第10話 芽生える感情と、次なる試練
心臓が、まだバクバクと鳴っている。
覆いかぶさってきた彼の体温と、間近で見た驚いたような顔が、脳裏に焼き付いて離れない。
カビと古い紙の匂いに混じって、ふわりと香った、彼のかすかに甘いシャンプーの匂い。
「だ、大丈夫ですか、会長!?」
ハッと我に返ると、影山くんが慌てて俺の上から体を離していた。
俺としたことが、一瞬、完全に思考が停止していた。
「え、ええ……問題ないわ」
平静を装い、スカートの埃を払いながら立ち上がる。だが、自分の耳が少し熱を持っているのが分かった。薄暗い書庫でよかった。きっと、顔も赤くなっているに違いない。
「……あなたの『幸運』に、また助けられたようね」
少しだけ、声が上ずってしまったのはご愛嬌だ。
結局、その日は時間切れとなり、書庫の整理は中途半端なまま終了となった。
彼のボロを出させるどころか、逆に私がペースを乱されっぱなしの一日だった。
帰り道、夕暮れの校舎を二人で並んで歩く。気まずい沈黙が、やけに重く感じられた。
「……影山くん」
耐えきれずに、俺から口を開いた。
「あなたは……本当に、ただ運がいいだけなのかしら」
それは、独り言のようでもあり、心の底からの疑問でもあった。
彼は、少しだけ空を見上げてから、いつものように困った顔で笑う。
「さあ……どうなんですかね? 自分でも、よく分からないんですよ」
その、のらりくらりとした態度に、俺は少しだけ苛立ちを覚えながらも、次なる試練を宣告する。
「明日の任務は、『飼育小屋の世話』よ。特に、Bランクモンスター『グリーフ・グリフォン』の雛は気性が荒いことで有名だわ。あなたの幸運が、獰猛な動物相手にも通用するか、見ものね」
彼が「げっそり」という効果音を背負って顔を引きつらせたのを見て、俺は少しだけ溜飲が下がった。
その時だった。
「会長」
曲がり角から現れたのは、風紀委員長の黒鉄ゴウと、彼の部下たちだった。スキル犯罪のパトロール帰りだろうか。
黒鉄委員長は、私と影山くんが二人きりでいるのを見ると、あからさまに厳しい視線を向けた。
「またそのGランクとご一緒ですか。会長、あまり素性の知れない者と行動を共にするのは、感心しませんな」
「彼は私のオブザーバーよ。あなたには関係のないことだわ」
私が冷たく言い放つと、黒鉄委員長は不満げに口をへの字に曲げたが、それ以上は何も言わなかった。
彼が去り際に、耳元で不穏な情報を落としていく。
「最近のスキル暴走事件ですが、どうやら犯人は生徒個人のスキルデータを狙っているようです。会長も、お気をつけを」
スキルデータを……?
その言葉が、私の胸に小さく引っかかった。
——————
「はぁ……疲れた……」
白金姫奈と別れ、一人になった帰り道。俺は今日の出来事を反芻し、心底うんざりしていた。
(やべぇ、今日はマジでギリギリだった……。特に最後のは、完全に計算外だ)
彼女を庇う形になったのは、ほとんど無意識の行動だった。あのままでは彼女が怪我をすると、体が勝手に動いてしまったのだ。
(このままじゃ、いつか絶対にボロが出る。あの女帝の監視、思った以上に厄介すぎる……!)
だが、ここで諦めるわけにはいかない。俺の平穏な日常は、俺自身が守り抜くしかないのだ。
俺は夕日に向かって、静かに拳を握りしめた。明日も、全力で「幸運な陰キャ」を演じきってやる、と。
その頃、自室に戻った白金姫奈もまた、今日の出来事を思い出していた。
特に、脳裏から離れないのは、本の雪崩が起きた、あの瞬間。
(彼の動きは、本当にただの偶然だったのかしら……)
思い出そうとしても、速すぎてよく見えなかった。
だが、あの時、彼は確かに「会長、危ない!」と叫んだ。
そして、私を庇うようにして、覆いかぶさってきた。
(まるで、私を守るために……。いや、そんなはずはない。彼は自分の身を守るために、偶然、私の方へ倒れてきただけよ。そうに決まっている)
そう理屈では分かっているのに、心が言うことを聞かない。
あの時の、間近で見た彼の真剣な顔。
いつもヘラヘラと情けない顔ばかりしている彼が、一瞬だけ見せた、全く違う表情。
「……影山ケイト」
気づけば、彼の名前を呟いていた。
彼を知れば知るほど、彼のことが分からなくなる。
Gランクの、臆病で、情けなくて、それでいて、信じられないほどの幸運を持つ少年。
そして、時折、心臓がドキリとするような表情を見せる、不思議な人。
「……あなた、一体何者なの」
机に置かれた、明日の任務計画書。『グリーフ・グリフォンの世話』という文字が、やけに挑戦的に見えた。
明日こそ、彼の化けの皮を剥がしてみせる。
そう決意しながらも、姫奈の心には、これまで感じたことのない種類の、奇妙な高揚感が芽生え始めていた。
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