ときめく
志麻乃ゆみ
第1話
開店直後、3組のお客が来店した。男女2人組と女性3人グループが2組だ。
「いらっしゃいませ~」
女は親しみのこもった目と声で迎え、マスクの中でそうとわからないように溜息を吐く。デパート1階奥にあるこのカフェレストランで働き始めて1年以上経つが、最近の休日はいつも開店と同時に次から次へとお客が入ってくる。
デパート内の飲食店なんてどうせ午前中はヒマだろうと高を括っていた。やってくるのは買物途中のひと休み組か、買物&ランチ目当てにデパートにやってきた女性グループか、そんなところだろうと踏んでいた。実際に以前は開店してしばらくはのんびりムードで、ホールスタッフはよくお喋りをしていた。
ところが、人気のインフルエンサーによってSNSで紹介されて以降、店の前には行列ができるようになった。特に休日は開店と同時に複数組の来店があり、11時には満席になる。オーガニック野菜を使ったワンプレートメニューが人気だ。ブランチか早めのランチか知らないが、開店と同時に途切れることなくオーダーが入る。殊に女性客に人気があって客層は8割方女性だ。年齢は幅広いが、休日は若い世代が多い。平日は圧倒的に40代以上のお客が多い。人気が出る前は、デパート内で働く1人女性客がランチに立ち寄るケースも多かったが、彼女らは時間がある主婦族に締め出される格好となった。貴重な1時間の休憩時間を待ち時間に当てる余裕などない。
オーナーはほくほく顔でワンプレートメニューの種類を増やし、店の前に待機用の丸椅子を並べた。SNSの普及により、頼まなくてもお客が店のPRをしてくれるのはありがたい限りだろう。しかしこれは諸刃の剣だ。よくない評判が立てばたちまち拡散され、客足は遠のく。オーナーは今まで店長任せにしていたメニュー管理や従業員教育にまで口を挟むようになり、店に顔を出す回数が増えた。つるつる頭に白い顎髭を生やし、大きなお腹をゆっさゆっさと揺すりながらやってくる。狭いカウンター内に立っていられると、邪魔なことこの上ない。マジでうざい。
お客が増え従業員の負担が増えても、シフトはほとんど変わらなかったから、従業員は一様に忙しくなった。これに比例して女の溜息と舌打ちの回数は明らかに増えた。同じ時給で働くのなら、ヒマがいいに決まっている。女はもはや条件反射となった目だけの笑顔を張り付けて忙しく立ち働いた。パートでの実績が認められ、やっと正社員になれたのだ。しんどくてもここは踏ん張りどころだ。
今日のシフトはフルタイムだ。開店から14時~16時の2時間の休憩を挟んで 20時までの勤務だった。拘束時間が長すぎるし、店が異常に混んだ時や新人のバイトが入った時など、休憩中に呼ばれることもある。そんな時は半径1メートルまで聞こえる舌打ちを禁じえない。給料に加算が付くことを思い出して自分を宥めるが、引きつった笑顔をマスクで隠しての接客となる。
この店では従業員のいわゆる賄いはない。店のメニューを食べたければ3割引きで食べられるが、注文すると厨房から露骨に嫌な顔をされるので頼んだことはない。それに3割引きでも千円を超える。そんな贅沢はできない。女はいつもコンビニでおにぎりかサンドイッチを買って休憩室で食べる。
デパート内従業員共用のロッカー室兼休憩室は常に雑然としていた。安物の長テーブルは脚の長さに狂いが生じてどれもガタガタしているし、折り畳みのパイプ椅子は座面がヘタレていて座り心地は最悪だ。顔はよく見かけるが名前も知らず話したこともない多くの女性たちが無秩序に散らばっている空間。こんなところでは落ち着けないと、休憩時間は外に出る人が多い。でも女はここが嫌いではなかった。この雑然とした空気感。懐かしさすら覚えるこの室は妙に落ち着けた。
空いている椅子を前に置き、脚を投げ出して載せる。立ち仕事に慣れたとはいえ、やはり疲れる。夕方には浮腫んで脚がパンパンになるのは毎度のことだ。女はふくらはぎを自分で揉みほぐしながら、昆布のおにぎりを頬張った。そして、不意に思った。今日は来なかったな……。
月に数回来店する常連客の男のことだ。いつも1人でやってきてアイス珈琲を飲みながら文庫本を読む。開店後まもなくやってきて30分、混み合う前に帰って行くパターンと19時半頃に来店して閉店の20時までいるパターンがある。でも食事はしない。暑くても寒くても何曜日の何時に来ても、注文するのはアイス珈琲と決まっている。
歳の頃は30代半ば、自分と同じくらいだろうか。どんな仕事をしているのだろう。いつもノーネクタイだがジャケットを着ていてきちんと感が漂っている。目元は涼し気で、読書中の俯き加減の面立ちは思慮深げだ。時々本から目を離して遠くを見やる表情は物憂げで、近寄りがたいようでもあり、思わずそっと手を差し伸べたくなるようでもある。身長は175センチほどでスラリと手足が長い。推しのアイドルグループの1人によく似たその男のことが、女は初めて見た時からずっと気になっていた。
男に会えるかもしれないと思うと、仕事の忙しさにも耐えられた。仕事に行きたくなくて、仮病を使って休んでしまえと悪魔の囁きが聞こえても、ふわっと男の顔が浮かぶと、「よし!」と自らを奮い立たせられる。こんなふうに異性に対して心が浮き立つのはいつ以来だろう。もう久しくそんな心持ちになっていなかった。
女は少しでも男と接触する機会を得られるよう工夫を凝らした。店の外、男がこっちに向って歩いてくる姿を見つけると自然を装って入口付近に陣取り、来店と同時に「いらっしゃいませ~」とお冷とおしぼりを運ぶ。「アイス珈琲をお願いします」という男の穏やかな声~それはマスクの中でよく響くバリトンだ~に注文の品を復唱し、「少々お待ちください」と会釈する。注文したアイス珈琲を丁寧に運び、男がそろそろ帰るだろうという時間になるとさり気なくレジあたりをうろついて、会計のタイミングを逃さずキャッチする。
「ありがとうございます」「アイス珈琲ですね、700円になります」「ハイ、こちらにタッチをお願いします」「レシートのお返しになります」
「ご馳走さまでした」
「ありがとうございました」
たったそれだけの会話だが、男の姿を間近で拝み、その声をすぐ傍で耳に捉えられるだけで幸せな気分に浸れた。
この前は作戦失敗だった。男が夜に来店した日。まもなく閉店という時間だったのでわざと時間をかけてレジ近くのテーブルを片付けていたら、店長から「中島さん、先に奥の席下げてきちゃって!」と指示された。この時出た舌打ちは思いの外大きくて、店長に聞かれていたかもしれない。店長がレジに入り、男の「ご馳走さまでした」の声は山びこのように遠くから耳を掠めて消えていった。
まぁこんなこともある。次はヘマをしないよう綿密に動線を考えておこう。女はその晩ベッドに入ってから頭の中で様々なシチュエーションを想定して、男と会話できる動線をシミュレーションしながら眠りについた。
*
女は6連勤後の休日の朝を迎えていた。中1日は4時間勤務だったとはいえ、週5のフルタイムを含む6連勤はきつい。しんどすぎる。女は年々体力の衰えを感じていた。店長は50歳だと聞いたことがあるが、あの人は体力オバケだ。自分が15年後に同じ仕事をしている姿は想像できない。女は惰眠を貪った。11時を過ぎてもベッドから抜け出せなかったが、さすがにお腹が空いてきた。カップラーメンでも食べようか。そう思いゆるりとベッドから降りて、台所の棚を開けた女はがっくりと肩を落とした。安売りでまとめ買いしたカップラーメン。最後の1個を一昨日の夕飯に食べてしまったことを思い出す。
「ウソ~……」
女は滅入る気分をぶつける矛先を見つけられないまま独り言ちる。徒歩15分かかるスーパーまで行く元気はないので、近所のコンビニで調達しようと決めた。
顔を洗って洗面所の鏡に映った自分の顔をまじまじと眺める。出かける用事もない休みの日までメイクをする気にはなれない。「ま、いっか」女は鏡の中の自分に許しを与え、部屋着兼パジャマのスェット姿のままスマホを持ってアパートを出た。
歩き始めてから髪をとかしてもいないことに気付く。仕事に行く日は、メイクはもちろんだが、肩までのストレートヘアにはしっかりアイロンを当てて、ツヤサラ髪に仕上げる。特にあの男を意識するようになってからは、15分早起きするようになった。メイクも髪も念を入れる。
飲食店のホール担当は指定の制服の他、髪は必ず結び、帽子や三角巾などで前髪が出ないようにするスタイルが必須という店舗が多い。でも今働いているカフェレストランは頭髪の色もスタイルも自由だった。不潔な印象を与えなければOKという緩さだ。制服の白ブラウスに黒のキュロットは動きやすく、左胸に店名の刺繡が入ったモスグリーンのエプロンはなかなかお洒落なデザインだった。女がこの店で働こうと思った理由がこれらの条件が気に入ったからだった。
アパートを出た時には口もお腹も「カップラーメン」に支配されていた女だったが、陳列棚に並ぶ商品を見ている内に気が変わり、明太パスタを手に取りレジに向った。飲物は高いから買わない。家にある麦茶ポットに水道水と水出しのティーバッグを放り込むだけで断然コスパは良い。
コンビニの向かいに小さい公園がある。ショートカットになるので女はいつも公園内を斜めに横切る。明太パスタ1皿が入ったビニール袋をぶらぶらさせながら、サンダルの丸いつま先を蹴るようにして歩く。ブランコを横目に見ると、小さい男の子が父親に背中を押してもらってキャッキャと燥いでいる。弾ける声と笑顔が女には眩し過ぎて目を逸らした時、前から歩いてくる男が目に止まり、足も一瞬止まってしまった。
えっ。なんとそれは時々店に来る常連のあの男だった。見紛うはずはない。どうしよう。声をかけようか。挨拶もしないのはさすがに大人としてどうなのか。いやいや、顔見知りといっても外でお客に声をかけるのは反則ではないか。さぁどうする? 女は暴れる鼓動を制御できないまま歩いた。どんどん男との距離は縮まっていく。もう自分は男の視界に入っている筈だ。来た! もうすぐすれ違う。
……えっ。男はこちらをチラと見た気がしたが、表情を変えない。もしかして気付かれていない?
「あれ、あなたでしたか。こんなところで会うなんて奇遇ですね」すれ違いざまにそんなふうに声をかけられる妄想は木っ端微塵に雲消霧散し、男は何事もなかったように女が来た方向へ歩き去っていった。
女ははたと気付いた。そうだ、ボサボサ髪とマスクなしのスッピンにスウェットのせいだ。男はトレーナーにチノパンというラフな服装だったが、髪は軽く櫛で撫でた跡があった。それに比べて自分は……。いやな汗がふき出す。うっかり挨拶などしなくてよかった。女は肩で大きく安堵の息を吐いた。
それにしても、男がどこに住んでいるかなんて考えたこともなかったけれど、意外に近くに住んでいるのかもしれない。女は休日も外に出る時は、面倒でもメイクとマスクを忘れないようにしようと自分に言い聞かせた。(続く)
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