第廿話 夜明け前の契り未満

「清孝殿……何が起こった……」


 阿多香が、禍神の消えていった方角を凝視しながらたずねた。声は低く、闇に呑まれぬよう押し殺している。


「わからん。禍津戸神名命が、りよを……攻撃したのか……あるいは、簒奪しようとしたのか……」


 清孝は腕の中のりよを抱き直し、その体温を確かめるように力を込める。視線は、なおも闇の彼方に張りついたままだ。


「とにかく……そなたらは仮宮まで一旦戻れ。私はこの新しき神と、夜明けまでに契りを結ばねばならん」


 阿多香は短く頷くが、その瞳はまだ揺れていた。


「ああ、わかっている……私は一族の掟により、朝まではここにいない予定だ。

 首尾はまた後日、機会があれば聞かせてくれ」


「わかった。必要ならば、桃蘇の者を何人か連れて行っても構わない」


 阿多香の厚意に、清孝はわずかに表情を緩め、軽くうなずく。

 それを確かめた阿多香は、足元の砂利を踏みしめ、静かに踵を返した。

 その背は夜気の中に溶け、やがて舞台に座り込んでいる新しい神のもとへと向かっていく。


 残された清孝は、腕の中のりよの重みを感じながら周囲へ目を走らせた。

 先ほどの一件で腰を抜かし、地面に尻もちをついていた従者が、ようやくふらつく足でこちらへと歩み寄ってきていた。


「手も足も出ず、申し訳ありません」


 恐縮しきった従者が深々と頭を下げる。

 清孝は咄嗟に咎めの言葉を口にしようとしたが、腕の中のりよが静かに彼を見上げていることに気づき、言葉を飲み込んだ。

 その瞳は、非難ではなく、ただ無言で様子を見守っている。


「……致し方あるまい。お前程度では、不用意に手を出せば命にかかわっていた」

 声は淡々としていたが、先ほどよりも幾分か柔らかい響きを帯びている。


「あそこに落ちている短刀を拾ってこい。ああ、直接触れぬよう、気をつけてな……」


 言われた従者は、懐から懐紙を取り出すと、おっかなびっくり短刀をつまみ上げた。

 刃先が月明かりをかすかに反射し、白い紙の上で鈍く光る。

 直接触れぬように細心の注意を払いながら、恐る恐る清孝へ差し出す。


 清孝はそれを素手で受け取り、迷いなく持っていた鞘へと戻した。


「若様は、素手で触れても大丈夫なのですか?」


 従者の声には、驚きと不安が入り混じっていた。

 清孝は片眉を上げ、わずかに口元を緩める。


「ああ、この刀は陰の気に極端に寄った代物だ。

 常人が触れれば陰陽の均衡を崩すが、私のように陽の気に大きく振れている者や――」


 視線を腕の中のりよへ落とす。


「――りよのように陰の気に属する者なら、何ということはない」


 ふっと目を細め、しかしすぐ口調を引き締める。


「ああ、今の私やりよにも触れぬ方がいい。ふたりとも陰陽の気が乱れていて……非常にまずい」


 穏やかな声色とは裏腹に、清孝の額には玉の汗がにじみ、頬や耳は熱を帯びて赤く染まっている。

 それとは逆に、りよの肌は抜けるように青白く、唇は紫色に変わり、清孝の腕の中で小刻みに震えていた。


「清孝さま……寒いです……」


 弱々しく差し出された手は、氷のように冷たく、力も入っていない。

 清孝はその手を、燃えるように熱い自分の掌で包み込む。

 途端に、りよの頬がわずかに緩み、「……温かい……」と小さくつぶやいた。

 吐く息が白く、夜気にすぐ溶けていく。


「戻るぞ」


 清孝はりよを抱き直す。

 その視線は振り返ることなく、ただ一直線に山道の闇を見据えていた。

 わき目もふらず、足音だけが落ち葉の積もった土を踏みしめ、仮宮を目指して下山を始めた。



 仮宮へたどり着き、控えに入ると、清孝は性急にりよの着衣を脱がせた。

 一刻も早く、異常を起こしている背守を確かめねばならなかった。


 単の白衣を手に取った瞬間、彼は眉をしかめる。


「これか……背守がおかしいと思ったら……玉止めしてはならぬと言ってあったのに、何か所も不必要に止めてある。しかも巧妙に隠し、ぱっと見には分からぬように細工してある……」


 清孝の声は低く、怒気を抑え込んでいた。


 白衣を脱がされ、りよはわずかに安堵の息をついた。

 部屋の隅に畳んである小袖を手繰り寄せようとしたが――


 清孝の腕から肌が離れた途端、りよは悪寒に襲われ、震え始める。

 同じ瞬間、清孝の体も高熱にあぶられたかのように熱を帯び、呼吸が荒くなった。


「っ、清孝さま、これは……」


 事態に戸惑う襦袢姿のままのりよを、清孝は手繰り寄せ強く抱き込んだ。


「……離れるな。そなたは陰の気に、私は陽の気に、極端に振れている。

 ここまで極端だと……私とそなたでしか補い合えない。他の者では無理だ……」


 熱に浮かされた声は低く、しかし切迫していた。


 りよはおそるおそる彼の頬に手を添える。

 燃えるように熱いはずの肌から、じわじわと熱が引き、代わりに自分の冷気が吸い取られていく。

 まるで互いの体温が一つに溶け合っていくようで、りよは心地よさに息を呑んだ。


「りよ……そなたの手は心地よいな……」


 清孝は頬をすり寄せ、うっとりとつぶやく。

 その声音は、いつもの尊大さを失い、無意識に甘える子供のようにさえ聞こえた。


「おい、りよの白衣は、そのままそっと畳んで持ち帰れ……帰ったら犯人探しだ。

 ……しかし、参ったな。すぐにでも帰路につかねばならぬのに、身体が思うように動かん……」


 清孝が苦く吐き出すと、従者は顔を赤らめつつ視線を逸らし、白衣を拾い上げた。

 しばし逡巡ののち、思い切って口を開く。


「……若様。奥さまの肌に、直接お触れになった方が……回復も早いのではございませぬか」


 その声は小さく、恥ずかしげに途切れがちだった。


 清孝は一瞬黙し、りよを抱いたまま目を伏せる。


「……確かにそうだ。だが――さすがにここではまずい……」


 低く答える声音には、理性と迷いがせめぎ合っていた。


「清孝さま? そんな悠長なことを言っておられる場合ですか」

 彼の腕の中で、わずかに顔色を取り戻したりよが、きゅっと唇を結んで見上げる。

「私でしたら……構いません。――あの、肌が直接触れた方が、効果的なのでしょう?」


 清孝は目を瞬き、わずかに言いよどむ。


「……まあ、たしかに。布越しよりは断然――」


「ならば、迷うことはありません」

 りよは彼の言葉を遮るように、強い声で言い切った。

 その頬は羞恥に赤らんでいるのに、瞳は真っ直ぐで曇りがない。


「あなた、小一時間で構いません。人払いをなさってください。その間に……出立の準備を進めていただければ」


「はっ、かしこまりました」


 りよに命じられた従者は、明らかに肩の力を抜き、安堵の色を顔に浮かべた。

 部屋の隅に畳んであった清孝とりよの着物を両腕で抱えるように持ち上げ、そっと二人の傍らへ置く。

 そして、既に脱がされていた千早を丁寧に拾い上げた。


「では奥さま――若様のお着替えも、よろしくお願いいたします」


 言い置いて一礼すると、従者は気まずさを押し隠すように足早に部屋を後にした。


 従者が去った後、清孝はようやく大きく息を吐いた。

 疲労と熱に揺れる瞳で、りよを抱き寄せ、荒く呼吸を重ねる。

 次の瞬間、彼の唇がそっと触れ、短い口づけが交わされた。


「……はぁ……情けないことだ。だが――そなたも、同じなのだろう?」

 荒い息に混じって、低い問いが洩れる。


「はい……寒くて、寒くて……清孝さまの温かさが、必要でございます」

 りよは迷いを振り切ったように、まっすぐに答えた。


 その素直さに、清孝の喉がかすかに鳴る。

 袍の結び紐を解く手はためらいがちでありながら、確かに欲している。

 一方のりよも、覚悟を決めたかのように襦袢の紐を引き、肩口をさらりと落とした。


「……お互い様、だな」

 清孝の声音は熱に滲み、もはや尊大さすら崩れていた。


 素肌の胸と胸が触れ合う。

 互いの背に回した手のひらが、無意識に背を撫でる。

 触れ合った箇所から温度が溶け合い、冷えも熱も均されていく。

 その心地よさに、ふたりは同時に息を吐いた。


「……本当に、そなたは一体、何者なのだろう……」

 清孝は髪を梳き、額に熱を帯びた唇を落としながらつぶやく。

「今の私に並の者が触れれば、触れただけで即死してもおかしくない。

 それを素肌で受けて……なお“心地よい”などと……」


 りよはその声に、かすかに眉を寄せた。

「……今までの御当主様は、どうなさっていたのでしょう……」


 清孝はしばし黙し、荒い息の合間に笑みとも溜息ともつかぬ声を洩らす。

「さあな……斎部はここ数百年、封印に力を費やしつつ、小金稼ぎに神威を行使して……悪霊退治のまねごとをしてきただけだ。

 だが――ここまで真剣に、命を削って行使しているのは……おそらく、私だけだ……」


 りよは、筋肉のついた硬い二の腕をそっとさすりながら、低くつぶやいた。

「なぜ……清孝さまだけが、そんなことを?」


「……父と同じ生き方には、嫌気がさしたんだ。

 目的もなく、ただ禍神を封印し、代償を女たちに背負わせる……。

 どうせ代償を払うのなら、その力で外の何かを成し遂げたい――そう、願ってしまった……」


 清孝は、りよの肩口に顔をうずめる。

 熱に浮かされた腕が無意識に彼女を強く抱き込み、脚まで自然に絡む。

 りよもまた応えるように、細い腕に力を込め、全身で彼を抱き寄せた。


「……清孝さま……」

 その名を呼ぶ声は、涙と安堵にかすれていた。


「りよ……そなたを知れば知るほど、一年で手放すなど……不可能な気がしてきた……

 そなたを斎部に縛ることになるというのに……そなたのかけがえのなさを、こうやって思い知らされる。」


 清孝はため息のようにはき出して、またりよの唇に口づけて、彼女の目を見つめる。


「なぁ……私は……どうしたらいい?」


「……ふふ、らしくないですね。清孝さま……」


 りよも、彼の目を見つめながら、自分から彼の唇へと口づける。


「私には、一年後の予定も、その先も――何も決まったことはないので……

 何も困りませんし――、私も難儀な体質のようですので……清孝さまで暖を取らせていただけると、……今は、それで十分です。」


 それから、彼の頭を抱きこむと、囁き声で言った。


「まだ時間はあります。ゆっくり考えましょう……」


 りよは、約束の小一時間が来るまで、まだ若干の余裕があることを知りながら、まぶたを下した。

 清孝の鼓動と体温に包まれ、ただその瞬間だけに身を委ねる。


 ――外では、東の空がかすかに白み始めていた。

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