第2話

 男は居間から呼ぶ母親の声で目を覚ました。

「琢也ぁ~いい加減起きてご飯を食べなさ~い」

 間延びした声の調子は、母親の年齢を意識せずにはいられない。今年の誕生日がくれば66歳になる母。世間的にはまだ老人と呼ぶには早すぎる年齢だが、息子から見ると身のこなしが元々のスローテンポに拍車がかかってきた。同じ話を何度も繰り返すことも増えた気がする。母親がそれなりの年齢になっている現実を、否が応でも突きつけられる。

「おはよう」

 男は居間のテレビでワイドショーを見ている母親に声をかける。

「やっと起きたのね。もう9時になるわよ。ご飯食べるでしょ?」

「あ……うん」

 男は曖昧な返事をして洗面所に向かう。毎朝晩、食事を作ってくれるのはありがたいことだ。休みの日は昼ご飯まで作ってくれる。「適当に食べるから作らなくていいよ」と伝えても、「どうせロクな物食べないんだから」といそいそと台所に立つ母。本当はハンバーガーとラーメンが好きなんだよ、と言ったら、母親はどんな顔をするのだろう。

 朝はパンと珈琲でいいと何度か伝えたが、「男が外で働くのにそんなんじゃ力が出ないでしょ。朝はしっかりお米を食べないと」そう言って出てくるのはお米だけではない。味噌汁はもちろんのこと、焼き魚に卵焼き、ほうれん草のお浸しに漬物、と朝からお皿が幾つも並ぶ。夜は仕事仲間と飲んで帰っても、必ず何かしら作って待ってくれている。

 洗面所の鏡には冴えない男の顔が映っていた。俺も老けたな。男は大きく息を吐く。いい歳をして母親を鬱陶しいと感じるなんて情けない。小学生の時に父親を亡くし、女手一つで育ててくれた母への感謝を忘れたことはないが、男は時々反抗期に戻って人生をやり直したくなることがある。当時は母親への悪態は胸に溜めこみきれず、ノートに書き殴ってやり過ごした。それがよかったのかどうかわからない。自分自身にとっても母親にとっても。

 我が家は父が亡くなった後も遺族年金や父が遺してくれた不動産などで、生活に困ることはなかった。亡くなった父親には感謝しているが、ひとり親家庭なのに何の苦労もせず大学まで行かせてもらい、この恵まれすぎた家庭環境には常に負い目を感じていた。だから自分は支援が必要な人の支えになれるような仕事に就こう、そう思って今の仕事を選んだのだが、自分はその役割を果たせているのだろうか。苦労知らずの自分が他人を支えるなんて傲慢にすぎやしないか。そんな悩みは就職して10年以上経っても出口を見つけられないままだ。

 居間に戻ると食卓には今日もたくさんの皿が並んでいた。焼き魚は鮭の切り身だ。それに小松菜と油揚げの煮浸し、温泉卵にぬか漬け。味噌汁は大根とわかめだった。

「いただきます」

 男が手を合わせると向かいに母親が座った。

「今の職場はどうなの? うまく行ってるの?」

「あ……うん、まぁね」

 息子の衣食住を整えることを生きがいにしてきた母親に、今の仕事の悩みを話したところで理解できるとは思えない。毎度繰り返されるこの話題は曖昧に切り上げることにしている。でも母親は必ず訊いてくる。「最近どうなの?」と。

「それはそうと、誰かいい人はいないの? 職場に若い女の人だっているでしょ?」

 これも挨拶のように交わされる会話だ。若い女性と付き合えるわけないだろ、という言葉を、男は味噌汁と一緒に飲み込んだ。

「みんな忙しすぎて、そんな余裕はないよ」

「琢也も来年は38になるんだし、あっと言う間に40になっちゃうわよ。そろそろ相手を見つけて孫の顔を見せてくれないと」

 一番痛いところを突いてくる。そんなこと言われなくてもわかっている。でもこればかりは自分1人で、努力だけでどうにかなるものでもない。確かに決して多くない友人たちは、そのほとんどが結婚している。小学生の子どもがいる友人もいる。

「最近、若い人たちの間ではマッチングアプリっていうんだっけ? 流行っているんじゃないの? 琢也もやってみたらいいじゃない? あ、ご飯おかわりは?」

「ん、要らない。いや、そんなにうまくいくもんじゃないよ」

「あら、そうなの? じゃやっぱり酒井さんにまた頼んでみようかしらね」母親は独り言のように呟いて、お茶を入れるために立ち上がった。

 酒井さんは近所のおせっかいオバサンだ。一度だけ「会うだけでいいから」と説得されて見合いをした。イマドキ見合いか? と思ったが、話も弾んだ気がして見合いも意外と悪くないなと思ったのに、その日の夜には相手側から断りの連絡が入った。それって早過ぎやしないか? 検討の余地もなかったということか。

 実はマッチングアプリも登録したことはある。初めてデートまで漕ぎ付けた相手はなんと22歳だった。男は心の中でガッツポーズを決め、フワフワした足取りで約束のレストランに向った。レストラン前では既に彼女が待っていて、「琢也さ~ん!」と笑顔で手を振ってくれる。舞い上がらないわけがない。「ごめん、待たせちゃったかな?」男は生まれてこの方1度も発したことのないような気障な物言いで相手に詫びた。

 連れ立って店に入ると、ランチはコースで予約されていた。もちろん安くはないが、初デートだから仕方ないだろう。ナマで見る彼女は写真よりずっと可愛らしかった。写真は多少盛っていて実際に会ってガッカリさせられることを覚悟していたが、そんな予想を見事に裏切られ、男は狂喜乱舞した。

 食事が進むにつれて、これまでのスマホのやり取りでは話題に上らなかった家族の話が出てきた。真剣交際の前振りか? と男は昂ぶる気持ちを必死に鎮めて耳を傾けた。ところが途中から昂ぶった思いは萎み、胸の奥の方がざわざわしてきた。彼女の口からは、父親は3年前に亡くなり妹や弟の学費を自分が負担していること、母親が難病で高額な医療費がかかること、先のことを考えて看護師資格をとりたいが看護学校に行くお金がないこと……どこかで聞いたことがあるような話が繰り広げられた。

 デザートの「チーズケーキのフルーツ添え」を食べる頃には、男はすっかり相手の目論見を察知していた。さすがにそこまで能天気ではない。この高そうなお店の会計が一体いくらになるのか、メロンをフォークで口に運びながら男はそのことばかり考えていた。

 1万5千円の食事代をカードで払うと、彼女は「ご馳走さまでした」と頭を下げ、「この後どうしますか?」と訊いてくる。気持ちがすっかり冷めてしまった男は帰りたかったが、「映画でも観ますか?」と誘われると、「あ、いいですね」と反射的に答えていた。丁度見たかった映画の作品名を告げると、「え~嬉しい! 私もそれ見たかったんですぅ」と声を弾ませる彼女。これが演技だとするともしかしたら役者の卵なのか? そんなことを思わせるほど堂に入っている。映画館に向って歩き始めたところで、彼女のスマホが着信を知らせた。

「……大丈夫? わかった……うん、すぐに帰るから」

 電話を切った彼女の口から聞かれたのは、概ね想定内の台詞だった。

「ごめんなさい、母が急に熱を出したみたいで。とっても残念ですが、今日は私帰らなくては……」

 男は母親を心底心配しているふうを装って、その日は別れた。

 それから数日後、彼女から連絡があった。お母さんが緊急入院して保険がきかない薬を勧められたけれど、お金が足りないので少し用立ててもらえないか、という内容だった。時々涙声になりながら、必ず返すので取り急ぎ10万円だけでも何とかならないかと、切羽詰まった声で訴える彼女。緊迫感が押し寄せるほどに、男は冷めていった。

 やっぱりな、そういうことだよな。自分みたいな冴えないオッサンが若い娘と付き合えるわけないよな。スタイルは決して悪くないと密かに自負しているが、顔はイケメンの対極に位置しているという自覚はある。男は彼女を気遣う言葉を添えつつ、用立てる金銭の余裕はないことをきっぱりと伝えると、電話はいきなりプツリと切れた。

 お見合いもマッチングアプリもコロナ禍前のことだったが、以来気持ちがすっかり萎えてしまい、母親に何を言われても気持ちが付いて行かない。

 *

「ごちそうさまでした」

 食事が済んだことを母親に知らせると、男は一瞬の内に蘇った何年も前の苦い記憶を振り払うように勢いよく席を立った。長引かせたくない話題はさっさと切り上げるに限る。何だか口の中が苦い。

 奥の自室に戻った男は勢いを付けてベッドに倒れ込む。結婚かぁ……心の中で呟いた男の脳裏に、ふっと1人の女の姿が浮かび上がった。

 たまに行くカフェレストランで働いている女だ。職場の最寄り駅近くのデパート1階にあるその店は、空いているのが気に入って通っていたが、いつの頃からか行列ができるほどの人気店になってしまった。でもその頃には女のことが気になり始めていたので、混雑する時間を避けて訪れるようになった。

 笑顔が素敵な人だった。優しい瞳でニッコリ微笑むと、マスクをしていても口角の上がった口元が透けて見えるようだ。髪型も男の好みだった。肩に触れるか触れないかという長さのストレート。「お待たせしました」とアイス珈琲を運んで来た時に前屈みになると、サラサラッと髪が女の頬を撫でる。声も好きだった。営業用なのかもしれないが、高めのトーンでマスクを通して柔らかく響く。

 最近、向こうも自分を意識しているのではないかと感じることがある。注文を取りに来るのも会計の時も、その女が対応することが多い気がする。もしかして? もしかしたら向こうも気にしてくれてる? いやいや、俺は自意識過剰か? 男は起き上がって頭を強く振った。でも万に1つの可能性に賭けてみてもいいかもしれない。このまま何も行動に移さなかったらきっと後悔する。それは男の中で確信の域に達していた。

「ちょっと本屋に行ってくる」

 男は母親に告げるとマスクを付け、スニーカーに足を突っ込んだ。

 でも、一体どうすりゃいいんだ? 男は本屋の行き帰り、そのことばかり考えていた。先ず女が独身であるかどうかも不明だ。年齢は自分より下だとは思うが、女性の年齢はよくわからない。年上ということもあり得る。まぁ年齢はどうでもいい。既婚者かもしれない相手に失礼のないよう告るにはどうすればよいのか。一応、左手薬指は確認済みだった。

 初めに思い付いたのは、仕事上がりに出口付近で声をかけるという方法だ。もちろん偶然を装う。「アレ、今上がりですか? お疲れさまです」と声をかけ相手の反応を見た上で、「よかったらお茶でも……」と誘う。しかしこの作戦の問題点は、自分が偶然を装うなどという高度な演技ができるタイプではないということ。しかも従業員口はデパートの裏手であり、そこを偶然通りかかるという設定は不自然すぎる。単なるストーカーと警戒されるのがオチだ。それに夜の八時を過ぎているのにお茶に誘うというのは、ちょっと違う気がするし、かといっていきなり食事に誘うのは、これまた厚かましい男と思われてしまう。

 あれやこれやと頭をひねるも、なかなか決め手は見つからなかった。男は考えに考えた結果、「よかったら連絡をください」と自分の連絡先を書いたメモを渡すことにした。これなら相手にその気がなければ連絡を寄越さないだけのことだ。ノーリアクションだった場合、あの店には行きにくくなるが、幸い今の職場はまもなく異動になる可能性が高い。異動にならなくとも二度と店に行かなければいい。何事もなかったように行ったっていい。それはまた考えればいいことだ。そうだ、手頃なメモ用紙を買って帰ろう。さっき本屋で買えばよかったなと思いながら、男は帰り道にあるコンビニに寄ることにした。

 近道になるので公園の中を抜けていく。公園では小さな男の子が父親に背を押してもらって楽しそうにブランコに乗っていた。父親は自分と同じ歳ぐらいだろうか。子どもの可愛らしさに思わず目を細める。

 すると、向かいから歩いてくる上下スウェットのボサボサ髪の女の姿が視界に入った。一瞬、あの女かと勘違いしてしまったほど背格好は似ていたが、雰囲気はまるで別人だった。女のことを考えてばかりいたから錯覚してしまったのかな。男はマスクの中で一人苦笑いしながら、その時思った。

 そういえば、店ではいつもマスクをつけていて、女の顔をまともに見たことはなかったなと。(続く)

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