第4話「名づけと目醒め、灯るひかり」

「それで、そいつは……何者だと思う?」


 日が沈みかけたガルドの家の居間。暖炉の火が静かにゆらめき、ナオの肩の上で、小さなもふもふが丸くなっていた。


 あれからなついた様に常についてくるこいつをガルドさんにも見せていた。

 体長は子猫ほど。ふわふわした灰色の毛並みに、背中にはごく小さな羽のような突起。大きな琥珀こはく色の瞳がこちらをじっと見ている。


 「……わかりません。けど……あの森からずっと気配を感じていて。たぶん……ずっと、僕を見てたんだと思います」


 ナオの言葉に、ガルドは腕を組んでうなった。


 「精霊……いや、“伴種”かもしれんな」


 「ばんしゅ……?」


 「人に寄り添う、特殊な魔物の一種だ。珍しいが、まれに人に付き従う者が現れる。姿が見えたり、見えなかったりもするらしい。だが……この子は、はっきり見えてるようだな」


 ナオは頷いた。


 「名前……つけてもいいと思いますか?」


 「そうだな。お前が今後どうするか分からんが、そいつが“とも”になることもあるだろう。なら……呼ぶための名は必要だ」


 ナオは、ふと膝の上に目を落とす。


 小さなもふもふは、しっぽをゆっくりと振っていた。触れると、ふわりとあたたかく、胸の奥にまでやさしさがみてくるようだった。


 「……ルゥア、って名前はどうかな」


 つぶくように言うと、もふもふは一度だけ、ぴょんとナオの肩から跳ねた。


 「……え?」


 とっさにナオが身を起こすと、ルゥアは目の前に着地し、くるりと一回転したあと、ぱちぱちと尻尾を弾ませた。


 「……嬉しいって、言ってるのかな」


 その動きには確かな“喜び”があった。


 ガルドが一度、ふっと笑う。


 「お前が名を与えた瞬間、“契り”が結ばれたようだな」


 「契り……?」


 「ああ。ルゥアという存在が、お前の“力の回路”とつながったんだ。……つまり、ルクが通る“路”が、互いを結ぶように繋がったんだ。目には見えないが、互いに感応し合う力が生まれる」


 その言葉に、ナオの胸の奥がじんわりと熱を帯びる。


 すると次の瞬間――


 手のひらに、ごく小さな光がともった。


 「……っ!?」


 驚いて立ち上がると、光はふわっと消えた。だが確かに、そこに“何か”が生まれていた。


 「……今のは……」


 「初めての発現だな。小さなルクの塊みたいなもんだ。無理に使おうとするな。まずは感覚に慣れることだ」


 ガルドは立ち上がり、奥から小さな革張りの冊子を持ってきた。


 「これは、俺が昔まとめた“導力作業の記録”だ。読み書きはまだ苦労するかもしれんが……まあ、お前ならいずれわかる」


 ナオは手渡された本をそっと開いた。


 そこには、びっしりと手書きの文字と、いくつもの図や記号が並んでいた。


 しかし、どれひとつとして、ナオには読めなかった。


 (……やっぱり、わからない)


 ナオはそっと本を閉じ、視線を落とした。


 「……あの、ガルドさん。僕……文字が、読めないみたいです」


 正直にそう告げると、ガルドは少し驚いたように目を見開いた。


 「……そうか。記憶の件もあるし、それも無理はないな」


 しばらく無言のまま本を見つめていたが、やがてガルドはぽつりと呟いた。


 「なら、教えてやるさ。読み方も、書き方も。時間はかかるがな」


 ナオは目を見開き、顔を上げた。


 「……いいんですか?」


 「どうせここにいる間、やることは山ほどある。それに、読み書きができなきゃ、何かを学ぶことも伝えることもできん。少しずつ覚えろ」


 不器用ながらも確かなその言葉に、ナオの胸にじんわりと温かさが広がる。


 「……ありがとうございます」


 「礼を言うのは、読めるようになってからにしろ」


 ガルドはぶっきらぼうにそう言って、また椅子に腰を下ろした。


 (……ここに来てから、いろんなことが少しずつ動き始めてる)


 ナオは膝の上の冊子をそっと撫でた。


 「ありがとう、ガルドさん……」


 ナオがそう言うと、ガルドは照れくさそうに鼻を鳴らした。


 「ルクが使えるようになったんなら、まずは……そうだな、木の加工でもしてみるか?」


 「それって……今の僕でも出来る様な事なんですか?」


 「すぐとは期待はしていないが元々器用そうだ、試してみる価値はある」


 「…………」


 (……つまり、僕次第か……)


 思わずルゥアと目を合わせると、ルゥアは小さく「きゅ」と鳴いた。


 そうだ、きっと一緒なら、できるかもしれない。


 ナオはそっと拳を握りしめた。


──


 夜。


 ルゥアはナオの枕元に丸まって寝ていた。


 小さな寝息と、あたたかいぬくもり。


 心細かった森の中。静かだった夜の気配。すべてが少しずつ、ナオにとって“日常”へと変わっていく。


 けれど、胸の奥には、確かに残っているものがあった。


 「……僕は、なんでここにいるんだろう」


 目を閉じれば、ぼんやりとした何かが浮かび上がるような気がする。

 けれど、それもすぐに、霧のように消えてしまう。


 名前も、過去も、どうしてこの世界にいるのかも、わからない。


 それでも、生きている。少しずつ、できることが増えていく。


 「……僕は、この世界で、何をすればいいんだろう」


 ルゥアの寝息だけが聞こえる、静かな夜に――

 誰に届くこともない問いが、ゆっくりと空へ溶けていった。


 ここが本当に“現実”なのかどうか。

 自分はどこから来たのか。そして、なぜこの世界にいるのか。


 まだ、何も答えは見つかっていない。


 けれど、名前を得た。仲間ができた。力が芽生えた。


 小さな“はじまり”は、確かに動き始めている。


 ナオは、静かに目を閉じた。


 その夜――夢の中で、誰かの声が聞こえた気がした。


 ──「ナオ、進め。観測は、まだ続いている」


 けれどその声が誰のものか、今はまだ、わからなかった。

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