Glasshouse
@nan_04
上
冷たい汗が、首筋を伝って落ちた。
ウィリアムはゆっくりとまぶたを持ち上げ、暗がりの中で天井を見上げた。
エアコンの低い唸り。遮光カーテンの向こうには、アメリカ西海岸の夜が広がっているはずだった。
ひと呼吸ごとに、夢の残り香が肺の奥を焦がしていく。それは夢というには生々しく、現実というには残酷だった。
――彼の手が、指先が、目の奥が。
あまりにも近くて、熱くて、触れてしまったのは確かで。
ウィリアムは乱れたシーツの上に手をつき、額に汗をにじませたままうつむいた。まだ心臓が、馬鹿みたいに速く打っていた。
もう何度目だろう。何度こうして目を覚まし、言いようのない罪悪感に潰されそうになっているだろうか。
それでも、やめられなかった。彼を、夢に見ることを。
隣のベッドには誰もいない。
彼は、時差ボケで眠れないとかなんとか言って、ひとりで外へ出て行った。
もう深夜の2時を過ぎている。ホテルのロビーのソファか、もしくは誰かとどこかのバーでまだ飲んでいるのかもしれない。
「誰か」と――それを考えただけで、ウィリアムは自分の爪をぎゅっと掌に押し込んだ。思考の先を拒むように。
あの男は、いつでも光と影を孕んでいる。
無造作なブロンドヘア、子どものような屈託のない笑顔。悪戯に光るターコイズの瞳。
誰もがつい、彼を見てしまう。手を伸ばしたくなる。自分も、そうだった。
でも、彼は決して振り返らない。
掌に乗った気がしても、次の瞬間にはもう煙のようにするりと逃げていく。
隣にいても、どこか別の場所にいるような――そんな、曖昧な、危うい距離をまとった男だった。
けれど、彼の歌を聴くときだけはその距離が消える気がした。
ステージの上で、彼が歌詞に託された何らかを喉の奥から絞り出すように放つとき。マイクの向こう側にいるのは、自分なのだと錯覚してしまう。
その錯覚が、どれほど愚かで傲慢なものか、ウィリアムはよくわかっている。わかっているのに、期待してしまう。
そして、また夢に見るのだ。
彼が、自分の名前を呼ぶあの瞬間を。
彼は、知っているのかもしれない。ウィリアムの感情の底に、自分がいることを。
それでも、素知らぬふりをしている。いつもの無邪気な表情で。からかうような目で。
冷えた床に足をつけ、ウィリアムはベッドを出た。
ホテルの壁は厚い。誰の音も聞こえない。まるで世界に自分ひとりしかいないみたいな、静かな夜だった。
笑い声も、息遣いも、どこにもなかった。
けれど、その”不在”さえ彼の――マイルズという男の存在を浮かび上がらせてしまうのだから、本当に厄介だと思った。
・
朝になって、ホテルのロビーに取材チームがやってきた。
グラスの向こうには、眩しいカリフォルニアの陽光が差し込んでいる。街路樹の影が揺れ、遠くで鳴るクラクションさえ、どこか映画のワンシーンのようだった。
小さな音楽誌の取材だったが、向こうは気合いが入っていた。カメラ、マイク、簡易の背景紙。スタッフがセッティングをしているあいだ、ウィリアムたちバンドメンバーはラウンジ奥でコーヒーを飲んでいた。
「マイルズはまだか?」
ドラムのノアが訊ねる。キャップのつばを指でいじりながら、足を投げ出している。
「さっき外でタバコ吸ってたよ」
そう言ったのはジェイミー。最年少のベーシストだ。細身のカップを両手で包みながら、窓のほうをちらりと見る。
そのとき、ロビーの自動ドアが音を立てた。マイルズが戻ってきたのだ。
くしゃっとした無造作な髪に、くたびれたTシャツとヴィンテージのレザージャケット。コーヒーカップを片手に、少し眠たそうな目をしている。
けれど、その姿はなぜか目を引いた。単に彼の容姿が端正だからではない。それは、彼が立っているだけで空間の重心が傾いたように感じさせる、不思議な存在感だった。
「おはよう、ロックスター様」
ノアがからかうように言うと、マイルズはただ肩をすくめて答えた。
「“様”はやめてよ。オレが天狗になってるみたいじゃん」
言いながら笑うマイルズは、曖昧で、どこか掴みどころのない笑顔だった。
簡単な打ち合わせのあと、取材が始まった。
テーブルには4人が並んで座り、その前にインタビュアーの女性が腰を下ろす。アメリカ人らしい明るくオープンな口調で、取材は和やかに始まった。
「Glasshouseのみなさん、今日はありがとうございます。まずは今回のフェス出演、おめでとうございます!」
「ありがとう。アメリカでのライブは初めてだから、楽しみにしてるんだ」
マイルズが笑って答えると、ノアとジェイミーもつられて笑った。
いくつかの質問が続く。バンド結成の経緯、曲作りの話、影響を受けた音楽――
ウィリアムは淡々と答える。ノアは冗談を挟みながら、ジェイミーは控えめに補足を入れる。
マイルズはというと、終始にこやかに受け答えしていた。ときおり記者の言葉に首をかしげたり、逆に質問を返したり。彼の受け答えには、会話に“余白”があった。記者が答えを決めきれないような、あえて焦点をずらすような言い回し。
しばらくして、空気がわずかに変わった。記者がふと、質問のトーンを変えたのだ。
「…それにしても、マイルズさんの歌声は、とても感情的ですよね。ご自身の恋愛経験――たとえば失恋とか。そういう部分が投影されてるのかなって。いかがですか?」
マイルズは、にこっと笑った。表情はそのまま、目だけが少しだけ細まったように見えた。
「失恋ね……うーん、そうだなあ」
言葉を選ぶように、彼は指先でコーヒーカップの縁をなぞった。
「“失う”って、誰が決めるんだろうね。誰かが去っていったら、それはもう“失った”ってことになるのかな。…でもさ、もし頭の中にその人が残ってたら、それって“まだ在る”って言えるんじゃないかな」
少しの沈黙。記者が戸惑ったように笑い返す。
「なるほど……。えっと、それは……」
「まあ、何が言いたいかっていうと」
マイルズは、笑いながら肩をすくめた。
「そういうのって、言葉にした時点で台無しになること、あるよね」
ウィリアムは黙ってマイルズの横顔を見ていた。
一見して人好きのするその声、その表情は、どれも慣れた“演技”のように見える。
けれど、その奥にあるものを、ウィリアムはただ一人感じ取っていた。
彼は本当は、何も話したくなかったのだ。自分の中にあるものを、誰かに定義されたくない。
だからこそ、あんなふうに煙に巻く。笑って、話題をすり替えて、軽く流して。
けれど、ウィリアムの目には映っていた。その笑顔が、ほんの少しだけ――疲れていたことも。
・
熱が残る夜だった。
フェス会場の喧騒はもう遠く、スタッフもほとんどが引き上げて、広いバックステージには涼しい風が通り抜けていた。ブルーシートがアスファルトの上でカサカサと音を立てている。
ウィリアムは自身のギターを片したあと、機材車の横に腰をかけて、ぬるくなった缶ビールを片手にしていた。
ステージを終えてからずっと、何も口にしていない。アドレナリンだけが、まだ薄く残っている。耳の奥では、マイルズの歌声がかすかにこだましていた。
控えめに照らされたライトの下、足元の影が伸びた。
顔を上げると、マイルズがいた。
「……いたいた。さぼり魔」
バンドTシャツに身を包んで、紙コップをくるくると指先で回しながら、彼は歩み寄ってきた。
「何してんの? 乾杯しに戻るかと思ってたのに」
「ひとりになりたかっただけだ」
ウィリアムが淡々と答えると、マイルズはその横に腰を下ろした。足元に落ちた缶とカップの影が、ふたりの間に伸びている。
「……アメリカ、どうだった?」
ウィリアムが訊ねた。自身でも驚くほどの低い声だった。
「広いね。うるさいし、ピザがでかい」
マイルズはそう言って笑った。
「でも……音は、意外と聞いてもらえるんだなって思った」
「お前の声は通るからな」
「褒めてる? 照れるなあ」
茶化すように言って、マイルズは足を組み直した。
「でも、たまに不安になるよ。オレの声に“中身”があるかって」
「……あるさ」
ウィリアムは少し間を置いて言った。
マイルズは何も言わなかったが、ほんのわずかに眉が緩んだ気がした。
ふたりの間に、静かな時間が流れる。
遠くの方で機材を積む音がして、誰かの笑い声が風に乗って流れてきた。
ふいに、マイルズが口を開いた。
「ねえ、ウィル……お前ってさ、俺のこと大好きだよね」
ウィリアムは言葉を失った。手にしていた缶の縁を指でなぞる。
「……え?」
マイルズはにやりと笑った。いつもの、何でもない悪戯好きの笑顔だった。
「お前の書いた曲歌ってると、なぜかそう思うんだよね。『息を吸うように君を思ってた』とか、『触れたら壊れそうだった』とか――ね」
それは、冗談だった。ふざけた口調。笑っている。だが、その目は笑っていなかった。
ウィリアムは努めて平静を装いながら、視線を前に向けた。
答えてはいけない。答えたら、すべてが壊れる。
でも、何も言わなければ――それもまた、残酷だ。
「……そんなふうに、聞こえるか?」
「さあ?」
マイルズは首を傾げて、夜空を見上げた。
「曲が本質的にどんなメッセージを持ってるかなんて、作者のみぞ知ることなんだろうけど。……でも、歌う側って、どうしても誰かの顔が浮かぶんだよ」
「お前は……歌うとき、誰を思ってる?」
マイルズは、答えなかった。ただ、ゆっくりと笑った。その笑みはどこか遠くを見ているようだった。
「さあね――答えたら、つまんないじゃん」
その場には、それ以上言葉が落ちなかった。ウィリアムは、ぬるくなったビールを飲み干した。苦味が喉を焼いた。
“本当はただ、気分屋なだけで何も考えていないんじゃないか”
“いや、気づいていて、遊ばれているのかもしれない”
どちらにしても――答えが出ることはない。
マイルズはいつだって、煙のようだった。触れたと思った瞬間、形を変えてしまう。
・
ホテルの部屋に戻ると、空気がやけに冷たく感じられた。
フェスの熱気が、肌の内側にまだこびりついている。
外ではまだ誰かが笑っていた。遠くで鳴る乾いた笑い声。あれはノアか、ジェイミーか――もしかしたら、マイルズかもしれない。
ウィリアムはジャケットを椅子に掛け、部屋の照明を半分だけ点けた。淡い光がベッドの縁を照らす。
何をするでもなく、バッグの中からスマートフォンを取り出した。指先が迷うように画面をなぞり、アルバムの奥、誰にも見せたことのないフォルダを開く。
再生ボタンを押すと、かすかにスピーカーからノイズのような風の音が流れ出す。画面には、まだ幼さの残る少年が映っていた。
柔らかな夕暮れの光。小さな町の海辺。防波堤に腰掛け、アコースティックギターを抱えている。くせのあるブロンドヘア。今より少しあどけない笑顔。マイルズだった。
“Come away with me in the night…”
マイルズの声が、そこにあった。
若く、まだ細いけれど、今と同じくどこか澄んでいて、温度を帯びていた。
“Come away with me and I will write you a song…”
言葉ひとつひとつが、風に溶けるように響いていく。
彼は真剣な顔をしていた。照れて笑ったりもせず、ただ静かに、ノラ・ジョーンズの曲を、自分の声で届けようとしていた。
あの頃のウィリアムは、まだギターすらまともに弾けなかった。曲も書けなかった。
ただ、音楽が好きだった。マイルズと同じくらい。
録画していたのは、ウィリアム自身だった。
きっかけは何でもなかった。「録っといて」と言われただけだった気がする。
だけど、その日、その瞬間――マイルズがこの曲を歌うのを見て、聴いて、思ったのだ。
“この声に、何かを重ねたい”と。
「……あれが、始まりだったんだよな」
呟いた自分の声が、思っていたよりも掠れていた。
あの日からずっと、マイルズのそばにいた。音楽という形を使って、彼に触れようとしていた。
触れられたことなんて、一度もないのに。
映像の中のマイルズが、最後のコードを爪弾いたあと、顔を上げた。
“どうだった?”
“これ、ライブでやったらウケるかな?”
その声も、ちゃんと録音されていた。ウィリアムの声は、画面の向こうで笑いながら答えていた。
“お前が歌えば、何でもウケるさ”
それは、真実だった。
そして、たぶん――今でも、変わっていない。
マイルズが歌えば、何でも正解になる。
だからこそ、自分はこのバンドで曲を書き続けるのだ。歌うのがマイルズである限り。
画面が暗転する。スマホが静かにスリープに戻る。
ベッドにもぐり込んでも、目は閉じられなかった。マイルズの言葉が、まだ耳に残っていた。
“お前ってさ、俺のこと大好きだよね”
ふざけた口調。茶化すような笑み。
だけど、目は――あの目だけは、嘘をついていなかった。そのことが、何より苦しかった。
・
ロンドンに戻った初日、バンドはいつものスタジオに集合していた。
曇り空。濡れた石畳。冷たい紅茶と、スタジオ特有のこもった空気。フェスの熱狂も、アメリカの陽射しも、ここではもう過去のものだ。
誰が言い出したわけでもなく、ウィリアムが先週に書き上げたばかりの新曲の練習が始まっていた。
ギターのフレーズ。キーボードの音色。ビートの重ね方――ウィリアムは、まだ頭の整理がつかないまま、自分のギターをアンプにつないだ。
「ウィル、歌メロちょっと変えたいとこあるかも。このコード弾いてみて」
マイルズが、さっきから何度も同じフレーズを口ずさんでいた。
その音を、ウィリアムは一度耳で拾い、そのまま自分のギターでなぞる。
「あ、そこ。もうちょっとだけ崩して…」
「……こんな感じか?」
「うん、いいね」
マイルズは椅子の背にもたれ、ペンでノートに何かを書きつけながら、足で軽くリズムをとっている。
彼の口元には、かすかな笑み。音楽に集中しているときの、素の顔だった。
それが、ウィリアムにはたまらなかった。
ステージでもなく、インタビューでもなく――誰にも見せていない、ただの“マイルズ”がそこにいる。演技でもない、誰かの理想をなぞった仮面でもない。
この数分間だけでも、彼が“求められない姿”でいられるなら。それだけで救われるような気がした。
セッションは断続的に続き、終わるころには、時計の針は夜の10時を回っていた。
ノアとジェイミーは先に帰り、スタジオに残ったのはふたりだけだった。照明を落とし、機材を片付け、扉に手をかける。
ウィリアムがスタジオのドアを開けると、廊下の先で数人の男たちが話している声が聞こえた。
「ほら、今日入ってたらしいじゃん、あのバンド――“グラスハウス”?ボーカルの奴の顔と雰囲気だけでバズったバンド」
「MV再生数すごいらしいな。あいつ、見せ方うまいもんな」
「女が放っとかないでしょ、ああいうの。曲の中身はどうでもよくなるくらい」
声は大きくなかった。けれど、はっきり聞こえた。
ウィリアムが立ち止まると、背後からマイルズの気配が近づいた。
「行こうぜ」
マイルズが肩越しにそう言った。
ふたりは廊下を進み、男たちの脇を通る。
マイルズは、何もなかったかのように笑っていた。それどころか軽く手を上げ、「こんばんは」と挨拶して見せた。
相手は、あからさまに動揺していた。マイルズは気にも留めない様子で、スタジオの出口を押し開けた。
外の空気は冷たい。夜風が髪をなびかせ、マイルズのトラックジャケットの裾が軽く揺れた。
ウィリアムは、隣で無言のまま歩く彼の横顔を見た。
機嫌良さそうに、微笑んでいる。いつもと変わらないように。けれど、その笑顔はどこか輪郭が薄かった。
「……ああいうの、気にならないのか」
ウィリアムは口を開いた。
マイルズはしばらく黙っていたが、やがて肩をすくめた。
「“求められてるうちが華”って言うじゃん」
「でも、あれは――」
「いいんだよ」
マイルズの声は、優しく、けれど淡かった。
「誰でもいいんだ。求めてくれるなら。それが何でも。顔でも、声でも、衣装でも。オレが“いてほしい”って思われるなら、それでいい」
ウィリアムは言葉を失った。それが嘘だとは思えなかった。
けれど、そこには何かが“欠けて”いた。本人すら気づいていない空白――あるいは、気づいていて見ないふりをしているだけの。
「お前は……それで、平気なのか」
マイルズは、少しだけ笑って答えた。
「わかんない。でも、役に立ってるならいいんじゃない?オレ、商品だからさ」
その言葉に、ウィリアムの胸が締めつけられた。
商品。たしかにそうかもしれない。音楽業界においては。
けれど――マイルズは、そんなものじゃない。
彼は音そのものだった。
ただ、誰よりも真っすぐで、危うくて、輝いていた。
それを、本人だけが知らないままでいることが、何より痛かった。
・
ギターの音が、雨音にかき消されていく。
翌日。ウィリアムの部屋はロンドン北部の古い集合住宅の一室にあった。壁は薄く、窓枠は少し歪んでいる。雨が降る夜は、特に音が響いた。
部屋の中央、アコースティックギターを抱えて、彼はずっと同じフレーズを繰り返していた。
コードは決まらない。言葉も出てこない。マイルズの声が、頭の中にこびりついて離れなかった。
“誰でもいいんだ。求めてくれるなら。それが何でも。”
マイルズから淡々と放たれたその言葉は、ひどく痛々しかった。
少なくとも、砂浜でノラ・ジョーンズを歌っていたときのマイルズは、そんなことを言わなかった。それなら、一体いつから、何が彼を――
不意に、玄関のチャイムが鳴った。
時計は深夜2時を過ぎていた。こんな時間に誰が――と思う間もなく、もう一度チャイムが鳴った。
ウィリアムはギターを脇に置き、部屋の明かりを落とさずに玄関へ向かった。
ドアを開けた瞬間、冷気が流れ込んだ。
そこには、マイルズが立っていた。
シャツの肩が雨に濡れ、髪もぐっしょりと湿っている。
顔は赤く、手にはビニール袋と紙コップ。どこかで酒を飲んでいたのだろう。
「……来ちゃった」
マイルズは笑った。けれどその声は、ひどく掠れていて、ウィリアムはただならぬ気配を感じた。
部屋に入れると、マイルズは靴も脱がず、フローリングに座り込んだ。「乾いてるから大丈夫」と言っていたが、シャツからはポタポタと水が滴っていた。
ウィリアムはため息をつき、タオルを取りに行った。それを黙って差し出すと、マイルズは受け取らずに彼を見上げた。
「……今日さ、雑誌の撮影だったんだけどさ。…言われたんだ。“もっと熱っぽく”、“泣きそうな顔で”って。……ウィル、それって、どんな顔だと思う?」
ウィリアムは答えなかった。マイルズの目には、笑いがなかった。濡れているのは、雨のせいだけじゃないのかもしれないと思った。
「ウィルはいいなあ」
マイルズはぽつりと続けた。
「泣かなくても、曲が泣いてるんだもん。オレは……顔で全部やらなきゃいけないのに」
ウィリアムはゆっくりしゃがみこみ、マイルズの濡れたシャツにタオルを当てた。首筋、肩、腕。優しく拭っていく。
そのとき、マイルズの指が、ウィリアムの手を掴んだ。
「ウィルはさ……オレのこと、ほんとはどう思ってんの?」
声が震えていた。目も合わせなかった。
けれど、その手は確かに彼を掴んでいた。弱くて、熱くて、壊れそうな力で。
そして、静かに額を寄せてきた。頬が触れ合う。息がかかる。
ウィリアムは動けなかった。それは、拒める自信がなかったからだ。
けれど、マイルズは何もしてこなかった。
ただ、そっと額を押しつけるようにして、目を閉じた。
「……ごめん。冗談」
それだけ言って、彼はそのまま、うずくまるようにして眠ってしまった。
ウィリアムは、タオルをそっと落とした。手のひらから、マイルズの熱が離れない。
演技をやめたマイルズは――途端に、壊れた子供のようだった。
静かすぎて、悲しすぎて、その夜の雨音は、どこか彼の代わりに泣いているようだった。
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