第廿三話 白衣の意味

 清孝は、畳にずらりと並べられた着物を前に、しばし沈黙していた。

 やがて、低く、感情を押し殺した声で口を開く。


「……芳乃。これらの着物に、見覚えはあるか」


 着物はすべて、背中の襟の下――背守が露わになるように畳まれていた。

 その並べ方ひとつで、清孝が問いただそうとしている事柄を、芳乃は即座に悟った。

 が、何食わぬ顔で、笑みを深める。


「いいえ。奥さまのお召し物は、私も手を掛けておりますけれど、いちいち覚えてなどおりません」


「ちょっ……!」

「何を言ってるの、芳乃っ!」


 青ざめた鶴女と伊久瀬が、ほとんど同時に声を上げた。


「あたしゃ覚えてるよ! あんたが奥さまの背守を雑に縫って、縫い直しさせられてたのを!」

「そうだ、あんたはいつも奥さまを疎んじていた……だからって、若様のご指示まで踏みにじるなんて!」


「でも――私がやったなんて、証拠はどこにもないですよね?

 鶴女さんや伊久瀬さんが、私を陥れようって口裏合わせているかもしれないですよ?」


 芳乃は肩をすくめ、にやりと笑った。


「ほらぁ、鶴女さんは西家だし、伊久瀬さんは遠見の縁者でしょう?私の実家とは基本的に対立関係にありますよね?」


「若様に仕えてるんだから、家は関係ないよっ! バカにしないでおくれ!」


 伊久瀬も負けじと食ってかかる。

 舌戦が収拾つかなくなりそうになったその時――


「芳乃」

 清孝の声が、鋭く空気を裂いた。


「私が何の証拠も握らずに、お前をここへ呼んだと思うのか」

 頬杖をついたまま、片方の口角をわずかに釣り上げる。

「伍女。証拠を見せてやれ」


「はっ。それでは――」


 伍女は静かに両の手を、背守のひとつにかざした。

 次の瞬間、かすかな光の粒がふっと浮かび上がる。


「お前たちは知らぬだろうが……伍女の異能は特別だ」

 清孝はゆるりと告げる。

「他者の異能を増幅させるばかりか――このように、縫い目に残った微細な“異能の残滓”を引き出すことすらできる」


「――そして」

 清孝の声音は、静かに冷ややかに落ちた。

「この場で水の異能を持つのは……芳乃、お前だけだ」


 その一言に、芳乃の顔色がさっと消えた。

 だがすぐに我に返り、必死に声を張り上げる。


「い、いいえ! 奥さまも水の異能をお持ちだと小耳に挟みましたわ!

 まあ、いかほどの力かは存じ上げませんけれど……奥さまが触れたなら、水の気が残っていても――!」


「往生際が悪いぞ、芳乃」

 清孝はわずかに目を細め、言葉を切り捨てる。

「時間はかかるが、伍女の異能は術者の特定まで可能だ。……それに、その着物に限って言えば――りよは一度も触れていないのだが」


「……」


 今度こそ、芳乃は言葉を失った。

 口惜しげに噛みしめた唇の紅は、異様に濃く、まるで血がにじんだように見えた。


「私は――お前を、信頼に足る奉公人だと思っていた」


 清孝の声は静かで、表情には一片の揺らぎもない。


「妻の専属にと、伍女から推薦されたときも、安心して任せられると考えた。

 のちに、りよにも水の異能があると知って……互いに支え合えるだろうと、内心では喜ばしくすら思った」


 彼の目が、ギラリと光る。

 部屋の空気の温度が、また一段と下がった気がした。


「――なのに。なぜ、このような真似をした」


 芳乃を睨みつける目に、初めて憎しみが浮かんだ。


「――はっ、私が、その女と支え合える?本気でそんな事仰っているんですか?」


 芳乃は鼻で笑って開き直る。


「何でそんな武家崩れの“最初の妻”と慣れ合わなければならないんですか?

 私が何で、ここの奉公にあげられたか、おわかりでしょう?なのに、“奥さま”の世話なんて……!

 私はねぇっ!若様を思って、その女に自分の立場ってものを教えて差し上げたんですよ?なのに、一向に分からないんだから――」


「ふざけるな!上辺の嘘もいい加減にしろ。その件も、証言が多数上がっているぞ。

 どこで勘違いしたか知らないが、お前が私の本妻に決まっているなどという事実はどこにもない。」


「そんな!だって私は、わざわざ東雲に迎えられた養女。そのお役目は、若様の正妻となり、お子を産むこと。

 なのに若様だって、おかしいですよ。ご自分で“最初の妻は一年”と言って捨て置きながら、後から惜しくなって気を引こうとやに下がって……わざわざ御寵愛をおかけ遊ばして!

 だから私が引導を渡してやったのです! あの女なんて、神にでも禍にでも、喰われてしまえばいい!」


 言い切った彼女は立ったまま、見開いた眼を爛々と光らせ、口端には破滅的な笑みが浮かべている。

 芳乃はすっかり狂気に呑まれていた。


 それまで涼しい顔で誰とも視線を合わさず座していたりよが、音もなくすっくと立ちあがる。

 その瞬間、座敷の空気がぴたりと凍りついた。


 つかつかと芳乃の数歩手前まで進み出ると、彼女をじとりと睨みつける。


「あなたは――、私に害を加えようと、白衣に細工をしたようですが……

 白衣をどんな場面で着るか、ご存じですか?」


 芳乃よりも少し身長の低いりよは、彼女を睨み上げる形になっていた。

 だが、その気迫はすさまじく、みなぎる陰の気がうっすらと見えるようで、芳乃はごくりとつばを呑んで後ずさる。


「知らない――のでしたら、いったいあなたはご自分の仕事を何だと思っているのでしょう。

 知った上でこのようなことをしたのだとしたら――」


「しっ知ってるわよ!だから、あんたが戦いの中で禍神に攫われればって白衣にも――」


 芳乃が反論した瞬間、りよが手を挙げた。


 ぱんっ。


 乾いた、しかし小気味良い破裂音が座敷に響き、空気ごと一瞬止まった。


 芳乃はとっさに打たれた頬に手を這わし、そのまま尻もちをついた。

 手を振りぬいたりよは、静かな怒りを湛えている。


「白衣を着る時は――少なからず命を懸けているときです。

 それは、私の命だけじゃない。清孝さまの命も、です。」


 りよはへたり込んでいる芳乃を、冷ややかに見下ろしながら静かに続けた。


「先日の任務でもそうでした。背守が機能していなかったために、私をさらおうとした禍神が暴走し――

 それを鎮めるために清孝さまが能力を使い、陰陽の気を乱され、あわや命を落としかけたのです。」


 芳乃の顔から血の気が引き、「そ、そんなの……!」と声を裏返らせる。

 だがりよは一歩も揺らがず、冷たく言い放った。


「あなたの浅はかな企てが、清孝さまの命をも危うくしたのです。」



 誰もが息を呑み、動きをとめていた。

 場を支配していたのは、とてつもない威圧感。


 誰もりよから目をそらせない。

 彼女の瞳が、暗い紫色に底光りしているのを、誰もが気づいていたが――指摘できる者は一人もいなかった。


 座敷の空気がぴんと張り詰め、襖がかすかに震える。

 芳乃は喉を鳴らして後ずさるが、畳に尻を擦りつけるばかりで立ち上がることもできなかった。


 +++++


「りよ……芳乃にはあのように偉そうに言ったが――、あの女をあそこまで増長させたのは、ひとえに私のそなたに対する態度のせい……すまなかった。」


 芳乃が伍女に連れられて、他の女中と共に座敷を去り、清孝はりよと差し向かいで向き合っていた。

 先ほどまでの威圧感はお互いになりをひそめ、清孝は眉間にしわを、りよは眉根を下げている。


「い…いえ、私としましても、様子見ばかりで妻として釘を刺してこなかったのです。

 清孝さまばかりが悪いとは――」


「元は、そなたを思っての一年契約の婚姻としたが――、このような事態になるとは――思ってもみなかった。」


 りよは、驚いて俯いていた顔を上げる。


「一年のお約束は――私のため、なのですか?」


 清孝は彼女の顔を見て、気まずそうに視線を逸らした。


「ああ……そなたが知っての通り、私の気は陽に極端に振れている。

 だから女の持つ陰の気で均衡を取るのだが――普通の女ならば、もって数年。余生を無事に過ごせるのは一年の接触が限界だと、古くから伝えられている。

 私はそれを鵜呑みにし、そなたの力を鑑みず、一人で決め込んでいた。……そなたを守るつもりでいたのだ」


「では、情を持つなとは――」


「……私もそなたも、あと腐れなく、一年が過ぎたら離れ、お互いに忘れられるように……だな……」


 清孝の声は彼らしくなく尻すぼみで、とうとう彼は目を手で覆った。


「でも……最近は、私の陰の気をあてにして、積極的に能力を使っておりましたよね?」


 りよは、ここぞとばかりに追求する。

 今こそが、答えを合わせるべき時。

 今を間違えては、かけがえないものを手から取りこぼしそうな危うさを感じていた。


「……そなたの陰の気が無尽蔵だと気が付いて――、欲が出た。

 己の限界を知りたかったし、“異能特務局”の発足までに篠崎にも恩を売りたかった。

 その結果が――、先般の陽の気の暴走だ……」


「今でも……一年経ったら、私を手放そうとお思いですか?」


 りよは思いつめた顔で彼を見つめたが、清孝は視線を返そうとはしなかった。


「わからない。でも、手放さなければならないとはわかっている。

 そなたに、こんな私の、斎部の事情に、つき合わせる義理がないことは、わかっているのだ。」


 消え入りそうな清孝の声――


 りよは、胸に渦巻く熱を抑えきれず、一歩踏み込む。


「でも清孝さまは、私を手放せない――、そう思っておられるのではありませんか?」


 その言葉に、清孝の肩がわずかに震えた。


「清孝さま……私は、あんな生家ではありますけれども、生を受けてから今日こんにちまで、武家の娘として、生きてまいりました。

 女として生まれたからには、いつかは誰かに嫁ぎ、どんな方に嫁ごうとも、真心を持ってお仕えしようと心に決めておりました。だから――」


 りよは、背筋を伸ばすと、美しい所作で指をつき、頭を下げる。


「あなた様を支え、お力になれることは、無上の喜びなのです。」


 面を上げたりよは、静かに微笑んでいた。

 やっと彼女の顔を見た清孝と、視線が絡む。

 りよの鮮烈な覚悟に、息を呑んだ清孝は、胸の奥が鋭い矢に射抜かれたように痛んだ。


「そなたはそこまで……、そんな覚悟、しなくていいのに……」


 否定しようとした清孝を、りよは笑みで制する。


「いいえ。私は――、清孝さまをお慕い申し上げておりますので、あなた様の御側にいられて、幸せなのです。

 情は持つなと言われましたのに、申し訳ありません。」


 ――いつから?何がきっかけで?


 いくつもの疑問が胸をよぎったが、清孝は言葉にできなかった。


 ただ胸にあふれる想いを、未だ名づけることすらできぬままに――。

 それでも、彼女を手放せぬことだけは、痛いほどわかっていた。

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