第丗二話 愛されてるねぇ
「由布殿……本当にそれでいいのですか?
あなたはまだ若い。父と離縁して、全く違う人生を歩むこともできる。
新たな生活基盤が必要なら、全力で援助します。
“異能特務局”で働きたいのでしたら、斡旋も致しましょう。
縁談が必要なら、ご用意します。
だから――これ以上、父の……斎部の犠牲にならないでください。」
我妻の斎部の居館を去る朝、清孝とりよは、まだ床上げのできぬ由布を訪ねた。
斎部家を取り巻く人々は、それぞれ今後の身の振り方を決めていた。
ただ一人、父の七番目の妻・由布だけが、まだ清孝に結論を告げていない。
「……ええ。清孝さまのお申し出はありがたいのですが――やはり私は、清義さまのそばに居とうございます」
女中に支えられ、枕元から身を起こした由布は、儚げな面差しで、それでもはっきりと言い切った。
「だが……父は今年五十になる。由布殿は、まだ十九。
親子ほども離れているのですよ。
そんな、すでに老境に差しかかった男の相手など――」
理解しかねる、と清孝が首を振ると、由布はクスクスと笑った。
「そうですね。けれど……私は清義さまをお慕いしております。
それこそ、この身を燃やし尽くしても悔いはないほどに。
清孝さまが、お父上をどう見ておられるか――私にはわかりません。
けれど私にとって清義さまは、ただひとり。
あの方と過ごした時ほど、私の人生が光に満ちたことはありませんでした。」
由布は、本当に幸せそうに微笑みながら、布団の上で組んだ指を見つめていた。
「清孝さまが、斎部のすべてを背負い、新たに当主となられたと聞きました。
清義さまのまわりは、きっと寂しくなられるでしょう。――だから私は、せめて、その御側を離れたくないのです。」
「でも、父はあなたを番号で呼び、物のように――」
清孝はなおも由布に言い募った。
だが由布は、ゆるやかに首を横に振る。
「人前では“七番”としか呼ばれませんでしたが……。
二人きりのときには“由布”と名を呼んでくださったのです。それが、何より嬉しゅうございました。
りよさまに癒していただいたこの命――まだお役に立てます。
どうか、あの方にお仕えさせてくださいませ。」
「……父上に拒まれたら、どうするのです。
“お前を解き放つ”と申したら。」
清孝は探るように問いかけた。
「その時は、誠心誠意、御側に置いていただけますよう、お願いいたします。
認めていただけるまで、身の回りのお世話を務め、何度でも――何度でも、お願いいたします。」
由布の固い決意に、清孝はひとつ深く息を吐いた。
そして、戸口の方へ声を投げる。
「……だそうですよ、父上。」
由布は驚き、ぱっと目を見開いて振り返った。
「私には、由布殿を説得する才はございません。――ご自分で、なんとかしてください。」
呆れ声で告げる清孝の背後、戸口の影から清義が兵右衛門に伴われて現れる。
家督を清孝に奪われ、神威を失ったのを自覚してからの彼は、すっかりしぼんだかのように、かつての覇気を失っていた。
「……由布……そなたは、それで良いのか。
せっかく拾った命だというのに……こんな老いぼれのために、無駄にしてしまってはならぬ。」
由布の床の脇に座り込んだ清義は、彼女の目を見ることもできず、ただ畳の目を追うばかりだった。
そんな彼に、由布は微笑みながら、そっと膝へ手を添える。
「無駄などではございませぬ。
私は、清義さまに嫁いでからこそ、本当の人生が始まったと存じております。
だから……どうか、この由布を、御側にお置きくださいますよう。」
由布の声は細くとも、確かに響いていた。
清孝は静かに立ち上がり、りよもその後に従った。
その先、清義と由布がどうしたのか――二人は振り返らず、ただ立ち去った。
「父上の――ああいう姿を見るのは、どうにも目を覆いたくなる。」
清孝は渋い顔をして、りよに漏らす。
「まあ……そうですよね。」
りよも苦笑しながら、同意する。
「でも……清孝さまとお義父様、意外と似ておられるのかもしれませんね。女性を大切にするところなんて。」
「勘弁してくれ……」
少しからかうようなりよの口調に、清孝は顔に血が上るのをどうしようもなく感じていた。
やがて、由布が斎部の家を去ったという話は、ついぞ聞かれなかった。
――それだけで、二人には、十分すぎる答えだった。
+++++
東京に戻って最初にしたことは――、
篠崎資雅の牙城、“異能特務局”準備室へ赴くことだった。
「ほぉ?すごいじゃないか。まさか、斎部がこうも崩壊……おっと失敬、瓦解してくれるとは。」
「……全然本音が隠れてないぞ。言い直しても同じ意味だろうが。」
ニヤニヤと喜びを隠しきれない資雅に、清孝の鋭いツッコミが飛ぶ。
その横で、りよはクスクスと面白そうに笑っていた。
「しかしなぁ……国内有数の神威持ちの異能集団、斎部の帰順は確かに喜ばしい。
だが――清孝殿、君は少々、力をつけすぎてはいないか?
それこそ、現人神であらせられる陛下すら……霞んで見えてしまうほどに。」
「おい……滅多なことを言うな。不敬罪で睨まれるなんて面倒は御免だ。
それに……、所詮は関東一円の神と、日の本全土を統べる御方だ。比べるまでもない。」
「まあ――そういうことにしておこうか。
しかし、炎の使い手三十人とは、予想外だったな。ふふん……いやぁ、これは実に愉快だ。
これなら他属性の異能者との協力戦も、集団戦も夢ではない。――さーて、どう料理してやろうか……」
「……異能者は遊び道具ではないぞ。
とにかく、ここに希望者全員の身上書をまとめてある。火の異能だけでなく、他の属性の者もいる。――必ず、目を通せ。」
清孝は、こよりで綴じられた分厚い帳面を資雅の前へ突き出した。
資雅はそれを押し戴き、目を細めながら、舌なめずりするようにページを繰っていった。
「ところで、りよちゃんはどうするの?
もう、二神の和合は成ったんだよね?――でも、神威の質があまり変わっていないようだけど。」
帳面を流し見ていた資雅が、視線を上げ、清孝とりよを交互に見やった。
清孝は気まずそうに目を伏せ、りよはきょとんと首を傾げる。
「……二神の?」
「うん、閨。ほら、君たち――もう寝たんだろう? なのにその気配が全然ないんだよねぇ。」
あっけらかんとした物言いに、りよは最初ぽかんとしたが、やがて意味を理解した瞬間――耳まで真っ赤に染まり、袖で顔を隠した。
「資雅殿! おなごの前だ、言葉を選べ!」
清孝が顔を真っ赤にして怒鳴った。
「……まさか、本当にまだ一つになっていないの?
なのに清孝殿は、これほどまでに強化されている……? いや、いやいや、そんな予想外……えぇっ、どういうことだ!?」
資雅が珍しく慌てふためく横で、りよは真っ赤な顔を袖で隠し、どうしていいかわからず固まっていた。
三者三様、場は収拾がつかなくなっていた。
「――私に分配されていた斎部の神威は、僅かなものにすぎなかった。
今は、分家に分散していた分まで、すべての陽の気も神威も、この身に集約された……それだけだ。」
ようやく落ち着きを取り戻した清孝が言うと、資雅は再び目を剥いた。
「斎部の神が強力だとは聞いていたが……まさかこれほどとは。
え、じゃあ、和合が成ってしまったら――君たち、一体どれほどになるんだい……」
「知らん。」
清孝が言い捨てると、資雅は苦笑まじりにこめかみを揉んだ。
「まあ、強者が増えることは喜ばしい。
だが……やるなら早々に頼むよ。こちらとしても、正確な戦力を把握した上で発足したいものだからね。」
サバサバした物言いに、りよはますます顔を赤らめ、袖の後ろへと身を隠した。
「それはともかく……どのみち君たち夫婦は、今後“二人で一つ”という括りになるだろう?
で、話を戻すけれど――りよちゃんをどう扱うか、だ。
今のまま“奥方”という立場では、軍の枠組みに入ったとき、必ずまずい局面が出てくる。」
「……まさか、りよを軍属にする気か? 女を軍に登用するなど、本当に可能なのか?」
いぶかしげに問う清孝に、資雅はニヤリと笑った。
「普通の陸軍では無理だろうね。だが、ここは“異能特務局”だ。
かねてより考えていたのだが、女性の登用も視野に入れたい。
異能は貴重だ。ここでは性差より能力が勝る――そうするつもりだよ。」
資雅はりよに向き直り、真っ直ぐに問いかけた。
「ねえ、りよちゃん。君はどうしたい?」
真剣な視線に気づいたりよは、袖の陰からそっと顔を出す。
夫を伺い、それからもう一度資雅を見返した。
「……清孝さまのお力になれるなら、最も良き道を選びたいと存じます。」
小さいけれど、はっきりとした声で。
「女が軍人なんて、と陰口を叩かれるかもしれないよ? 本当に大丈夫?」
「はい。そんな外聞よりも、清孝さまがご無事で、安定してお力を
資雅は挑むようにしばらくりよを見つめた後、ふっと表情を緩めた。
「――なんだってさ。清孝殿、愛されてるねぇ。
まったく、なんでこんな二人がまだ結ばれてないんだか……理解に苦しむよ。
あーもぅ、いいかい? 上官命令だ。今夜だ。必ず契れ。いいね?」
「資雅殿ッ!」
清孝が顔を真っ赤にして声を荒げるのを、りよは再び戻った袖の陰から慌てて見上げた。
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