ゴミ箱の囁き(ショートショート)

雨光

静かなノイズ(ショートショート)

深夜の編集室。私は、ただ一人の、世界の創造主であった。


モニターに映る人々の顔、その言葉、涙、そして沈黙。


それらはすべて、私の指先から生まれる、粘土のような素材に過ぎない。


私は、それらを切り取り、繋ぎ合わせ、美しいテロップと、感傷的な音楽で飾り付け、完璧な「物語」を編み上げる。


真実がどこにあるか、などということは、些末な問題であった。


重要なのは、この「物語」が、視聴者の心をどれだけ揺さぶるか、ただ、それだけだ。


最近、私が作り上げた傑作は、ある孤独な老人の自殺事件だった。


近隣トラブルを頻発させる、偏屈な老人。


その分かりやすい「悪」の像を、私は、巧みな編集で見事に描き出してみせた。


視聴率は、良かった。


その夜からだ。私の編集室が、静かに、しかし、確実に、その姿を変え始めたのは。


ヘッドフォンを付けると、ブツ、ブツという、断絶したノイズに混じって、声が聞こえる。


編集で、私が切り捨てたはずの、インタビュー対象者たちの、使われなかった言葉の断片だ。


「そこは、そうじゃなくて……」

「本当は、あの人は、そんな人じゃ……」


囁き声は、まるで、ゴミ箱の底から響いてくるようであった。


PCのデスクトップに、見慣れぬファイルが、いつの間にか、生成されている。


私が、物語に不要だと判断し、ゴミ箱へ捨てたはずの、映像データの残骸。そこには、私が報道したのとは全く違う、人々の顔があった。


子供の、屈託のない笑顔。夫婦の、穏やかな食卓。


そして、あの自殺した老人が、庭の片隅に咲く、名の知れぬ草花を、愛おしそうに、ただ、静かに、眺めている横顔。


私は、システムの不具合か、誰かの悪質な悪戯だろうと、自分に言い聞かせた。

しかし、怪異は、私の理性を、じわりと蝕んでいく。


プレビュー用のモニターに、何も映していないはずなのに、砂嵐が走る。


そして、その嵐の向こうに、あの老人の、深く皺の刻まれた顔が、怨めしげに、浮かび上がるのだ。


これは、ただの現象ではない。私に向けられた、明確な「意志」だ。


私は、恐怖に駆られ、あの老人の事件の、すべての素材データを、もう一度、見返すことにした。


私が切り捨てた、膨大な「真実」の死骸の中から、何かを探し出さねばならぬ。


そして、私は、見つけてしまった。


取材時に、老人の一人娘だという女から届いていた、一件の、長いメール。


私は、それを、多忙を理由に、読んでさえいなかったのだ。


その文面は、静かな、しかし、血が滲むような言葉で、こう綴られていた。


『父は、若い頃の病が原因で、耳が遠く、それ故に、声が大きかっただけです。孤独で、人付き合いが、ひどく不器用な人でした。母を亡くしてからは、庭の、あの小さな花壇だけが、父のすべてでした。あなたの報道は、そんな父が、たった一つ、大切に守っていた、最後の誇りさえも、奪い去りました。父は、あなたの作った、あの冷たい『物語』に、殺されたのです』


ああ、そうか。


私は、理解した。


この編集室を彷徨う怪異の正体は、この老人の、声にならなかった声、切り捨てられた真実、そして、踏みにじられた、一つの魂の、最後の叫びだったのだ。


私がゴミ箱に捨てた無数のデータの断片に、彼の無念が宿り、私に、真実を見るようにと、訴えかけていたのだ。


私は、その夜、誰に命じられるでもなく、たった一人、編集室に籠った。


そして、一本の、映像を、作り始めた。


扇情的なテロップも、感傷的な音楽も、ない。


ただ、庭の花を愛で、亡き妻の遺影に語りかけ、不器用に、しかし、懸命に生きていた、一人の、孤独な老人の、ありのままの記録。


夜が明ける頃、その短い映像が、完成した。


その、最後のフレームをレンダリングし終えた、瞬間。


編集室を包んでいた、あの執拗な囁き声も、モニターを覆っていた砂嵐も、まるで、朝霧が晴れるように、すーっと、消えてなくなった。


私は、完成した映像を、誰に見せるでもなく、静かに、PCのゴミ箱へとドラッグした。


そして、朝日が差し込む窓の外を、しばらく、眺めていた。

もう、ここには、私の居場所はない。


数日後、私は、あの老人が住んでいたという、家の跡地を訪れた。家は、既に取り壊され、そこは、がらんとした更地になっている。


しかし、その、乾いた土の片隅に、一輪だけ。


名の知れぬ、小さな、白い花が、まるで、何かを待っていたかのように、凛として、咲いていた。


それを見た私の目に、いつ以来か、思い出せぬほど、久しぶりに、熱いものが、込み上げてきた。

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ゴミ箱の囁き(ショートショート) 雨光 @yuko718

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