述べた。
私は、それを、鼻で、あしらった。
「私の判断が、常に、正しいのだよ。君は、黙って、従っていれば、それでいい」
その帰り道。
夕陽に染まる、ビルの大きなショーウィンドウに、自分の姿が、映った。
その時だ。
ガラスの中の、私の「影」が、まるで、意思を持っているかのように、一瞬、私とは違う、深い、深い、お辞儀をしたような気がしたのは。
初めは、目の錯覚だと、私は、思った。
しかし、その日から、私の影は、私という主人を、静かに、裏切り始めた。
私が、尊大に、胸を張ると、影は、地面に、その額を擦り付けるように、卑屈に、平伏している。
私が、ウェイターを、顎で使うと、影は、その足元で、何度も、何度も、頭を下げている。
私は、その、私の影の中に、あの、私が、最も嫌悪し、捨て去ったはずの、過去の、貧しい、惨めな自分の姿を見て、激しい憎悪を覚えた。
私は、影を、消そうとした。
書斎の、すべての照明を、煌々と、点けた。
影のできる隙間など、どこにもないはずだった。
しかし、私の影は、光とは、何の関係もないかのように、より一層、その黒さを増して、床に、壁に、まるで、黒い染みのように、じっとりと、存在し続けている。
そして、それは、徐々に、形を持ち始めた。痩せて、少し猫背の、あの頃の、貧相な「私」の、姿に。
ある夜、その影は、ついに、はっきりとした実体を持って、私の前に、立った。
それは、まさしく、十年前の、まだ、何者でもなかった頃の、私自身であった。
影は、静かに、その、青白い唇を、開いた。
声は、なかった。しかし、その言葉は、直接、私の脳髄に、響いた。
『お前が、忘れてしまった、すべての「感謝」を、私が、代わりに、返してきたのだ』
影は、語り始めた。
私が、事業を始める際に、なけなしの金を貸してくれた、あの恩人の名を。
私が、その成功の過程で、無慈悲に、切り捨てた、あの友人の名を。
私を、信じ、支えてくれた、名もなき、大勢の、部下たちの名を。
影は、その一人、一人の、家を、夜な夜な、訪ねては、土下座をして、謝罪して、回っていたのだと、言う。
そうか。
私は、すべてを、理解した。
この、不気味な影の正体は、私が、成功と共に、心の中から、完全に、切り捨ててしまった、「謙虚な心」と、「他者への感謝の念」、そのものだったのだ。
それは、怨念などではなかった。
私の魂が、傲慢さの毒に、完全に、腐り落ちてしまうのを、防ごうとしていた、私の、最後の、良心の、働きだったのだ。
『すべての、心の負債は、これで、返し終えた』
影は、そう、私に告げた。
『もう、私がお前に、してやれることは、何もない』
そう言うと、影の体は、その足元から、さらさらと、まるで、黒い砂の城のように、静かに、崩れ始めた。
「待て、行くな!」
私が、生まれて初めて、心の底から、叫んだ時、影は、もう、跡形もなく、消え去っていた。
それ以来、私の足元には、二度と、影が、できなくなった。
真夏の、強い陽光の真下に立っても、眩いスポットライトを浴びても、私の足元には、不自然なほど、影が、ない。
富も、名声も、まだ、私の手の中にある。
しかし、私は、知ってしまった。自分が、人間として、最も、大切で、根源的な何かを、永遠に、失ってしまったのだということを。
影を失った人間。それは、魂の、半分を、失った、ただ、空虚に、光を反射するだけの、存在に過ぎない。
私は、この、決して、埋まることのない、底なしの喪失感を、抱えながら、これからの、長い、長い人生を、生きていかなければ、ならないのだ。
剥がれた影(ショートショート) 雨光 @yuko718
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