10
――私は。
――自分こと、天才やと思てた。
可愛がっていた近所の野良猫をいじめていた上級生たちを見つけたのは、小学二年生の頃だった。
『なんしとんボケッゴラアア! オイ!』
ひとりの横っ腹に飛び蹴りを食らわせると同時に、持っていた鉢植えの土をもうひとりの顔面に浴びせかけて視界を塞ぎ、着地すると同時にそいつに回し蹴りを入れた。
きちんと格闘技を学び始めた後の自分が見たら、惚れ惚れするような動きだっただろう。
絵に描いたようなお転婆で、毎日のように男子を喧嘩で泣かせては焼けた肌に生傷を作っていた。
大晦日の格闘技を見て、人を殴り倒すだけで周りのみんなが喜ぶ世界の存在を知るや否や、その後の正月三が日を泣いて喚いて駄々こねて過ごし、松の内が明けると同時に近所のキックボクシングジムに入門した。
そこからの十余年は、駆け抜けるようだった。ただ強くなることが楽しかったし、その先へ向かうにあたって、途上で手に入れた名声や増えていった友達を捨てて黛西寺流という暗がりを進むことは、彼女にとって苦でもなかった。
「オルぁオイカス肘やめェ! 肘ぶち割ったるぞボケお前!」
「いやあ、あたしもお育ち良くないから人のこと言えないけど、女の子の言葉遣いじゃないでしょうよ」
夏目レイチェル知草の抉り取るようなミドルを、朝日奈釉子は正確に肘を突き当てることで殺す。それを繰り返されることで、知草の頭には目に見えて血が上っていた。
だが、それでも、ミドル以外に打てる手はなかった。
長年重点的に鍛えてきた脚技は彼女の誇りであったし、殺人拳としての黛西寺流の中で最も自然に自らのスタイルに組み込めたのも結局は蹴りであった。だがそれ以上に――ここはリングの上ではない。釉子は、打撃による相手の殺害を前提として間合いを管理しようとする。
黛西寺流の奥義のひとつ、『帷子揺し』と呼ばれる寸勁のことを、知草は知っている。指関節を用いた胴部への突きひとつで内臓を忽ちのうちに破裂させる、故に黛西寺流の神髄。
懐に入られれば、間違いなく殺される。
普段、インファイターを相手に間合いの選択権を渡さないために知草が用いるならローキックかカーフキックである。ただ、それを、その痛みを踏み越えて距離を詰められた時、知草には殺人寸勁に対処する術がない。
様子を見るための先手は打てない。必殺の後手に腹を破られる。
知草がスタンドから先手として繰り出せる中で、一撃で意識を奪うことができるとするなら、膝かハイキック――それも黛西寺流の型で二段に分けて脚を揮う『灯籠崩し』に限られるだろう。しかし、大振りの蹴りでこめかみを打ち抜くその構えに入る隙を、朝日奈釉子が見逃すはずがない。必然的に、知草が狙うのは膝を頭部に入れるという手の一択である。
相手の手技を牽制するミドルで削り、痺れを切らして寸勁を使うため距離を詰めてくるその瞬間にカウンターの膝を合わせる。それが、格闘家として組み立てた知草の勝ち筋であった。
ぱぁん、と発砲音に似た音がした。
振った知草の足先が、今一度、釉子の左肘に当たり――そこから、少し、滑った。
靴の脇が、ざり、と。釉子の腕の白い肌を、削る。
――違うやろ。
――私は、今かて、天才やろ!
黛西寺流は、強くなるという知草の目的に、これ以上ないほど合致していた。
強くなる。強くなって、どうする?
戦争のないこの国で、何のために強くなる?
一度稽古に赴いた黛西寺流の聖地・黛西寺の條按から連絡が来た時、知草は、何を言われているのかまるで理解できなかった。その拳が必要だと。黛西寺流に迫る脅威たる女ひとりを殺すのに力を貸してほしいと。
こんな機会は、きっと二度となかった。
――幸せやんか、私。
――ほんまの殺し合いでも天才やて、今、証明できるんや。
――何をビビッとんねん、アホか!
右足が宙を切る。仰向けに倒れ込みながら、知草は上半身を右に捻り、地に右の手の平をついた。
「死ねボケぇッ」
腕のバネで軽い身を跳ね上げながら、知草は構えに入っていた。
黛西寺流奥義、『灯籠崩し』が。
空中で、炸裂する――!
「いやあ、ほんと凄いわ。お姉さん仰天よ」
しかし、蹴り抜いた軌道上に朝日奈釉子の頭はない。絶圏に至った知草がここで空振りなどするはずなく、つまり、釉子が人の理を離れた速度で身を落としたのだ。
体重移動は、黛西寺流の初歩にして極意である。
「がっ」
脚が払われる。アスファルトに顎が叩きつけられた。瞼に落ちていた陽が突如として翳り、圧し掛かるように背後に回られたのを感じた。首が二の腕で圧迫されている――絞められたのだと理解するのに、永遠に似た一瞬を要した。
「が……やあああっ」
藻掻く。指がアスファルトを掻いて爪が割れた。肩が固定されていて、釉子の細くも引き締まった腕を引っ掻くことすらできない。
それは生存本能だっただろうか。リングで知草が幾度となく人にそうさせてきたように、死に物狂いで地面を叩いた。音はぺちぺちと小さく、夏の日の耳鳴りに吸い込まれていった。
「ごめんねえ」
釉子が絞めたのは頸動脈ではなく、気道である。痛みなく安全に落とすために格闘家たちが体系立ててきた絞め技としてではなく、ただヒトという獣が目の前の命を奪うために首を絞めた。
夏目レイチェル知草の、白目を剥いてもうぴくりとも動かない身体が、その結果を物語っていた。
「ふう。ちょっと時間食っちゃったかしらん」
朝日奈釉子は額の汗を拭って立ち上がると、こきこきと肩を回し、ジーンズの尻ポケットから財布を出して道端の自動販売機でスポーツドリンクを買った。
別に、黛西寺流で殺すことにこだわりがあるわけではなかった。
ただ、黛西寺流を滅ぼすために――遣い手たちを殺していく上で最も便利なのが黛西寺流だったから、修めた。
それだけの話なのだった。
ガードレールに腰掛けて、釉子はキャップを捻り、甘くほんのりと塩辛いスポーツドリンクを口に含む。
そしてすぐに吐き出し――頷くように頭を垂れた。
「おや」
ほんの一瞬前まで釉子の頭部があった位置に、後ろから突き出されていたのは、堅く結ばれた右拳。
「なるべく苦しませたくなかったんだけどね」
「ひょろっとした顔でおっかないんだから、おじさま」
それは、瞬間移動でも何でもなく。
ただ、気配を殺して、普通に歩み寄っただけだった。
保竹八理が、涼やかな顔をして頬を撫でながら、そこに立っている。
自らの腋の下を通して、釉子はまだ中身の入ったペットボトルを後ろに投げた。一瞬の隙をこじ開け、ガードレールを蹴って前へ転がり出る。黛西寺流の遣い手に無防備な背中を晒して平然としていられるほどには、釉子は己を過信していなかったのだろう。
背後からの『帷子揺し』で肋骨の隙間越しの内臓破壊を狙わなかったのは、保竹の仏僧としての慈悲であった。彼の静かなる拳は苦痛を与える間もなく須臾にして女の頭部を粉砕できるはずであり、朝日奈釉子は何が起きたのかも知ることなく旅立っていたはずなのだ。
「よもやよもや、保竹のおじさまが不意討ちだなんてね。いいでしょう、結構よ。何人でも、何戦でも。お相手仕ります!」
「僕も、寄る年波には勝てないというやつでね。すまないとは思っているんだよ。ただ、有難いことに僕を慕って頼ってくれる若い人たちがいて、見棄てるに忍びない友がいる」
穏やかに口にしながら、保竹は片足ずつ革靴を脱いで、ブロック塀沿いにそっと置いた。
「お手柔らかに頼むよ」
「それは承りかねるかも!」
厚手の靴下で、地を踏み鳴らす。痩せた初老の男がそうしたとは到底思えない、大木の倒れたような音がした。
その震脚は、呼吸の拍をずらさせるためのもの。釉子が身構えた刹那を突くべく、音に紛れて保竹は後方へ飛んでいた。
足の裏をブロック塀に押し付けて思いきり蹴る。弾頭のように跳んだ男は、目の前のガードレールの上端に伸ばした手指を突き、そこを支点にくるりと空中前転して、踵を落とした。
「ふっ――」
釉子は摺り足で後退し、それを躱す。すぐさま、地に足を叩きつけるなり重心を落として這い蹲った保竹の腕が、釉子の足下を薙ぎ払いにかかった。
軽くその場で跳躍、手を踏みつけてやろうとして――やめる。体重を動かしていたら、死んでいた。横に転がった保竹が中空に手のひらを突き出し、膝で立ち上がりながらその勢いを乗せて勁を放っていた。
釉子はちょうど低い位置にある保竹の顔面に右膝を叩き込む――それは頭突きで、額の硬きに相殺される。ジーンズの脚に保竹の腕が回った。忽ちにして関節を破壊される寸前――釉子はそのまま左足を自ら持ち上げて仰向けに倒れながら、上体では受け身を取り、右足に纏わりつく保竹をアスファルトに打ちつけた。
そのまま、自らの腿と脹脛で首を絞めにかかる。強烈な圧迫が迫る前に、保竹は釉子の脚から手を放して首の脇に射し込んでいた。そのまま釉子の脚を押し広げて脱出する。
「あらおじさまったら、やらしい」
「馬鹿おっしゃい、だァれがあんたなんか」
さすがに息を荒げた保竹は、威嚇する猫のように低い四つん這いのまま、立とうとしない。釉子がグラウンドの攻防を続けるというなら即座に押さえ込みに入り、立ち上がろうとするなら脚を狙うつもりなのだろう。
「あらやだ。うっかり素が出ちゃったわ」
男が唇を歪めると、呼吸が合った。釉子は立ち上がるでも、組みを仕掛けに行くでもなく――その場で、肩を接地させ、長い脚を振りかざした。
脚技の申し子・夏目レイチェル知草が試みた、寝転んだ状態からの大蹴り――『灯籠崩し』。それを、釉子はこのたった数分で飲み込み、自らの選択肢に加えていた。低く地に水平、即ち真横へのベクトルにアレンジした上で。
「いいじゃないの。今初めて、おじさまときちんと喋った気がする」
「……生意気ねえ、小娘ッ」
鼠を捕らえんばかりの勢いで、保竹は地を蹴った。釉子の必殺たる脚を受け止め、ぐいっと横に引いてマウントを取りにかかる。眼鏡はとうに吹き飛んで、視界は濁り霞んでいた。
燦々と降る初夏の日中の光の下は、男の目には、金色の稲穂の揺れる田園のように見えた。
そんな光景の中を、若き日の保竹は駆けていた。
先を行く條厳が、振り返った気がした。
――ねえ、大師範……厳ちゃん。
――よくもまああんた、化け物を作ったもんだわね?
――あんたのヤンチャの尻拭いなんて、そりゃあ、あたしは慣れたクチだけど?
――それにしたって、それにしたってよ。
弧を描く形で振り回した左腕から、力は抜け切っている。保竹八理の心筋はきりきりと駆動していた。そこから勁が生じて、骨を伝わり、老いを欠片も感じさせない鋼鉄の肘は重力を纏って墜ちる。
黛西寺流奥義、『夕月落し』。
「っ」
しかし――ついに、保竹の肘が釉子の顔面を捉えることはなかった。
「『宴席荒し』」
痩せた男の腹を、女の膝から奔った天を衝くような勁が打っていた。
強烈に跳ね上げられた保竹を、今度こそ釉子は両脚で挟み込む。
両脚で保竹の胴を挟み込んだまま、釉子は息を止め、腹筋の全てを引き絞って身体を捻じった。
保竹八理の頭部を、そのままの勢いで――ガードレールに叩きつけるために。
ぐぎゃ、と嫌な音がした。保竹の白んだ唇の隙間から、涎が一筋つつと垂れて、薄く光っていた。
「おじさま。大師範の右腕であり頭脳であったあなたがいたせいで、黛西寺流の種はこの二十年で大きく広がりました」
ジーンズの脚や尻の砂を手で雑に払いながら、朝日奈釉子は、白い陽を浴びる保竹八理を見下ろしていた。
「その罪は贖ってもらったから、あとは、どうか安らかにね」
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