第16話
その目はたしかに俺を見ていた。にらんでいるように見えたが、表情は一瞬にして変わり、怪訝そうな面持ちとなった。ひどく疑問を抱えているような、そんな目だった。
「なにそれ? どういうこと?」
愛宮は目を細めて俺を見ている。振り返ると、後ろに窓があった。そこから日の光が入ってきていた。愛宮の瞳はこれに反応していたのだ。カーテンを閉めようかと思ったが、やめた。愛宮の視線が俺をとらえて逃がさなかった。
「言った通りだろ。俺は文学賞に作品を出さない」
自分でなにを言っているのか、判然と分かっていた。だが、こんなことを言ってなんの得があるのか。むしろ損が回ってくるのではないか。
俺は小さな精神で言葉を語っている。駄々をこねる子どもと同じくらいの小さな精神。自分でも分かる。全く同じだ。
「なに言ってるの夏川。急にそんなこと言いだして。びっくりする」
「冗談に聞こえるなら、お前はやっぱりどこかずれてるんだな」
愛宮の瞳が小さく奥に引いた感じがした。俺の言葉に驚いたような、傷ついたような、そんな反応だった。驚いたのが伝わった。傷ついたのが見て取れた。どこまでも自分が醜いことを知った。
愛宮はそれでもうろたえない。俺の言葉程度ではその精神に影響はない。こいつが崩れるときはいつだろう。それを願っているわけではないが、気になった。凡人の俺の言葉は、こいつに響いていないかもしれない。そんな勝手な想像が余計に俺を苛立たせた。
「夏川先輩、どうしたんですか? なにをそんなに怒って—―」
「小説を書いたことのない早瀬には分からない」
早瀬は俺の後ろに座っていた。視線を向けることなく、背中で早瀬に言葉を吐いた。驚いたのか、恐れたのか、早瀬の呼吸が一瞬途絶えたのが分かった。
「ちょっと夏川、そんな言い方はないでしょ」
「愛宮、お前だって分からないだろ。俺の気持ちは」
きっと、愛宮には分からない。
「なに? ちゃんと言ってよ」
愛宮には分からないから、しかたがない。それなのに。
「才能に恵まれて、何度だって勝利の快感を味わってるお前に、俺の敗北感や劣等感なんて分からないって言ってんだよ」
それなのに、吐き出した。愛宮にこんなことを言ってどうなるのか。なにもない。むしろ失うもののほうがある。失って、傷ついて、傷つけて。俺はこの場で損しか生み出していない。
「……は? なにそれ。私がなんでも持ってるっていいたいの?」
「だってそうだろ。実績が語ってるだろうが。お前には凡人の感情なんて一生理解できない。だから恋愛も書けないんだよ」
言ってしまった。なにもかもがいらない言葉だった。傷つける言葉を選んだ。傷ついた人間の痛みが分からないような、愚かな言葉の数々だった。
恋愛が書けないのは、愛宮にとって痛みだ。そこを突かれれば血が滲む。怪我をする。それを分かっていたはずの俺が、唯一の弱さを知る俺が、傷つけてしまった。
愛宮を見た。もはやそこに怒りなどないように見える。冷ややかで光のない目が、今度こそ俺をにらんでいた。
「……あっ、そう。じゃあもう夏川だけやめたら? 私と早瀬さんだけで進めるよ。やる前から負けを認めるなんて、男らしくないね」
愛宮は淡々と言い放った。 それを聞いて、俺はこの場から立ち去ることを決めた。
「最初から男らしさなんてない」
もうこの場にはいられない。自分が
「二人でやってくれ」
俺は共同部屋から飛び出した。
「夏川先輩!」
早瀬が珍しく大きな声を出した。そんな希少な状況に見向きもせず、俺は廊下を早歩きで進んだ。勢いよく歩いていると、自然と音が強く響く。異変と感じたのか、天野先生が宿泊部屋から顔を出した。
「どうした、夏川」
今はこの人が教師であることすらも飛んだ。そんな身近な存在の声に、俺は一瞬立ち止まった。
「すみません。やっぱり俺には文学賞なんて無理ですよ、叔父さん」
「学校では先生と呼べ」
「ここは学校じゃないですけどね」
「校外の行事でも同様だ。それより、どうしたんだ?」
「ちょっと独りになりたいので、外に出てきます」
「おい、信也……夏川」
天野先生はそれ以上、俺を止めようとはしなかった。俺が望む孤独を優先してくれたのかもしれない。本当にこの人は、どこまでも俺たちの創作への精神を念頭に置いてくれている。
民宿から出て、田舎道を歩いた。どこまでも田んぼが続いている。畑も点在していた。人通りがほとんどなく、夜になったらここら辺は怖いだろう。だが、日中は誰もいない空気を味わえていいのかもしれない。俺は孤独を吸い込んだ。
田んぼと畑を眺めながら歩いていると、小さな橋を見つけ、その下には川が流れていた。水の流れる音を聞きながら、欄干にもたれかかって空を仰いだ。
「なにしてんだ、俺」
吸い込んだ孤独を吐くように、独り言を呟いた。この空に比べれば、俺の言葉などちっぽけだった。当たり前である。空は広い。比較対象を間違えている。こうして自分をなにかと比較したからこんなことになったのだ。
愛宮と自分を比べた。それも、比較対象を間違えている。最初から分かっていたはずだ。あいつが中学時代に文学賞を受賞したときから分かっていた。比べる相手ではない。それを認知できていたのに、なぜこうして飛び出してきているのだろう。
喪失感。虚無感もある。自分の言動で失って、空っぽになった自分を寂しく感じている。
「夏川先輩」
俺を呼ぶ声が聞こえて、そっちに目をやると早瀬がいた。
「早瀬……」
「すぐ見つかりました。あんまり遠く行ってなくてよかったです」
「こういうときって『探しましたよ!』って言われるのがセオリーだよな。俺、そんなに歩いてなかったのか」
「ええ、本当にすぐ見つかりました」
なんだかそれはそれで寂しい。順当な展開からは外れている。もう少し遠くまで歩いてみればよかった。田舎の道なので、あまり遠くまで行くと帰ってこれなくなりそうでビビってしまった。だって目印とか全然ないもん。絶対に迷子になるよこれは。
「早瀬、なんで俺を探してくれたんだよ」
「そりゃ、心配だからです」
きっぱりと言ってみせた。なにこの子、めちゃくちゃ俺のこと想ってくれてるじゃん。
「俺はさっき、お前に相当ひどいことを言った気がする」
「はい、ちょっと傷つきました」
「だよな」
微かな反省を浮かべた。早瀬に乱暴な言葉を吐いたのは、本当によくなかった。早瀬はなにも関係がない。それなのにあんな言葉を吐いてしまった。
「謝ってはくれないんですか?」
憚ることなく早瀬が言った。こんなにもはっきりと謝罪を求めてくるのはなんだか新鮮である。なかなかない経験である気がした。
「多分、悪いとは思ってる。でも、なんかまだ謝罪ムーブできるほど精神が安定してない」
早瀬の言葉に遠慮がなかったので、こちらもはっきりと述べた。幸いなことに早瀬は微笑をたたえていた。
「じゃあ、まだ謝らなくてもいいですよ」
「助かる」
「夏川先輩は、文学賞が嫌いなんですか?」
えぇ……。謝罪はいらないとか優しいこと言ってくれたのにめちゃくちゃ嫌なところ突いてくるじゃん。
「嫌いというか、怖いのかもな」
「怖い?」
「ああ。中学の頃、何回も落ちてるんだよ。今回の文学賞」
早瀬が黙ってうなずいた。
「だから、逃げてるんだろうな」
俺は俺の言葉に哀愁を感じていた。なにかに敗北を悟った人間は皆、こんな感じではないだろうか。
「愛宮先輩は何度も受賞してるって言ってましたよね? もしかして、愛宮先輩も関係してます?」
「まあ、間接的にな。あいつが受賞するたび、自分の才能のなさを感じた」
「なるほど、それでですか」
早瀬は全てを理解したようだった。納得して飲み込んだようだ。
「なんか、情けない話だな。もう、やめよう」
俺は欄干にもたれかかるのをやめて、歩き出そうと足を動かした。いつまでもここで立ち止まっていることに、違和感を覚えたのだ。
「やめなくてもいいですよ」
早瀬が俺の腕を両手で強くつかんだ。この場から立ち去ろうとしていた体は、早瀬によって止められた。
「え?」
「私、夏川先輩のこと、まだめちゃくちゃ好きです」
早瀬の瞳に光が映っていた。その輝きと同じくらいの強さで「好き」の言葉が飛んだ。
「いきなりどうした?」
「だから聞きたいって思ってます。夏川先輩の内面を。もっともっと」
柔い力だった。振りほどくことは簡単にできる。だが、すぐにこの場から立ち去らない自分がいる。なぜだろう。この微かな力は、俺をこの場に留めさせる。
「……書きたい」
できることなら、俺だって書きたい。それが無謀でも、傍から見ればありえないほど役に立たなくても、俺は書きたい。
「俺だって、愛宮みたいに書きたい」
なぜ俺は、天才じゃないのだろう。なぜ俺は、愛宮じゃないのだろう。
「でも、それは無理なんだ。圧倒的な差があるんだ。俺がそれを超えようと挑むのは無謀なんだ」
「夏川先輩……」
「ごめん、早瀬。こんな話、やっぱり聞かせるもんじゃない」
早瀬に陳謝した。こんな話を後輩に聞かせるものではない。冷静になった俺は、もう少し田舎の道を歩くことにした。早瀬の力は簡単にふりほどけた。
「夏川は、小説家になってるんじゃないの?」
振り返ると、愛宮がいた。今この状態でこいつの顔を見るのは辛い。
「夏川にはマインドが足りない」
「愛宮……お前まで来たのか」
「夏川は小説家になってしまってるよ」
その冷たい視線は、当然ながら俺を許してはいないように見えた。許してもらおうなどとはまだ思えない。俺はまだ、謝れる精神ではない。
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