ある日の夕方

高橋祐希

第一章 あの日

救急車とパトカーのサイレン。耳鳴りにも聞こえるそれが夕方の住宅街に鳴り響く。もう恐らく息がないであろうその人が目の前で血だらけになっている。周りは多くの警官が拳銃を突きつけながらまるで私のことをこの世のものではないと言わんばかりの眼差しで睨みつける。その眼は恐怖の感情で支配されているように私には見えた。警官の怒号が耳をつく。その言葉に私はふと血にまみれたナイフを握っている自分の汚れてしまった手を見つめる。その瞬間私のことを睨んでいた警官数名が見計らったように私に飛び掛かった。荒々しい呼吸と怒号の中、警官は私の汚れた手に冷たい枷をかけた。


目が覚めると狭い檻の中にいた。私はなぜここにいるのか、ここはどこなのか、自分の名前すら覚えていない。ぼんやりとした意識の中自分が何も覚えていないことにだけ気づいた。そんな状況に困惑する私に一つの足音が近づいてきた。長谷刑務官だ。何も覚えていないはずなのに長谷正、この男の名前だけは何故かはっきりと憶えている。彼は檻窓を開け、トレイに乗った朝食を渡し、私が何かを問う前に背を向けて歩き去った。私は食事をとりながら自問自答する。ここは刑務所の可能性が高い、そして何も覚えていないということは恐らく私はここに来る前に何らかの出来事によって記憶を失っている。記憶喪失には大きく分けて主に二種類、物理的な外傷からの脳へのダメージによるもの、もう一つは精神的なショックによるもの。記憶を失ってからどれほどの時間が経っているかは不明だが頭に痛みはない、つまり物理的な外傷では無く精神的ショックによるものである可能性が高い。鏡はないが体つきから見て自分は10代後半から20代前半であろう。そしてこの様な独房に収監されている理由は殺人かそれに匹敵する重罪か。ふと、新たな足音が静かな廊下に響いた。先ほどとは別の刑務官が現れ「ここでは私語厳禁だ。次に喋ったら懲罰房送りにするぞ」と怒鳴るよ様に言い捨て足早に去っていった。その眼には恐怖があった。なぜだ。なぜ私を化け物を見るような眼で見る。違う。これが初めてでは無いような感覚がある。既視感、錯覚かそれとも何かが繋がりかけているのか。


その夜、私は眠れなかった。壁の鉄格子越しに見える月を眺めながら思考を巡らせる。だが断片的な記憶も、映像もない、ただ違和感だけが脳裏を渦巻いていた。情報が無いなら仮説を立てるしかないが考えついたどれもが非現実的、そのどれも私は肯定も否定も出来なかった。


早朝、廊下に響く足音で気がついた。それは私の房の前で止まった。長谷刑務官だ。彼は優しい顔で少し落ち着ける場所で話をしようと私を房から出した。導かれた先は先程までの薄暗い独房とは対照的な明るい清潔な部屋だった。木製のテーブルと椅子、壁にはアナログ時計と監視カメラ。まるで尋問室とも応接室とも似つかない中途半端な空間だった。刑務官は私に座るように促し自分も椅子に腰を下ろした。彼はそのまま口を開いた。「君は国公立の大学に通っていた。頭も良く、人望にも恵まれている学生だったよ。名前は覚えていないんだよね」私は黙って頷いた。知れる情報は全て聞いた方がいい。表情も声色も語られる言葉も。長谷刑務官は続けた。「そして、君の友人達6人が君の手によって殺害された。そういう容疑が掛かっている。」その言葉を聞いた瞬間、部屋の空気が凍ったように感じた。私の呼吸が浅く早くなるにつれて脳が無意識に過去を探り始めた。6人、彼が言ったその数にどこか馴染みを感じた。私はどこかでこれに関わっている。


自分の事を知るのは覚悟のいる作業だ。刑務所にいる以上、私は何かかしらの罪を犯したのだろう。仮にそれが殺人だったとしても、ある程度は受け入れる覚悟があった。だが6人もの友人を殺害したというのは受け入れるのに苦労する。息が浅く胸の鼓動が耳に響く中なんとか意識を保っていた。「落ち着いてまずは深呼吸だ」長谷刑務官は静かに声をかけた。彼の声は冷静でありながらどこか温かい。数回繰り返すうちに少しは落ち着いた。「そうだ。君はそういう子だった。常に考えていた」彼の言葉がまるで以前の私を知っているかのように感じられた。いや、実際知っていたのだろう。「君の名前は高橋智怜(たかはし ゆずき)、国公立の大学に通っていた頭のいい学生だったよ」彼はそう言いながら懐かしそうに微笑んだ。「そして私は長谷正(ながたに ただし)、君の遠い親戚に当たる。」驚いたが納得もした。長谷という名前には聞き覚えがあった。そして何よりこの人の表情や声に僅かな記憶の名残がある。「君のご両親が早く亡くなった後、大学に進むまで後見人のような形で面倒を見ていたんだよ。懐かしいな」そうか、だから彼の存在だけが記憶の中に残っていたのか。長谷は続けた。「私はもともと警察庁の長官だった。今はこうして退職して刑務官として第二の人生を送っている。君の事が心配でね、こんな形だとはいえ再会できて安心したよ」その言葉にどこか違和感が残ったがその後も話を続け気づけば外はすっかり夕暮れになっていた。「そろそろ戻ろうか」そのまま彼は私を房まで送り届け去っていった。寝る前に私の頭に疑問が浮かんだ。なぜ私は刑務所にいる。どんな犯罪であれ、正式に起訴されるまでは留置所に収監されるはずだ。記憶を失ってるとはいえ基本的な司法制度の知識は残っている。そしてここが以上に閉ざされた空間である事も否応なく肌で感じていた。

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ある日の夕方 高橋祐希 @Tomomaiuz

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