第廿八話 当主の証、蕨手刀

 目を開くと、そこは先ほどと変わらぬ牢の中だった。

 だが――手首を縛っていた手枷は、真っ二つに割れ、畳に転がっている。

 鉄格子の錠前も砕け、戸は半ば開いたまま揺れていた。


 見張りの奉公人二人は、床に倒れ、白目を剥いて動かない。

 息はある。だが、魂だけが抜け落ちたかのようだった。


 地下なので時刻は分からない。だが――禍神の言葉を信じるなら、猶予はない。

 すぐに地上へ向かわねばならなかった。


 着崩れた衣を荒々しく整え、棚に置かれていた愛刀をつかむ。

 腰に佩くと、ひたり、足音を殺して階段を上った。



 邸内は騒然としていた。

 奉公人が走り、白衣の男たちが器や箱を抱えて奥へと消えていく。

 慌ただしさは、清孝の逃亡が発覚したからではなく――封印の儀の準備のためだった。


 当主は今回の儀で、初夏から続く禍神の活性化に決着をつけるつもりらしい。

 祭具の数も人の出入りも、これまでより一段と大掛かりだった。


 邸内には招かれた分家や他家の当主、その奉公人までがうろついていた。

 清孝の顔を知る者にさえ出くわさなければ――外へ抜けるのは容易い。

 ……容易いはずだった。


 何度か出会い頭に本家の奉公人と鉢合わせしそうになり、そのたび物陰に身を潜めてやり過ごした。


 ふと、隠れている最中、中庭を挟んだ回廊に彼女の姿を見た。

 りよだ。

 女中たちに囲まれ、真白の衣を着せられている。

 美しく着飾られ、化粧を施されているが、思いつめたその表情は、花嫁というより、生贄のように見えた。


 ――封印の儀の後に、寝所で盃を交わすつもりか。

 閨に送るための、婚礼の体裁だけは整えたいと、悪趣味な儀礼だ。


 清孝は息を殺したまま、拳を握りしめる。

 りよを、父の手に渡してなるものか――。


 無事に邸内を抜け、縁側から庭へと潜む。

 外はすっかり暗く、新月ゆえに月もなく、闇は墨を流したように濃かった。


 玉砂利を踏まぬよう、岩の上、草の上を伝いながら裏手へと移動する。

 小枝がぱきりと鳴るたび、心臓が跳ねる。


 屋敷の裏にそびえる岩山。その中腹に口を開ける洞穴は、数十間もの奥行きを持つ。

 最奥には禍神の封印社があることを、斎部の者なら誰もが知っていた。


 かつては修験を装い「奥の院」と呼ばれていたが、今は諏訪神社の仮面をかぶっている。

 東京の斎部邸の裏山にある神社は、ここを本社としていた。


 参道はいくつかあったが、清孝はあえて一番険しい道を選んだ。

 岩肌は崩れやすく、木の根が突き出している。日が落ちてから通るには危うすぎて、この山を知る者なら誰も足を踏み入れない道だった。


 本来なら避けたい。だが――どうせ洞穴の前から先は、戦いは避けられない。

 ならばせめて、それまで体力も異能も削られぬ道を進むしかなかった。


 何度も足を踏み外しかけ、袖を枝や根に引き裂かれ、心が折れそうになる。

 だがそのたび、禍神が見せた幻影――りよを奪われる光景が、鮮烈に脳裏をよぎった。

 それは想像や記憶と言うよりも、頭に植え付けられたように、執拗によみがえる。


「……やれやれ。あやつめ、こんな形で私を奮い立たせるとはな」


 清孝は苦笑し、荒い息を吐いた。


 ――禍神は、本気で自分を依り代に望んでいる。

 ならば、この力は自分のものにもなる。


 忌々しさよりも、むしろ確信が胸を熱くする。


「共に行こう。私も、妻を渡すつもりはない」


 清孝は暗闇の山道をゆっくりと、しかし確実に目的地に向かって登って行った。



 やがて、洞穴の前の広場へたどり着く。

 清孝は気配を殺し、草むらに身を潜めて様子を探った。


 案の定、邸での準備から想像した通り、まだ封印の儀は始まっていない。

 ――封印の儀が始まった直後……封印が最も揺らぐその瞬間、禍神もそこを狙うはずだ。


 その時、足音が近づき、奉公人二人がすぐそばに立ち止まった。

 清孝は息を殺し、耳を澄ます。


「聞いたか? 清孝さまが牢から姿を消されたらしい」

「なんだって? 御館様にはもう?」

「いや、今は儀式に集中されたいだろうと、お伝えしていないようだ。何としてでも見つけねば、本当に廃嫡なされてしまう……」


「やはり“一番様”を取り戻すためだろうな。

 だが……あれほどまでに“一番様”に執着なさるとは……。主家の男子と言えども、哀れなものだ」

「初めて愛した女も、父に奪われる。耐え難いが――それが斎部男子の運命……」


 清孝は拳を握り、爪が掌に食い込むのも忘れていた。

 が、その時が来るまでは、微動だにせず草陰に身を潜める。


 やがて広場に灯された松明の炎が揺れ、祭壇の前に清義が姿を現した。

 紫紺しこんの斎服をまとい、ただ立つだけで場を圧した。

 その背に従うように、五家の分家当主たちが一人また一人と歩み出る。

 息を呑む静寂が広場を覆った。


 清孝はいよいよ立ち上がろうとした。

 ――だが、その刹那。


『まだだ……まだダメだよ。

 もう少し、もう少しだけ待ってくれ。

 僕が合図する。それまでは……絶対に動くな――』


 夢で聞いたのと同じ、禍神の声が頭の奥底に響き渡った。

 清孝は思わず舌打ちした。

 だが確かに、自分は導かれている――そう思うと、すっと心が落ち着いた。


 やがて、広場に低く長い祝詞が響きはじめた。

 松明の炎が揺れ、空気が震える。空気が震え、地の底からの呻きが折り重なる。


 その瞬間は、清孝にもはっきりわかった。

 ほんの息継ぎの合間。

 それまで場を覆っていた清義の力が、ふっと緩んだのだ。

 重い鎖が、一瞬だけ解けたように――。


 普段の封印の儀なら、きっと禍神も見逃していた隙。

 だが今回は違った。

 禍神は、その刹那を見逃さなかった。


『今だよ。さあ、おいで――』


 清孝の頭の奥底に、地の底から這い上がるような重い声が響いた。

 骨の髄まで震わせるその響きに、清孝は無意識に息を呑む。


 洞穴から、凍りつくような突風が吹き抜けた。

 松明の炎が大きく揺れ、斎服の裾がはためく。

 清義も、分家五家の当主たちの力も圧倒する、膨大な神威が広場を満たした。


 これまで斎部の者たちは便宜的に“禍神”と呼んできた。

 だがその神威には、禍々しさなど微塵もない。

 千五百年の封印ののちに甦ったのは――

 大気を震わせ、天を統べる、男神の原初の力だった。


「なっ……何事だっ!」


 威圧に膝をつき、額を地面に押しつけながら、清義は声を震わせた。

 他の者たちも次々と膝を折り、白衣の裾を汚し、力の弱い者はその場に昏倒している。

 呻き声と悲鳴が広場に散った。


 その中で、ただ一人――


 清孝だけが立ち上がっていた。

 重圧は胸を圧していた。だがその奥で、禍神の力が脈打ち、彼の足を揺るがせはしなかった。


『斎部清孝。貴君を我が依り代と指名する。さあ、こちらへ――』


 今度は清孝だけではなかった。

 空気そのものを震わせ、場にいる者すべての耳朶を打つ声となった。


 ざわめきが広がり、意識のある者は皆ハッと顔を上げ、広場の入口を凝視する。

 そこに――確かな足取りで進み出る清孝の姿があった。

 重圧に縛られることなく、ただ一人、地を踏みしめて歩を進めていた。


「清孝ぁっっ! これはどういうことだっ!」

 父・清義が声を裏返らせて怒鳴りつけた。


「父上――私はあなたの座を奪い、この身を依り代として神と新たな盟約を結ぶ!」


 清孝の張りのある声は空気を震わせ、その場にいる者すべてを圧倒した。


「一方的に封印する時代は終わる。これからは神と共に歩む時代だ。

 そして私が、その新時代の当主として立つ!」


「愚か者め! 禍津戸神名命は分かたれた荒魂にすぎぬ!

 そんなものに身を委ねれば、一族もお前も滅ぶのだぞ!」


 地に這いつくばったまま清義が怒鳴る。その傍まで歩み寄った清孝は、静かに腰を落とした。


「和魂なら、すでに我が手にある」


 父を真っ直ぐに見据え、帯刀へと手を伸ばす。

 それは、千五百年前より受け継がれてきた当主の証。

 次の瞬間――斎部家伝来の蕨手刀わらびてとうを奪い取り、鋭く抜き放った。


「我が妻・りよこそ、戸神名神の妻・美戸香比売を宿す者だ。

 ――あなたになど、渡すものか」


「貴様……」


 清義の目が悔しさに細められ、その声は喉の奥で掠れた。

 だが、刀を奪った清孝はもう一瞥もくれず、迷いなき歩みで洞穴の闇へと進んでいった。

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