亀裂、そして再生

さやと喧嘩をしたのはこの日が初めてだった。その日はいつもと違う一日だったと、翌日の俺は振り返る。まず、神社に赴いても、さやの姿がなかった。おかしいな、と思いながら橙色に染まった鳥居をくぐり、湿った参道を進む。そういえば、昨晩は雨だった。水溜まりが日光に照りつけられるせいか、額にも汗が滲んで気持ち悪い。ふと、手水舎に目が止まった。


「水でも被って汗を流そうかな」


手水舎に近づくと、『身を清めて神さまにお参りしましょう』という張り紙が目に入った。「不純な理由で使うと罰が当たるぞ」と注意されてるようで気が萎えてしまう。アホー、と遠くでカラスが鳴いた。日課の参拝を済ませたが帰る気が起こらず、とぼとぼと境内を散歩していると、あるポスターが目が入った。


「夏、祭り?」


提灯で装飾されたやぐらや、浴衣姿の男女が描かれたポスターだった。その上部には、力強く夏祭りと書かれている。そのポスターで、大まかに二つの発見をした。一つ目は、園錦山には神社が二つあったこと。園錦神社に加え、山沿いに唐錦神社があるそうだ。二つ目は、八月になるとその両方で夏祭りが開かれるということだ。


「さやって、一緒に行く人がいるのかな」

もし、さやが誰とも約束していなかったら。もし、屋台が立ち並ぶ境内を、さやの隣で歩けたなら、なんて淡い考えが浮かんでは消えていく。妄想にふけっていると、突然、ザザッ、とどこかで音がした。御社殿の奥からだ。もしかして、と思い建物の裏へ回ってみると、あの巫女、さやが俯きながら石段の上に座っている。腕で足を抱くようにして、装束の上から膝に顔を埋めている。


「こんな所にいた」


彼女は少し顔を上げてこちらを見ると、なんだこいつか、とでもいいたげにまた俯いた。


「巫女でもサボるんだね」


感じが悪くならないよう気をつけて声をかける。


「ただのバイトだし」


その声は微かにうわずっていた。俺は巫女の隣にそっと腰を下ろす。


「なんか、あったの?目、赤いよ」


さやは慌てて装束の裾で目元をこすった。


「やっぱりなんかあったんだ」


「……ひどい、カマかけた」


裾からくぐもった声を出す。震えを勘づかれたくないのだろう。カバンから保冷バッグを取り出し、中に入っていた物を差し出した。プシュっと蓋を開け、さやに差し出す。


「ソーダ、差し入れに持ってきたんだ」


「いらない」


相手はこちらを見ることすらしなかった。水滴が手の甲を伝って石段に落ちる。


「もう開けちゃったから飲んでくれると嬉しいな」


「コーラがいい。鳥居を出てすぐ右に自販機があるから、買ってきて」


買ってきたコーラを手渡すと、「ん」とだけ言って、すぐに飲み始めた。コーラをあおる巫女を見ると、遊園地で着ぐるみの中身を見てしまったような不安感がある。俺は余ったソーダを飲んだ。しばらく、ジュースを飲む音と蝉の鳴き声だけが響いていた。沈黙を破ったのは俺の方だった。


「何が、あったか聞いてもいい?」


さやはやっとこっちを向いてくれた。少し気持ちが落ち着いたようだ。それでも、表情は曇っている。


「さっきは、ごめんね。今お母さんの事を思い出してたら、悲しくなっちゃって」


「お母さんと喧嘩でもした?」


「いや、お母さんは十二年前に亡くなってる。私のせいで」


十二年と言えば、僕らが小学校に入るか入らないかの時期だ。思わず、自分の母を思い浮かべる。そういえば、当時の俺は、母がいないと何も出来なかった。ただ、それより気になる言葉があった。恐る恐る、訊いてみる。


「私のせいって?」


「私は、この神社の神様に、お母さんの死を願ったんだよ」


自分で自分を嘲るように、彼女は言った。死を、願う?頭の中に文字列ばかり並んで、情報が飲み込めない。ただひたすら、なぜ?が渦巻いている。


「この神社でバイトを始めたのもね、自分のやったことを忘れないため。この装束を着るたびに、胸に刻みつけるの。お母さんのことを」


あまりに痛々しい、真っ先にそう感じた。彼女は自分を追い詰めて、呪っている。


――引き返せ――


自分ではない自分の声が耳元で囁いた。余計なことをするな。彼女に深入りするな。声はどんどん大きくなる。またあの時みたいに、拒絶されてもいいのか。嫌われてもいいのか。いや、違うだろ。

――それでも、僕はさやに救われたんだ


「俺は、俺は何も分からないから身勝手なことしか言えない。だから身勝手なことを言う」


声が裏返って、足が小刻みに震えだす。口だけでも動けばいい。


「俺は、十分だと思う。さやはさ、お母さんのために神社で働けるくらい、お母さんの事を想ってるじゃん。そんな行動ができる人が、過去の過ちを忘れるわけが無いよ」


「あなたに何が分かるの、私の気持ちが」


彼女は俺の言葉に被せるように言った。その言葉には静かな怒りが滲んでいる。蝉の鳴き声が一瞬遠のいたような気がした。


「分からないよ。けど、もうこれ以上、自分を追い詰めなくてもいいでしょ?」


「うるさい、私の事何も知らないくせに、知ったような口聞かないで!」


彼女の声を聞いてハッとする。蝋燭の火が消えるように、彼女の表情から怒りが消えている。


「……ごめん」


彼女は立ち上がり、頑なに顔を見せないようにしながら、足を止めずに去っていった。だんだん小さくなっていく背中は、切ない面影を残していた。



その日から一週間、神社に足が向かなくなった。あの巫女、さやの事が嫌いになったわけではない。ただ少し折り合いが悪い。彼女はどう思っているだろう。俺はコンビニの雑誌コーナーで立ち読みをして、退屈な時間を過ごしていた。冷房を使うと電気代がかさむから、なるべく家から離れていたい。無機質な床に、夏の日差しが降り注いでキラキラ光っている。店内放送はやたらに夏を連呼しており、そのせいで余計に暑さを意識してしまう。肌着がべっとりと背中に張り付く。ズボンも湿気を溜め込み不快だ。


「こういう時は内側から体を冷やそう」


そう思い立って冷凍コーナーに移動した。モナカを手に取ったが、気が変わり、グレープ味の棒アイスにした。今はアイスにかじりついてストレスを発散したい気分だ。


「百六十五円になります」


無愛想なおばさんが応対する。その後ろでは、小柄な扇風機がそよそよと風を送っている。暑いだけで気力は削がれるしな、と二百円を差し出しながら共感する。


「お釣りが三十五円ですね」


手を差し出し、レシートの上に乗った小銭を受ける。おばさんの手が離れると、五円玉がキラリと金色に光った。笑った装束姿のさやが脳裏をよぎる。彼女に謝りたい、そしてもう一度、あの笑顔が見たい。

灰色のコンクリートを進む。段々歩調が早くなっている。イチョウの木がどんどん視界を通り過ぎていく。神社前の階段に着く頃には、もう走っていた。階段を二段飛ばしで走る。曲がり角で一瞬よろめきそうになるが、前のめりになり、階段に手をついて姿勢を立て直す。神社のある石段の上を仰ぐと、入道雲の浮かんだ空が、まるで青色のキャンパスのように見えた。

彼女は箒で掃除していたが、俺の姿を認めると目を見開いた。


「なにしてるの、大丈夫?」


胃液が逆流して、喉を抑える。呼吸する度に熱気が増し、血液が沸騰したのではないかと思う。しばらく、膝に手を当てて息を切らしていた。


「なにかあったの?言いたいことがあるなら聞くけど」


さやはまだきょとんとしている。


「この前は、本当に、ごめんなさい」


大きく頭を下げた。怒られるかもしれない、呆れられるかもしれない。それでも謝りたかった。そして、叶うのならば彼女に笑ってほしい。


「私こそ、ごめん」


思わず「え?」と訊き返してしまった。


「私、あの時は変な意地張っちゃってさ」


「いやいや、俺が知りもしないであれこれ言ったから」


「変だね、二人とも」


彼女の笑い声は、風鈴よりも心を和ませる。俺は顔を綻ばせていた。


「この際だから、言うけどさ」


「なに?」


全力で走って気持ちが昂ってる今、以前から言おうとして、言えなかった台詞を伝えよう。


「俺と、夏祭りに行かない?」


彼女の反応は意外なものだった。凍てついたように、彼女の表情が固くなった。やがて逡巡する様子も見せずに目を伏せてしまった。その仕草で静かに、だが確実に、結果が分かってしまう。彼女は俺に向き直り、おもむろに口を開いた。


「話があるから、私の家来て」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る