第14話
*
初夏が降りている。体を動かせばじんわりと汗が滲む季節の様子に、五月を受け入れられない体が反応しては、その差異に自分の内心は驚くばかりだった。カレンダーは五月に入ったばかりで、連休を控えている。
校舎の中庭にある巨大な木は、まるで俺たちの青さをうつしているかのように葉を染めていた。青春が中庭の真ん中にうつっている。俺の青春はどうだろう。中庭の木に誇れるような青春を送れているだろうか。
青すぎる春。そう書いて青春。俺はまだ未熟で、どうしようもなく青い。そんな俺の青春は、輝いているのか。輝いてはいない気がする。地味で灰色。そんなイメージである。俺に春は来るのか。春色になるのか。曖昧な未来だった。
「こんにちは」
早瀬が最後に部室へ到着した。俺と愛宮は既に部室にいた。俺は読書をしており、愛宮は小説のアイディアをスマートフォンにまとめている。
「お疲れ、早瀬さん」
「お疲れ」
俺と愛宮が早瀬にあいさつを返す。早瀬が着席すると、部室は再び静かになった。この静寂を壊さず、読書を続けたいところだったが、俺にはやるべきことがある。ごほんと、咳ばらいを一つした。
「ちょっと聞いてほしいことがある」
俺が言うと、愛宮と早瀬がこちらを向いた。早瀬も読書を始めようとしていたらしく、テーブルには文庫本が置かれていた。愛宮はアイディアのひねり出しが一区切りついたようで、スマートフォンから視線を離した。
「どうしたの? なんかあった?」
愛宮が尋ねる。
「顧問のな、天野先生が前々から計画してたことがあるみたいなんだが……」
俺が喋り出すと、部室のドアがノックされた。ドアの向こうに大きいシルエットが見える。話を中断させられ、微かに声が乱れていた。大きなシルエットに返事をするとき、一瞬声が裏返った。
「どうぞ」
ドアが開かれると、そこに立っている人物に驚いた。文芸部顧問である、天野先生が立っていた。天野先生は、めったに部室に顔を出さない。いつも職員室でコーヒーを飲んでいる。そんなイメージが強いので、少々驚いてしまった。
ぼさぼさの髪の毛をぽりぽりとかきながら、気だるそうに立っている。あくびを一つかいて、若干のすり足で部室へと入ってきた。
「やあ、文芸部諸君」
歩くたびに靴の擦れる音がする。天野先生の体格は細身で、顎には若干の髭が生えている。だらしない格好に見えるので、天野先生のことを陰で笑う奴も多い。だが、俺はこの先生のことが嫌いじゃない。感覚的な話だが、天野先生とは波長が合う。会話のテンポというか、内面にある根本的な性格というか。特別に仲がいいわけではないが、とにかく俺は、天野先生のことは嫌いではない。
「天野先生、今ちょうど伝えようとしていたところです」
「ああ、そうなのか。じゃあ俺から伝えるのは面倒だから、夏川、頼む」
「分かりました」
中断された説明をつなぐように、天野先生の代弁を行うこととした。当の本人は部室の奥からパイプ椅子を一脚用意して、俺の隣に座った。
「そういえば文芸部は三人になったんだな。そりゃ、よかった」
俺が再び説明をしようとすると、また天野先生の言葉に遮られた。それに気付いたのか、申し訳なさそうな視線が俺に送られ、説明の続きをするようにうながされた。
「それで、天野先生が前々から計画していたことなんだが——」
愛宮と早瀬がきょとんとした顔で俺を見つめている。どういう反応が返ってくるのだろう。
「文芸部で、合宿を行うのはどうか、とのことだ」
愛宮が途端に目を輝かせた。反応が分かりやすすぎる。子どもか、お前は。
「合宿!? なにそれ、楽しそう!」
愛宮がかなり興奮している。やはりこいつはこの手のイベントには食いついてくる。天野先生のほうを見ると、にやりと笑っていた。不敵な笑みに見える。なにを思ってその笑みを浮かべているのか。
興奮する愛宮の横で、早瀬が挙手をした。
「どうした? 早瀬」
早瀬は愛宮に比べて冷静だった。合宿と聞いてはしゃぐ様子もない。そういえばこいつはこういう性格だった。対して愛宮はうるさい。ずっと一人でなにかを喋っている。本当にうるさい。
「運動部とかが練習のために合宿をするとかならあると思うんですけど、なぜ文芸部が合宿をするんですか? なにか特別なことでもやるんですか?」
俺自身も深く内容は知らない。先日、天野先生に呼び出されて、急に合宿の話を提案されたばかりだった。これ以上は俺の口から説明できそうにないので、天野先生のほうを
「まあ、文芸部が合宿をするななんてなかなか変な話だろう。校長にも変な顔をされたもんだ」
「ではなぜ合宿を?」
早瀬が続けて尋ねた。
「俺の知り合いが民宿を経営していてな。かなり田舎なんだが、飯が美味い。俺は底の飯が食いたい。が、一人で行くには気が引けるし、教師というのは忙しいものでなかなか行く機会が取れない。合宿なら合法で旅行できるだろ?」
この人、マジか。
「いや、そんな理由だったんですか。天野先生が旅行したいだけじゃないですか」
俺が思わず言葉を挟んだ。天野先生は変わらずにやにやと笑っている。なるほど。先ほどからのこの笑みは、自分が旅行するための算段が上手く行っていることに対してのものだったのだ。
「でもさ、ちょっと楽しそうじゃない? 私は行きたいけどなぁ、合宿」
愛宮はようやく冷静さを取り戻していた。俺も合宿に反対をするつもりはない。早瀬はまだ首を傾げているようだが、参加をしないわけではないだろう。
「今度の連休の三日間を使っての合宿だ。合宿では、毎年の夏に開催されている中高生向けの文学賞『植木青春文学賞』の応募に向けて、構想を練ってもらう」
その刹那、体が硬直した。体が拒否反応を起こしているのか。それともただ久しぶりに聞いたそれに驚いているのか。いや、違う。これはトラウマだ。よみがえっているのだ。あのときの記憶。あのときの感覚。全てを思い出して、恐怖している。
植木青春文学賞。俺が中学生のころに応募して、一次選考すら通らなかった学生向けの賞だ。同時に、愛宮の存在を知った賞でもある。
一次選考、落選。そんな言葉が
「川——夏川」
「あ、はい」
天野先生が俺を呼んでいたようだった。遅れて返事をすると、三人が心配そうに俺を見ていた。
「大丈夫か? 俺の説明、聞いてたか?」
「すみません。大丈夫です」
天野先生は「そうか」と呟き、話を続けた。
「愛宮はまあ、この賞には慣れているな。今年も受賞できるように尽力してみてくれ」
天野先生も、愛宮の受賞歴はよく知っているらしい。愛宮は小説においてこの学校ではちょっとした有名人なのだった。たった今、それを思い出した。
「愛宮先輩、この賞に慣れてるって、どういうことですか?」
早瀬は愛宮のことを知って日がまだ浅い。受賞歴については知らないようだった。
「私、中学生のころからこの賞で受賞してるの」
愛宮が自慢げに言うと、早瀬は強い関心を持ち始めた。
「先輩に関心を持つのもいいが、早瀬。お前も腕試しと思ってちゃんと書くように」
天野先生が早瀬を鼓舞した。早瀬はうなずいて、気合を入れていた。
「そして、夏川」
「はい」
天野先生が俺を呼んだ。俺にもなにかしら言うのだろう。けれど、俺は愛宮のように才能はないし、早瀬ほど強くない。そんな俺がもう一度、賞に作品を応募するなどできるのだろうか。
「お前もやるには受賞を狙え。部長の意地を見せてやれ」
「はい……分かりました」
やる気がないわけではない。挑戦心がもうない。小説を書くという行為を、賞に向けることができそうにない。
俺はきっと、合宿でただ時間を浪費するだけだ。賞に向けて構想を練っても、賞を意識してしまえばそこで終わりだ。俺は多分、合宿でなにもできない。
合宿の日はすぐにやってきた。集合は民宿の最寄り駅。田舎であるせいか、少し涼しい。空気も澄んでいる。行き交う人はまあまあいる。自然が目立つ地域だった。
重い荷物を背負っているので、肩が疲れてきた。太陽が眩しく降り注いでおり、体力がじわじわと奪われる。
「夏川、もう着いてたのか」
後ろから天野先生の声がした。後頭部をかきながら、俺の元に歩いてきた。
「先生こそ、早いじゃないですか」
「まあな。顧問が一番最後じゃ示しがつかん」
会話を交わしたあと、俺たちは無言のまま景色を眺めていた。緑であふれている光景がなんとも美しい。背中に汗が滲んできた。が、それも気にならないほどの絶景だった。
「夏川、なんかあったのか?」
突然、天野先生が尋ねる。
「え、なんでですか?」
「いや、合宿ってなったら子どもは普通はしゃぐだろ。お前、めちゃくちゃ静かだぞ」
「それは早瀬もでしょう」
「いや、あいつの表情は明るかった。お前は暗い」
天野先生は人の機微に鋭い。表情の変化をよく見ている教師である。
「俺が静かに見えるのは愛宮と比較してのことでしょう? あいつが子どもなだけですよ」
「愛宮と比較しているのは、俺だけじゃないだろう」
内心がざわついた。本当にこの人は、どこまで人間の内面を見通しているのだろう。
「べつにライバル意識を持ったりするのは構わない。だが、それだけに固執してはだめだな。お前はお前の良さを、この合宿で見いだせたらいいんじゃないか」
それでも、表面上だけでも、俺は認めたくなかった。認めるわけにはいかなかった。
「あいつのことをライバルだなんて思ってませんよ」
「そうか。ならいいが」
また無言が流れた。静寂の中に風が吹いている。俺は一つ、気になることを聞いた。
「なんで急に、文学賞の応募なんですか?」
「急に?」
「去年は合宿もしなかったし、文学賞の応募も課さなかったじゃないですか。どうして今年から急に?」
天野先生は一つ息を吐いた。俺はまずいことを聞いたかもしれないと、少し怖くなった。
「合宿は言った通り、俺が旅行したいからだ」
「まあ、そう言ってましたね」
「文学賞についてだが……」
俺は天野先生の表情をうかがった。なにも読み取れなかった。
「今年は、やる気のある生徒がちゃんといるだろ」
やる気のある生徒。そうだ。去年までいた文芸部の先輩たちは、小説に対してどこか適当で、執筆をまともにしていなかった。部誌も刊行しなかった。
「春の部誌を見て分かったんだよ。今年の文芸部はやる気にあふれているってな」
天野先生はそう言うと、あくびをかいた。それでも俺の内面にある引っ掛かりは払拭できなかった。俺の問題は、文学賞そのものにある。それがどうにかできないと、俺は、どうしようもない。
五分ほど経って、愛宮と早瀬が到着した。愛宮の私服は相変わらず洒落ていた。早瀬も落ち着いた色合いのファッションだった。
「天野先生、ここから宿まではどう行くんですか?」
愛宮の気分が高揚している。問いかけに嬉しさが滲んでいる。
「バスに乗る。一時間に一本しか走ってないから、乗り遅れないようにもう向かうぞ」
合宿はこうして、始まりを告げた。
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