12

 女は旅の武芸者であった。

 力なき人を守れることこそ力の意義だと、子供の夢見るような真っ当な道の存在を信じている、善なるものを絵に描いたような女だった。

 無論、平成の時代に武芸だけで生きていけるわけもなく、彼女は職業として絵本作家をしていた。定住せず、車に画材と少しの手荷物を乗せ、各地を旅しては趣味として武術を学びつつ、世界中の子供たちに届くようにと信義のために闘うヒーローの物語を描いた。

 ある時、女は小さな町に辿り着いた。

 山寺で秘拳を伝えているという町に。

 頼み込んで、自らの業前を稽古場で披露し、滞在の許しを得た。

 特徴的な型があるわけではなく、伝承者ひとりひとりの研究で発展していく、生きている武術。黛西寺流の稽古は学びに満ちており、技術も礼節も申し分ない女は修行僧たちと足並みを揃えてその修得に夢中になった。

 当時、黛西寺の稽古場に女性が足を踏み入れることはほとんどなかった。黛西寺流は現在よりもなお閉鎖性が高いもので、出稽古などもほとんど断っていたので、僧形でない見慣れぬ者がいること自体も新鮮であったが、それが女であるというのは、ほとんど異常事態であった。

 とはいえ若弟子たちは、全国を旅して各地の古武術に触れてきたという女の披露する演武に夢中になり、黛西寺流の稽古の休憩時間には、逆に稽古をつけてくれと女に頼み込む者が後を絶たなかった。女人が稽古場にいるということを特別に意識する者はほとんどいなかった。

 ほとんど、である。

 女は、特別に器量がいいというわけではなかった。しかし稽古で汗を流して頬が赤らみ、緩く波打つ艶やかな黒髪が乱れると、ひどく男好きのする顔になった。

 壮年の大師範・條厳は、その様子を見ていた。

 女の借りていた部屋へ、夜、大師範がのそのそと入っていくのを、誰も見ていなかった。

 町の人々は、誰も、何も見ていなかった。

 女が抵抗を試みたとするなら、條厳は、押さえつけて痛みを教えるために型を用いたことだろう。

 それは毎日のように続いた。

 稽古場での女の体捌きの鮮やかさは、日に日に褪せていった。

 限界に達して、人知れず町を離れようとした。

 誰かの手で車は動かされ、仕事道具も携帯電話も気付いた時には隠されていた。山を下りて町を歩いていると、必ず誰かがにこやかに声をかける。町のどこにいても常に女は見張られていて、振り切って逃げることは叶わなかった。

 町全体が、彼女を閉じ込める不気味な牢であった。黛西寺の條厳の偏執は蜘蛛の巣のように広がり、獲物を逃がすまいという意志が形になって見えていた。

 警察など言うに及ばず、溌溂として接してくる若弟子たちも、最初のうちは女同士であれこれと笑い合いながら飯の支度をした仲であった庫裏でさえも、例外なく條厳の手先となっていた。

 そうするうちに、女の中にはいつしか命が宿っていた。

 その巡り合わせは幸か不幸か、それがわかって程なく、庫裏にもまた子ができた。

 これに、條厳はさすがに頭を悩ませたはずである。流派としての黛西寺流は強い者たちに免状を与えて受け継いでいけばよいが、権威と権力の纏わりついた黛西寺そのものの跡取り、即ち大師範の座はどうなることか。

 争いを避けるための結論として、條厳は渋々、女に車を返すことにした。

 殺してしまわなかったのは、寵愛した女への、拳の怪物からの最後の慈悲であったのだろうか。

 かくして身重のまま女は町から叩き出され、流れ着いた地方都市の病院で娘を産んだ。

 忌まわしい血が通っているとしても、それは、確かに自らの胎で育った娘であった。その赤子を棄てられないことさえも、彼女にとってはひとつの絶望であった。

 女は娘に、地にどれだけ昏い運命を背負っていようとも、輝かしい希望の光で塗り替えていってほしいという願いを込め、釉【うわぐすり】の字を名として与えたのだった。

 女が武芸の道に抱いていた希望の光はとうにかき消え、ただそれでも、彼女は必死で娘を育て上げた。

 そして少女が十五の年の暮れに、女は過労に端を発する病に倒れ、少女に手紙を遺して息を引き取った。

 秘密は墓場まで持っていくつもりだった。

 ただそうも言っていられなくなったのが、娘が十歳の頃から空手を習い始めていたからである。武術や格闘などふたりきりの家では一度として話題に上ったこともなかったのに、娘が空手をやってみたいと言い始めた日の深夜、血は争えないものかと女は溜息をついた。

 もしも万が一、娘もまた究極の強さを追い求める類の人間になってしまったら。いつか黛西寺流の名に辿り着いてしまうことがあるかもしれない。

 あの町に娘が迷い込むことだけは、避けなければならなかった。

 母を亡くして、手紙を読み、朝日奈釉子は己の命の使い道を定めた。

 黛西寺に呪いあれ。寂れた町に呪いあれ。

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