第丗話 閨に響く声
屋敷の一室。
白無垢を着せられ、布団の脇に座らされたりよは、緊張のあまり自分の手ばかり見つめていた。
爪の甘皮をいじりすぎて、うっすら血が滲んでいる。
「封印の儀が始まったそうです。御館様は、あと数刻でおいでになるでしょう」
若い女中が知らせに来る。
りよの傍らで控えていた黒刀自は、女中に軽く頷き返すと、にこやかにりよへ声を掛けた。
「奥さま、大丈夫ですよ。そんなに緊張なさらず、ゆったりとしたお気持ちでお迎えなされば――きっと、素敵な夜になります」
けれども、その慰めはりよの耳には届かない。
――清孝さま以外の男と枕を共にするなんて……。
――どんな相手であれ、受け入れられるはずがない。
――けれど、ご当主様を拒めば、清孝さまは廃嫡なされてしまう。
――彼のためだと思えば……この身を差し出すしかない。
――でも、そのあと私は……?
――穢されたこの身を抱えて、清孝さまに顔を合わせられる?
清孝と引き離されてから、幾度も考え、幾度も覚悟し、決断しては揺らぎ――その繰り返しだった。
「奥さま、そんなにお顔を曇らせてはなりません。
御館様のお相手に指名されるのは、大変な名誉なのです。
誰にでも務まることではございませんし――選ばれた方は皆さま、最後まで幸せな御様子でした。
私ども女中衆も、あこがれてしまうほどに」
黒刀自のその言葉も、この三日間、耳にたこができるほど聞かされた。
――そんなに憧れるのなら、あなたが代わればいいのに。
私はただ、清孝さまの御側にいたいだけなのに。
思わず、りよは恨めしく黒刀自を見返してしまう。
――どうして、今なの……。
自分の気持ちは伝えた。まだ答えはいただいていないけれど、清孝さまも少なからず、私を思ってくださっている。
やっと確信できた、この時に……。
――もし、まだ一年後の離縁を覚悟していた時なら。
せめて心を通わせる前なら、少しは安らかに、この身を差し出せたかもしれないのに。
りよの視線を何と思ったのか、黒刀自は困ったようにあいまいに微笑み、立ち上がった。
部屋の隅に置かれた小さな
「まだご不安でしたら――この香を焚きましょうか。
心を落ち着ける薬湯もございますが……」
りよは、彼女の手元に目を留めた。
この三日間、幾度か嗅がされた香。
その甘く、深いところに苦みを含んだ香りを嗅げば、胸の奥がふっと緩み、意識は霞んで、葛藤も罪悪感もどこかへ遠ざかっていった。
――あの朦朧としたままなら……。
清孝さまではない男に抱かれても、心だけは守れるのかもしれない。
ほんの一瞬、唇を噛みしめた。
だが次の瞬間、諦めがすべてを呑み込み、りよは首を縦に振っていた。
「……ええ。お願いいたします」
素直に頷いたりよの様子に、黒刀自は胸をなでおろし、いそいそと香の支度を始めた。
小箱から抹香を取り出し、火を移そうとした――その時。
襖の外でざわめきが走り、女中の声が鋭く響いた。
「ご当主様、お渡りにございます!」
黒刀自の手がびくりと揺れる。
「……今、焚いてしまうと、お館様にも影響が……。奥様、申し訳ございませんが、香は後ほどに……」
慌てて火を吹き消し、黒刀自はりよにすまなそうに頭を下げた。
りよはただ、固く唇を結んだ。
――霞に逃げることさえ、許されないのか。
やがて襖の向こうで慌ただしい気配が走り、幾つもの足音が近づいてくる。
黒刀自をはじめ、寝所に控えていた女中たちは一斉に居住まいを正し、背筋を伸ばした。
りよも、反抗的だと思われぬように倣い、足を組み直し、裾のしわをそっと指で伸ばす。
「ご当主様、お渡りにございます――」
襖の外から奉公人の声が響き、女中たちは深々と頭を下げた。
りよも一拍遅れて畳に手をつき、額を擦りつける。
襖の開く音がして、心臓が張り裂けそうなほど高鳴る。
「りよ――我が妻。顔を上げてくれ」
その瞬間、聞きなれた青年の声に、りよはハッと目を見開いた。
恐る恐る顔を上げると――そこに立っていたのは。
「……きよ……たかさま……」
彼女が夢にまで見た、愛しい人。
清孝は白衣の
別れる前と一つ違うことは、彼の目が澄んだ天の蒼色に光を放っていたことだった。
覚悟に覚悟を重ね、心を殺し、すべてを諦めた――その刹那。
彼女の前に、夫が再び立っていた。
胸にのしかかっていた重石が消え、空虚が心を支配する。
けれど、それも一瞬にすぎなかった。
「……清孝さま――」
声は震え、喉がかすれる。
清孝は膝をつき、ためらいもなく彼女を抱きしめた。
張り詰めていた身体がふっと弛み、涙があふれる。
「りよ。今帰った。私が来たのだから、もう何も案ずるな」
彼女の頭を抱き寄せ、頬や鼻を擦り付ける。
そして短い口づけを交わした。
塩辛い涙の味が広がり、二人は見つめ合って小さく笑った。
清孝はりよの身体をそっと布団に横たえ、自らも覆いかぶさるようにして彼女を再び抱きしめる。
「りよ……我が妻……」
「清孝さま……」
甘い声と衣擦れの音が室内に響いた。
部屋に控えていた当主衆や奉公人、女中たちは、閨の始まりに、一礼して静かに退いていく。
最後に黒刀自が深々と頭を下げ、襖を閉じた。
彼らの足音が去って、静寂が戻るまで待ち、清孝は彼女の上から退いた。
それから、彼女を抱き起こして胸に引き寄せる。
「……ようやく、余計な耳を追い払えた。
今は、そなたと私だけだ」
安堵の吐息とともに、彼はりよの背を撫でる。
りよも愛しい夫の温もりに身をゆだねた。
「りよ――父に手は出されてはいないな?」
「はい……。清孝さまは、その――瞳が……」
息を呑む彼女の前で、清孝の瞳は天色にきらめいていた。
りよは恐る恐る指先で頬をなぞる。
清孝は低く、しかし確信を込めて告げた。
「この身に神を降ろした。……そなたの身に宿る神の夫神だ。」
「夫神……?」
りよは彼の天色の瞳を見つめたまま、震える声で繰り返す。
「ああ。そなたの中には、『美戸香比売』という和魂の妻神が宿っている。
手向村で、ミタギリ神がかしづいたのを覚えているか?
あの原初の妻神の夫こそ、我が斎部が千五百年にわたり封じてきた荒魂――『戸神名神』だ。
私は奴と取引し、封印を解いて、この身を供したのだ」
『取引きぃ? なぁに言ってるの、“泣きついた”の間違いじゃん?』
突如、軽薄な若い男の声が、りよと清孝の頭に直接響いた。
「なっ……?! この声は……!」
りよは青ざめ、清孝の袖を思わず握る。
清孝は苦虫を噛み潰したように顔をゆがめ、低く吐き捨てた。
「……奴が『戸神名神』だ。黙れ、取り込み中だ」
『りよちゃん、騙されないでね? こいつ、“妻をとられたくないよぉ”って、涙目で縋り付いてきたんだから』
「嘘を吹き込むな! 私はすがってなどいない。
私が身を貸さねば、現世に指先ひとつ出すこともできまいくせに!」
『はいはいはいはい、わかりましたぁ。で、いつになったら始めるの? 話なんて後でいいじゃん』
「……はじめる?」
りよがきょとんと聞き返す。
『そうそう。僕は妻との和合を果たしたくて、そこの坊やに力を貸したんだ。
和合とは――閨、同衾、交接……つまり性行為だよ!
ね、清孝も、りよちゃんも、早くしたいだろ? ね?ね??』
あけすけな神の言葉に、りよは顔を真っ赤に染め、清孝の胸元に顔を押し付けた。
鼓動が早鐘を打ち、息が詰まりそうになる。
清孝は不機嫌そうに鼻を鳴らし、りよの肩を抱き寄せながらぼそりと言った。
「……今夜はしない」
『なんでさ! 清孝、あんたの身体の中、陽の気でパンパンに張ってるだろ? りよちゃんの中で発散したいはずだろ?』
「黙れ、色欲魔め」
清孝は冷ややかに言い放つ。
「父が妻を奪うためにあつらえたこの場所で、大切な初夜を迎えられるか。
それに、この程度の陽の気――一晩添い寝すれば静まる。
私が望む時に、私の床で、私の妻として迎える。それまでは誰にも渡さぬ」
『そんなぁ、どこでやったって同じじゃないかぁ。
ね、りよちゃんはしたいよね? ね??』
「い……いえ、私も今夜は、もういっぱいいっぱいで……。
清孝さまが望まれるなら……その……覚悟はいたしますけれど……」
りよは顔まで真っ赤にして、言葉を探しながら続ける。
「でも……それよりも、今は……ゆっくり、身を寄せ合っていたい……かな」
言ってしまった自分に驚き、さらに耳まで熱くなる。
『ええぇぇぇぇ!? 二人してそんな清らかなこと言っちゃって……!』
「実際に、私たちは清い関係なのだが……。
さあ、りよ。今宵はゆっくりと身体を休め、陰陽の均衡を整えよう。
明日はまた、馬の背に揺られねばならぬからな」
清孝はそそくさと掛布をまくり上げ、先に身を滑り込ませると、りよを引き寄せて抱き込んだ。
その胸に包まれた途端、りよの緊張がふっと解け、安堵の涙が瞳ににじむ。
『……ちぇっ、ほんとに寝ちゃうの? つまんないの』
「千五百年待ったのだから、あと数日や数か月など、大したことではあるまい。
その時は、私が望む形で迎える」
『えーーーっっっ数か月も待つつもりなの?! 信じらんない!せめて数日にしよう! 清孝、君って若いのに枯れてるのかい?』
「うるさい。時が来たら、と言っただろう……今日はもう寝かせてくれ……」
神の拗ねる声を、身を寄せ合ったまま聞き流しながら、二人は目を閉じた。
身体を重ねるよりも、今はただ寄り添うことの方が、互いの心を慰めてくれるのを感じながら――。
静かな眠りが、二人を包みこんでいった。
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