第12話

 早瀬のほうを見ることができなかった。唐突の告白。駅の音が静寂へと変わる。人混みの騒々しさも、電車の発車メロディーも、全てが静寂へと変わった。俺は一つも音を拾えなかった。


 騒がしい静寂が音を取り戻すと、俺はようやく、早瀬のほうを見ることができた。早瀬はうつむいていた。駅構内にある活気は、早瀬を包むように存在している。早瀬の告白は、喧騒に紛れていた。


 ずっと前から。たしかにそう言った。聞き間違いでも幻聴でもない。その言葉は今この瞬間にも耳朶じだに響いている。早瀬がうつむいたまま顔を上げない。その様子が、この状況を嘘ではないと確信させた。


「え……いや、え? その……なんだ……唐突だな」


 嘘ではないことが分かっても、混乱はしていた。内心は心地よく乱れていた。動揺の中に一本の微かな嬉しさがあるように思えた。その一方で驚愕もあった。誰かに告白をされるというのは、無意識から滲み出て、完全な意識に影響を与えるのだろう。


 俺は意識の中で、早瀬の告白を噛みしめてしまっていた。誰かに好かれるというのは、反射的に嬉しくなるものらしい。


 駅に電車の音が響いた。何番線のどこかからまた次のどこかの駅まで、電車が動き出す。俺の口からは混乱しかもれていない。早瀬がようやく顔を上げた。瞳が乾いているのか、何度も瞬きをしていた。


「えっと、なんで俺なんだ? 俺と早瀬は……じゃなくて、俺と早瀬さんは——」


「早瀬でいいです」


 早瀬が素早く挟んだ。


「俺と早瀬は、昨日出会ったばかりだろ? そんな相手に恋なんてできるもんなのか?」


 早瀬は罰ゲームのようなことをやらされているのではないか。状況は嘘でないと思ったが、そう思ってしまうくらい巧妙に構成されたものである気がした。例えば今、周囲を見回したら、早瀬と俺のことを遠くから見ている奴がいるのではないか。それくらいこの告白は突発的に思えた。


 俺の言葉に対して、早瀬が大きく首を振った。大げさなくらいの所作。俺に真意を伝える気が満々であることが分かった。


「私、夏川先輩のこと、前から知ってるんです」


 早瀬がそう紡いだ。小さく弱い声だった。駅の喧騒に紛れてかき消されそうだったが、俺は丁寧にその声を拾った。


「そうなのか……? すまん、俺は早瀬のことを全く知らないんだが」


 記憶を辿って、思い出そうと努力した。が、記憶のどこにも早瀬はいない。俺が早瀬との大事な出来事を一方的に忘れているのか。早瀬は、どう辿っても初めての存在でしかなかった。


「覚えてなくても無理ないです。中学の頃の話ですし。私、今と同じで全く目立ってない人間だったし」


 早瀬と俺は同じ中学だったらしい。やはり思い出せない。記憶に早瀬はいない。なにか少しでも接点があったわけではないようだった。俺はなにも思い出せなかった。


 早瀬がまだうつむいた。顔を上げていてほしかった。俺のことで悲壮感を味わってほしくない。早瀬の中で、俺は特別な存在なのかもしれない。そんな早瀬に、俺はどんな対応をするのが正解なのだろう。なにが最適解なのかだろうか。


 こんな状況になって、目の前で異性が悲しんで、なにも解を見出せない俺は男として失格なのではないか。恋を知らない愛宮のことを言えたものではない。俺だってこんなにもまだ未熟だったのだ。


 早瀬になにかを言おうとした。言葉は浮かばなかった。早瀬はこのあと泣いてしまうのだと思った。俺はなにもできない。なにかをできる資格もない。悲しむ早瀬を見ていることしかできない。


「……ださい」


「え? ダサい?」


 え、なに急に。辛辣じゃない? 今の俺のこと言ってるの? いや、まあ、たしかにダサいか。


「夏川先輩の髪の毛ください」


 早瀬の声は依然、小さかった。が、放たれたその言葉にはとんでもない破壊力が込められているようだった。先ほどまであった俺の温もりのある内心は、一瞬にして砕かれた。同時に、また混乱した。


「……は?」


 なに? どういうこと? どういう流れでそうなったの? 急になにを言っているのこの子は。髪の毛くださいって言ったよね。俺の聞き間違いじゃないよね。はっきりと言ったよね。髪の毛くださいって。禿げろってこと? そういう暴言? 早瀬のこと記憶にないからって、今、遠回しに暴言吐かれたの?


「夏川先輩の体の一部が欲しいです。私、ずっと夏川先輩のこと見てて、もう我慢できなくて。体の一部ください。髪の毛じゃなくてもいいです」


 早瀬はまくし立てるように早口で述べた。声は変わらず小さかった。だがその声の中に熱があり、なんとしても俺から髪の毛をむしり取ってやろうという信念がうかがえた。


 ちょっと待って。早瀬ってこんな奴だったの? あんなに落ち着いていて引っ込み思案な感じだったじゃん。こんなギャップ知りたくなかったんだけど。告白されて正直ちょっとだけ嬉しかったけど、こんな奴なのは意外なんだけど。


「待て待て待て。なにを言ってるんだお前は。落ち着け、早瀬。急にどうしたんだ!?  唐突になにかに取り憑かれたのか!?」


「取り憑かれてません。むしろ夏川先輩が私に取り憑いてください。そしたら私と永遠に一緒ですよね?」


「バカなのかお前は! 早瀬、いいから落ち着け!」


「落ち着けません。やっと夏川先輩を二人だけの空間になったんです。もう私、止められません」


「どこが二人の空間なんだ! がっつり駅構内だぞ、人混みの中だろうが!」


 駅構内でこんなやり取りをしているのは目立つ。周囲の視線が気になる。誰もこの状況を告白シーンだとは思わないだろう。先ほどまで青春だったんですけど。学生が青い春を謳歌している瞬間だったんですけどね。もう全くそんな空気じゃないね。どう見てもメンヘラ女から健全な男子が逃げようとしている図だよね。


「なあ、状況が飲み込めないから、また明日にしないか? この話」


 俺は提案をした。折衷案ではない気がするが、今は早瀬に気を遣える余裕はない。


「明日になったら髪の毛くれますか?」


「いや、それは約束できん」


「なんでですか? それを許さない彼女的な存在が夏川先輩にはいるんですか?」


「いや、別に誰とも付き合っていないが」


 しまった。反射的に誰とも付き合っていないことにしてしまった。ここで愛宮と付き合っている嘘を利用すれば、この状況を変えられたかもしれない。


「先輩は今、誰のものでもないんですね。じゃあ私のものになりましょう。大丈夫です。幸せにします。私が働くので夏川先輩はずっと家から出ないでください」


「なんで将来的な話になってるんだ? っていうかお前と結婚する前提みたいになってるじゃないか! やめろやめろ!」


「そんなに私じゃダメですか? こんなに愛しているのに……」


「なんか怖いぞお前」


 実際、今の早瀬は怖い。目が本気だ。目が血走っているように見える。そこまでしてなぜ俺にこだわるのか。


「夏川先輩がこの高校に進学したことを知ったから志望校はここにしましたし、わざわざ職員室まで行って夏川先輩のクラスを突き止めましたし、文芸部の部長って知ったから部室にも来たんですよ?」


「怖い怖い! お前、もはや好きとか通り越して犯罪だろ!」


「ストーカーみたいになってるのは分かってます。でも好きだからしかたないんです。私の先輩への想い、分かりました?」


「なんでそんなに俺にこだわるんだよ。他にいい感じの男子がいるだろ」


「夏川先輩の普通の感じがいいんです。特別イケメンってわけでもないその普通の感じがたまらないんです」


 なんか軽く悪口じゃない? まあたしかに俺は地味で普通だが。それは認めるにしても、普通のルックスの人間に一目惚れすることなんてあるのだろうか。かなり珍しい気がする。


「まあ、なんだその、とりあえず続きは明日聞くから。もう今日は帰ろう。な?」


「じゃあ、最後に一つだけ」


 もう、早く帰りたい。疲れた。早瀬の熱がこもった小声に圧倒され、俺は疲労困憊だった。


「なんだよ?」


「愛宮先輩は、夏川先輩にとって、ただの文芸部員ですか?」


 なにも言えない。愛宮との関係を言ってしまえば、少しは楽になるだろうか。愛宮と付き合っている嘘を言うのか、疑似交際である真実を言うのか。そのどちらを取るかで、早瀬の対応も変わっていく気がする。


「どうなんですか?」


 早瀬が返事を催促する。この疑問は、今ここで慌てて氷解させていいものではない。ここで答えて間違えた場合、愛宮にもなにかしらの影響があるかもしれない。


「それについても、また明日だ」


 俺が静かに答えると、早瀬はようやく諦めてホームへと降りていった。電車がまもなく来るようだった。早瀬とのやり取りに疲れた俺は、自販機でジュースを買い、喉を潤した。


 早瀬を文芸部へ歓迎したのは、とんでもない間違いだったのではないか。そんな疑問すら浮かんだ。スマートフォンにメッセージの通知があった。早瀬からだった。いやだ、もう開きたくもないんだけど。恐るおそるタップすると、


『明日もよろしくお願いしますね』


 至って普通の文面があった。早瀬はただの大人しい人間だと思っていたが、あんな性格が潜んでいたとは。俺は怖くなって震えた。季節は初夏だというのに、背筋が冷たかった。


 早瀬のことを、愛宮に伝えるべきだろうか。愛宮は早瀬のことを可愛い後輩だと思っている。その状況を壊してしまうのもなんだか違う気もする。


 俺は一人で悩み、帰路を辿った。電車の中で早瀬の文面を眺めていた。こんな落ち着いた文面からは想像のできない性格に、これからどんな対応をすればいいのか。答えは見つからない。溜息を吐いたが、電車のアナウンスでかき消された。





 翌日の部活動は、いつも通り始まった。俺が一番に来て鍵を開け、愛宮が二番目に来た。


「今日も早瀬さん来るよね?」


 愛宮は嬉々としている。


「ああ、その、愛宮。早瀬のことなんだが——」


 俺が言った刹那、ドアが開かれた。早瀬がそこにいた。


「お疲れ様です」


 早瀬の声は相変わらず落ち着いていて、小さい。昨日の件が嘘のように思える。俺が見ていた幻だったのだろうか。そうだったらいい。だが、今でも鮮明に昨日の早瀬を思い出せる。やはり昨日の出来事は、夢でも幻でもないようだった。


「こんにちは、早瀬さん!」


 愛宮が快くあいさつを返した。早瀬は愛宮に小さく会釈をした。そんな早瀬を、愛宮は笑顔で迎えている。


「あの、私、部活動の前に話があって……」


 早瀬が言った。俺のことをまっすぐに見つめていた。愛宮が「どうしたの?」と尋ねる。嫌な予感がした。


「夏川先輩って、彼女さんとかいるんですか?」


 はっきりと、早瀬は尋ねた。この場で。この状況で。これは早瀬の策略なのだろう。愛宮が目の前にいるこの場で、その疑問をぶつけることによって、俺と愛宮の関係を判然とさせる意図。それがひしひしと感じられた。


 静かな部室。震えている早瀬の肩。それを抱き寄せるくらいの男気があればよかったが、昨日の一件でそれは憚られた。


 早瀬の瞳が潤んでいるように見えた。が、恐らくそれは気のせいだろう。その双眸は、俺をとらえて離さなかった。

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