中
翌朝、部屋に満ちていたのは、気まずさではなく――不自然なほどの“無”だった。
ウィリアムはゆっくりとまぶたを開けた。カーテンの隙間から射し込む光は白く鈍い。ロンドンのいつもの空。曇りと湿気の匂い。
傍らのソファにかけていたブランケットが落ちていた。マイルズはもういなかった。
あんなふうに眠り込んだ彼が、ひとりで起きて、帰っていったという事実に、心がざわついた。何か言葉を残すでもなく、メモを置くでもなく。ただただ静かな部屋が、昨夜の記憶をどこか遠くに押しやっていくようだった。
ウィリアムは、思わず自分の手を見下ろした。
彼の熱を掴んだはずの手。その手には、もう何の感触もない。
・
数時間後、ウィリアムはいつものようにスタジオへ向かった。その日は午後からジャムセッションの予定だった。ノアとジェイミーはすでに入っていて、マイルズはまだ来ていないという。
ウィリアムはアンプの電源を入れ、黙って自分の席につく。ギターを構えたとき、背後で扉が開いた。
「よっ。みんな、おはよう」
明るい声だった。振り返ると、マイルズがコーヒー片手にスタジオに入ってくるところだった。
髪はいつものように少し乱れていたが、シャツのボタンはきちんと留まっていた。無造作なのに整っている。いつも通りの、完璧なマイルズ。
「いや〜雨ひどかったね昨日。オフで良かったよ」
ウィリアムは、一瞬だけ息を詰めた。
――昨日。マイルズは、”オフ”なんかじゃなかった。彼は確かに、雑誌の撮影だったと言っていたのだから。
まるで、そのことに触れてほしくないかのように。無かったことにしたいかのように、マイルズは嘘を吐いたのだった。
彼はそのまま、ノアやジェイミーに軽口を飛ばし、笑い、飲み物を配り、昨日までの“フロントマンの顔”に戻っていた。
スタジオの中に、音が重ねられていく。ウィリアムはギターを弾きながら、目を閉じて思った。
あの夜、彼の額が触れた場所に、まだ熱が残っている気がする。でも、その熱に触れたのは自分だけで、彼の中にはもう、何もないのかもしれない。
音は鳴っているのに、心が遠ざかっていくようだった。
その日のセッションが終わる頃、マイルズが何気ない顔でこう言った。
「ウィル、あのフレーズ……またこの前みたいに崩してくれる?もう少し、なんていうかクセがほしいんだよね」
ウィリアムはギターを手に取り、マイルズのほうを見ずにコードを鳴らした。彼の好きな音。彼が歌いやすいキー。彼のための旋律。
けれど、ピックを握っても、指を動かしても、音はただそこに”落ちるだけ”だった。
何度も弾いたコード。何度も書き出そうとしたメロディ。いつもなら自然に浮かんでいたフレーズが、今日はどこにもなかった。
セッションのあと、ウィリアムはまっすぐ自宅に戻った。ノアの冗談も、ジェイミーの皮肉も、マイルズの笑顔も、全部遠くに置いたまま。
部屋に着いてギターを構えてからも、なんとなく心が沈んでいた。アルバム用の新作を書こうとしていたが、指先は冷え、ノートのページは白いままだった。
書けなかった。
いや――書けるはずだった。でも、言葉が出なかった。
どうしても、書くと彼が浮かんでしまって。
マイルズの声。マイルズの笑い方。マイルズが、昨日、自分の額に寄せた温度。それら全部が、ウィリアムの中でノイズになっていた。
“泣きそうな顔でって。それって、どんな顔だと思う?”
“ウィルはいいなあ。泣かなくても、曲が泣いてるんだもん”
あの声が、何度もリフレインする。ふざけていたのか、本気だったのか。そんなことは、もうどうでもよかった。
ただ――彼のことを、書けなくなっていた。
彼をモデルにしてしまうことが怖かった。彼に向けて書いてしまうことが怖かった。
だって、それは結果的にマイルズを苦しめることのような気がしたから。
そして彼はそれに気付いたとき、また冗談のように笑って、なかったことにするのだろうから。
ウィリアムはギターをそっと横に置いた。椅子にもたれ、手で顔を覆った。
ウィリアムにとって、曲を生むことは“日常”だった。でも今、その“日常”を失いつつある。
ふと、部屋の静けさに耐えられず、ラジオをつけた。チューニングの合わない雑音が、一瞬だけ部屋に満ちた。そのノイズの中で、ウィリアムはぼんやりと思った。
――もし、彼がいなかったら。
自分は、いったい何を書いていたのだろう。
わからない。
マイルズがいない曲なんて、もう何年も書いたことがない。そもそも、曲を書き始めたのも、マイルズがきっかけなのだから――
静かなラジオの音の向こうで、また雨の気配がした。雨粒が窓を叩いている。それは、まるで昨日の夜の続きを演じるように。
ペンは止まったまま、ページには何も生まれなかった。
ウィリアムは、音を失っていた。
・
スタジオのエントランスには、コーヒーとチョコバーの香りが漂っていた。曇り空のせいか、空気は重く、地下のフロアには湿った靴音が響いていた。
その日、スタジオにはウィリアムとマイルズしかいなかった。
ノアとジェイミーは他バンドのサポートに呼ばれており、午後いっぱいは自由に音を出せる。
「なんか弾いてよ」
マイルズがソファに寝転がりながら言った。
ウィリアムはギターを抱えていたが、まだコードはひとつも鳴らしていなかった。
昨日から、頭の中は空白のままだった。音が出ない。言葉も出ない。
それでも、彼は無言で弦に指を置いた。
右手が、ついクセのように同じ進行をなぞる。ほんの数小節だけ。書きかけて止まっていた、新しい曲の断片。
思考するより先に、指が覚えていた。
静かに、ひとつの旋律が生まれた。すると、マイルズが目を閉じたまま、小さく口ずさみ始めた。
“Come and go, like the rain on rooftops…”
それは――ウィリアムがまだ歌詞にもしていなかった、仮タイトルすら決めていない一節。
ノートの片隅に、鉛筆でメモしていただけの言葉だった。
それを目の前の男が、なぜこんなにも自然に口にしているのか。ウィリアムは思わず手を止めた。
「……それ、どこで聞いた」
マイルズは目を開けて、きょとんとした顔を向ける。
「ん? 今のメロディ、ちょっと前にお前がスタジオで弾いてたじゃん。なんか残ってて、口から出た」
その言い方は軽かった。何の含みもないように見えた。けれど、ウィリアムの心臓は、ひとつ大きく跳ねた。
彼が、“触れてしまった”のだ。まだ形にすらなっていない、ウィリアムの心の一番深いところに。
「ごめん、マズかった?」
マイルズが体を起こし、髪をかきあげる。
「いや……」
ウィリアムはかぶりを振った。
「ただ、まだ……まとまってなくて」
「いいじゃん、そういうの好き。未完成っていうか、余白があるやつ」
マイルズは笑った。少しだけ、優しい声音で。
「ウィルさ、歌詞にこだわるじゃん。でもさ、オレはお前の曲って、言葉の“手前”にあるもんがいいと思うんだよね。俺が歌うとしたらさ、もうちょい引き算でもいい。……ってことでさ。どう?一緒にやってみる?」
ウィリアムは内心、驚いた。
それは、マイルズのほうから初めて“共作”を申し出た瞬間だった。
このバンドが始まって以来、ほとんどの曲はウィリアムが書いてきた。マイルズは「お前がやったほうがいい」と言って、いつも距離を取ってきた。
それが今、彼の口から「一緒にやってみる?」という言葉が出たのだ。
ウィリアムは少しだけ間を置いてから、静かにうなずいた。
「……ああ。いいよ」
その声は震えていなかった。
でも、どこかで確かに、自分が“戻れなくなる”ような予感がした。
マイルズがウィリアムのギターに手を伸ばした。
そして、彼の指が何気なく触れた瞬間――ウィリアムの胸の奥で、何かがそっと鳴った気がした。
ふたりの間に、まだ名前のない音楽が生まれかけていた。音の断片が、ふたりの間を行き交っていた。
・
スタジオの午後は、曇り空のように静かだった。
マイルズは床に座り、紙に走り書きのような歌詞のメモを広げ、ウィリアムはギターを抱えて、彼の言葉に音をつけていく。
「今の、悪くないな」
マイルズが呟いた。
「“蒸気みたいに消えてく嘘”ってとこ、音がすごく薄くて逆にいい」
ウィリアムは黙ってうなずいた。マイルズの書いた歌詞の断片に、自分のギターが絡んでいく不思議な感覚。
コードの進行に迷ったとき、マイルズは自然にウィリアムの肩越しを覗き込んできた。
近い。息がかかる距離。彼は無意識だ。何も特別なことをしていないつもりなのだ。
でも、ウィリアムにとっては、その無意識こそが、もっとも心を掻き乱す。
「ウィルさ、こういうコード進行、あんまり使わないよね」
「……そうか?」
「うん。なんか、“抑えてる”感じがする。……オレのせい?」
ウィリアムは答えなかった。マイルズは笑った。
「冗談。……かも」
沈黙が落ちた。
数秒後、マイルズがぽつりと呟いた。
「でも、そういうとこが、俺は好きだけどね」
ウィリアムの手が止まった。
マイルズは何事もなかったかのように、目の前の紙に目を戻している。
彼の言葉はいつもそうだ。ふざけているようでいて、どこかに“本当”を潜ませる。
それを信じるかどうかは、ウィリアムに委ねられる。
そしてウィリアムは、いつも――信じてしまう。
・
数時間後、ふたりはセッションを終えてスタジオを出た。
夜の街には、少し雨が降っていた。
マイルズは傘をささず、フードもかぶらずに歩いていた。髪が濡れていくのに、気にする様子もない。
ウィリアムは一歩後ろを歩きながら、その背中を見ていた。
心が、少しずつ暴れていた。
このままではだめだ、とわかっていた。これ以上近づけば、自分はもう冷静でいられなくなる。
マイルズからの共作の誘いを受けた時に感じた、 “戻れなくなる”ような感覚が、再び押し寄せてきた。
確かに、音はある。感情もあるが、それはウィリアム自身の中に留めておかなければいけないもののような気がしていた。
けれど――自身を暴いて、さらけ出すことでしか、良いものは作れない。今の自分たちに、それは不可能なように感じられた。
共作をすることで、マイルズとの境目がどんどん曖昧なグラデーションのように滲んでいく。それが意味するのは――ひとつの“曲”が完成する頃には、きっと破滅に近づいているだろう、ということ。
“このまま、共作なんてできないかもしれない”
そう思った瞬間、ウィリアムの心に、はじめて“距離を置く”という選択肢が浮かんだ。
・
その日、スタジオに向かう足取りは重かった。
ウィリアムはギターケースを持たず、ノートも置いてきた。何も鳴らしたくなかった。鳴らせる気がしなかった。
鍵を開けると、マイルズが先に来ていた。
ソファに寝そべり、何かの動画を見ながら笑っていた。
部屋に入ってきたウィリアムに気づくと、いつものように軽く手を振った。
「ウィル。なんか元気ない? 寝不足?」
ウィリアムはバッグを椅子に放って、言葉もなく立ちすくんでいた。何もかもが遠くに思えた。
「……マイルズ」
「ん?」
「たぶん、もう書けない」
マイルズの表情が、すこしだけ固まった。
「曲の話?」
「うん。新しいの、ずっと考えてたけど、もう無理だと思う」
「なんで?」
「わからない。ただ……怖いんだ」
「……怖い?」
マイルズがゆっくりと身体を起こした。その仕草は、どこかぎこちなかった。
「……俺のせい?」
その声は、珍しく低かった。冗談でも、ふざけてもいない。
「お前のせいじゃない。でも、たぶん……お前のことを思うと、全部止まる」
ウィリアムは言ってしまった。もう戻れないとわかっていても、言葉が止められなかった。
マイルズは黙って、少しだけ俯いた。その沈黙が、まるで空気を削るように重かった。
やがて、マイルズが顔を上げた。笑っていた。
けれど、ウィリアムはその笑顔を見て、背筋が凍った。その笑顔には、何もなかったからだ。
「じゃあ……やめる?曲作り。無理して一緒にやることじゃないしさ。ウィルがそう言うなら、いいよ」
淡々と、優しく。まるで「天気が悪いから散歩やめようか」と言うみたいに。
ウィリアムは、立ち尽くした。
その笑顔の奥にあったもの。
何も感じていないように見える、完璧に作られた空虚さ。
「……なんでそんな顔、するんだよ」
ウィリアムは思わず、声を出した。マイルズが少し目を丸くする。
「どんな顔?」
「何でもないみたいに言うな。お前、ずっとそうだよ。笑ってごまかして、全部流して……本当は何考えてんだよ」
マイルズは、しばらく黙っていた。やがて、ぽつりと答えた。
「……俺も、怖いんだよ」
それは、あまりにも静かな言葉だった。さっきまでの明るさと軽さが、すべて崩れ落ちていくような声だった。
「全部、バレたら、オレのこと嫌いになるでしょ?」
「……ならない」
「でも、オレはそう思うんだよ。いつも。見せたら、嫌われる。だから、ちゃんと見られるのが怖い」
沈黙が部屋を包んだ。冷たい沈黙。けれど、その中には確かに、真実があった。
マイルズは、もう笑っていなかった。
誰かに“ちゃんと見られる”のが怖い。全部を知られて、失望されるのが怖い。
だから、笑う。だから、演じる。
ウィリアムは、その弱さに確かに触れたはずだった。
それでも、口の中で一度煮えたぎったものを止めることができなかった。
「……なあ」
自分でも、声が震えているのがわかった。
「お前は……俺の好意をわかってて、利用したことがあるだろ」
その瞬間、空気が止まった。
マイルズのまばたきが、ゆっくりとひとつ落ちた。
ウィリアムの声は乾いていた。怒鳴ったわけじゃない。
むしろ、淡々と告げられた告白のようだった。
「俺がどんな気持ちで曲を書いてるか、お前は気づいてる。ずっと。でも、知らないふりをして、うまくかわして、でも必要なときには“その気にさせる”ようなことばっかり……あの大雨の夜のことだって、説明もなしに無かったことにしてる」
マイルズは微動だにしなかった。表情が読めなかった。まるで、マイクを通さない音みたいに、彼の反応が聴き取れなかった。
沈黙。
長い、長い沈黙が続いた。
やがて、マイルズが口を開いた。とても静かな声だった。
「……わかってたよ」
ウィリアムは、息が止まった。
「なんとなく、ずっと前から。ウィルがオレに……特別な目を向けてるの、気づいてた。でも、それって言ったら終わる気がしてさ。怖かったんだよ、ほんとに」
マイルズは、ソファに背を預けたまま、ゆっくりと目を閉じた。
「嫌われたくなかった。……ただ、それだけ」
その姿は、どこまでも正直だった。
子どもみたいに、ただ真っすぐで、嘘がひとつもないように見えた。
けれど――ウィリアムは、自分が言ってしまったことの重さを、今になって痛感していた。
利用してる、なんて。そんな言葉は、マイルズに向けるべきじゃなかった。
彼のその笑顔は、演技は、ただ生き延びるための術だったのだ。愛されるために、笑って、演じて、誰かの理想になろうとしてきただけ。
「……ごめん」
ウィリアムは、声を絞り出した。
「違うんだ。そんなふうに、言いたかったわけじゃない」
「ううん。言っていいよ」
マイルズが小さく笑った。けれどその笑みは、どこまでも疲れていた。
「オレ、みんなが……オレの何が好きなのか、たまにわかんなくなるんだよね。ウィルはどうなの?顔?声?仕草?それとも、その全部?」
「……ちがう」
「じゃあ、どこ?」
その問いに、ウィリアムは答えられなかった。
言葉では説明できない。どれでもあり、どれでもない。
彼の声も、目も、輝きも、弱さも、全部ひっくるめて――マイルズに惹かれていた。
ふたりの間にまた、沈黙が落ちた。
けれど、その沈黙は、前よりも少しだけ――静かだった。
スタジオの壁に貼られた吸音材が、まるで世界との断絶のように感じられた。
すべての音が、ここで吸い込まれて消えていく。誰にも届かず、誰にも響かない。
「なんかさ。ウィルがそんなふうに怒るの、久しぶりだな」
口元には、いつものいたずらっぽい笑み。けれど、その笑顔には、もう体温がなかった。言葉のトーンも、少しだけ浮いていた。
まるで、自分を演じていることにすら気づいていないような、そんな空虚さ。
「俺、怒ってるように見えるか?」
「うん、見えるよ。ちょっと悲しい顔してるけど」
「……お前は、何も感じないのかよ。こんなこと言われて、傷ついたり、腹が立ったりしないのか?」
マイルズは、きょとんとしたような顔でウィリアムを見た。その顔が、ウィリアムには恐ろしく見えた。
「うーん、わかんない。……でも、ウィルがオレを嫌いになるなら、仕方ないって思うよ。オレ、そういうの慣れてるし」
その瞬間、ウィリアムの中で何かがはっきりと壊れた。
怒りではなかった。悲しみでもなかった。ただ、恐怖だった。
マイルズは、壊れかけている。いや、もしかするともう壊れてしまっているのかもしれない。
「……お前、もうおかしくなってるよ」
そう言った自分の声が、思っていたよりも冷たかった。
マイルズは、何も返さなかった。ただ、静かに笑っていた。その笑顔は、まるで“やっとバレたか”とでも言うように、穏やかだった。
ウィリアムは耐えられなくなった。
ドアを開けてスタジオを出ると、外は冷たい風が吹いていた。空はどんよりと重く、雲の色は鉛のようだった。
階段を下りる途中、ふと振り返った。でも、扉の向こうには何も見えなかった。
マイルズは、怒らない。何を言っても、笑って受け流す。
それは彼の強さじゃない。壊れたまま、誰にも直されずにきた人間の、最終的な無音の在り方だった。
ウィリアムは、胸の奥に黒く沈んでいくような感覚を覚えながら、スタジオの建物を背にした。
その背中が、なぜかひどく軽くて、ひどく重かった。
・
扉が閉まった音が、静かに響いた。
マイルズは、誰もいなくなったスタジオで、しばらく天井を見つめていた。
いつもなら、ここは音で満ちている場所だった。自分の声。ギターの音。笑い声。誰かの咳。ペンの走る音。
でも今は、ただ“何もない”だけの部屋だった。
マイルズはソファに身を沈め、ようやく呼吸を吐いた。体の奥に詰まっていた何かが、少しだけ抜けた気がした。
自分でも、何を感じているのかわからなかった。
痛み? 悲しみ? 怒り?
どれも違うような、でも全部あるような。胸の内側が真空みたいになっていて、何を投げ込んでも落ちていかない。
「……おかしくなってる、か」
マイルズには、もはや笑う力もなかった。
それでも顔の筋肉だけは勝手に動いて、いつもの癖で、口元が笑ったような形になった。
どんな形であれ、人の悪意や欲望、激情、そういう部分を向けられることには慣れていた。
でも――今は、どうしてか、胸が苦しかった。鼓膜の奥に、ウィルの声が残っている気がした。
“俺の好意をわかってて、利用したことがあるだろ”
その言葉は、ナイフのようだった。でも、自分がそれに値する人間であることは、よく知っていた。
“使われる前に、使う”。
“愛される前に、愛されたふりをする”。
ずっと、そうやってきた。
マイルズは、視線を落とし、指先を見つめた。どこか弱々しくも感じさせる、細く長い指。
この手で、どれだけのものを握って、どれだけのものをすり抜けさせたんだろう。そのどれもに、本音なんてなかった。
マイルズはゆっくりと立ち上がり、アンプの上に置いてあった缶コーヒーを手に取った。
書きかけの歌詞を見て、また空虚な笑みを浮かべる。
「あーあ……ここでなら、上手くやれると思ったのに」
Glasshouse @nan_04
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