ブーブー。


 甲高い電子音が部屋の静寂を破り、僕の鼓膜を叩く。

 半ば無意識に手を耳元へと持っていき、スマホを顔の前に持ち上げた。

 黒く沈んだ画面の向こうに、ぼんやりと自室が浮かび上がっている。薄明かりのなか、天井のシミが妙にリアルに見えた。


 電源ボタンを押すと、画面には「7:00」の文字。

 今日も学校に行かなければならない。そう思っただけで、胸の奥がズンと重くなる。

 とはいえ、ズル休みするほどの勇気もない。だから、ただベッドの上に横たわって、死体のように時間の流れに身を任せる。このまま永遠に朝が来なければいいのに――そんな、どうしようもない妄想が頭をよぎった。


 なんとか腕を持ち上げて、再び時間を確認する。

 7:01。たった一分。されど、貴重な一分を無為に過ごしてしまったという、妙な敗北感がじわりと滲む。


 そのときだった。


 視界の隅で、スマホの縁に白い毛くずのようなものがついているのに気づいた。

 指先で払おうと手を伸ばした瞬間、その“毛くず”が――ピクリと動いた。


 風か? 僕の動きに反応しただけか?

 半信半疑で指を近づけた、まさにそのとき――


「ご主人、これは一体なんですか?」


 耳に届いた声とともに、“毛くず”は毛くずであることをやめたように、意識をもって動いた!


 思わずスマホを取り落とす。重力に従って振り下ろされたそれは、容赦なく僕の顔面を直撃した。


「痛っ……!」


 額にズキズキと響く痛み。と同時に、何かがはっきりと声を上げた。


「ご主人! 大丈夫ですか?」


 思わずスマホを拾い上げると、そこには

――小さな白い素足が、空中をバタバタと動かしていた。


 それはスマホの上空にふわりと浮かんでいて、僕の目と鼻の先にまで近づいてくる。

 あまりの光景に、喉が言葉を失う。口を開いても、出てくるのは「あっあ……えっ……」といった間抜けな音だけ。


 ソレ――その小さな存在は、心配そうに首をかしげた。


「ご主人……?」


 ひらり、と舞うような動きで部屋を横切る。それはまるで川魚のようにしなやかで、宙を泳ぐように美しく光を反射させていた。


 僕はようやく上半身を起こし、その動きを目で追う。

 ソレはパソコンのモニターの縁に腰を下ろし、足をぶらぶらさせながら僕を見つめ返していた。


 冷静になった一瞬、心臓がドクンと跳ねる。現実感が、まだどこか頼りない。

 それでも、僕は意を決して問いかけた。


「……君は、一体、何者なんだ?」


 ソレはふっとまぶたを伏せて、相好を崩した。


「覚えてないのですか?」


 その言葉に、記憶の断片が揺れる。

 昨日――なにか、あったような。けれど、それは漠然とした“イメージ”に過ぎなかった。どこかで見た童話じみていて、あまりにも現実離れしていた。


 「妖精」――そう呼ばれる存在を思い浮かべる。

 小さな体、羽根、宙を舞う――確かに、目の前のソレはその要素を備えている。だが、にわかに信じられるはずもない。


 もしかして幻覚か? 夢の続きを見ているのか?

 そんな疑念を払うように、僕は太ももをつねった。痛い。どうやら夢ではない。


 僕は息を整え、慎重に言葉を紡いだ。


「……たとえばの話なんだけど」


 不要な前置きだったが、乱心しているのか、突発的に出た言葉———心を整えるにはそれしかなかった。


「君は、“妖精”なのか?」


 自分の口から出たその言葉に、思わず照れくささがこみ上げた。だが、ソレはあっさりと答えた。


「そうですね。人間の言葉をかりれば、妖精……と呼ばれることもある、かもしれません」


 なんとも曖昧な、雲を掴むような返答だった。核心には触れず、しかし否定もせず。


 となると、昨日の“あの出来事”とやはり関係があるのか……?


「じゃあ、君はどこから来たんだ?」


 僕の問いに、ソレはまた首をかしげた。まるで、質問の意味を反芻するかのように。


「……気づいたら、ここにいました」


 その答えは、風にさらわれたように軽く、無責任なまでに不確かだった。


 僕の中では、“ゲームから来た”――そんな荒唐無稽な想像すら頭をよぎる。

 けれど、その可能性すらも、今の僕には否定しきれなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る