第3話

「カップルっぽいことをしよう」


 その日の愛宮はどこか焦っているように見えた。表情は真剣であるが、その奥には間違いなく焦りがある。


 俺が部長を務める文芸部に、愛宮は入部した。それからの日常は淡々と変わり始めていた。愛宮の入部以降、俺と彼女は付き合っていることになったので、まず周囲からの視線が変わった。


 俺のことを羨ましがる男子生徒。愛宮を祝福する女子生徒。いや、男子生徒よ。この交際は大していいものではない。愛宮にいいところがあるとすれば比較的に整っている外見と、小説におけるセンスだけである。その他は全てが終わっている。


 飯の食い方は文明を知らない原始人並みに汚いし、その他にも女として終わっているポイントがたくさんある。疑似的に付き合っているとはいえ、こいつを恋愛対象として見ることはできない。だから男子生徒よ、羨むな。こいつを避けろ。


「なんだよ急に。っていうかカップルっぽいことをする前に、お前は部誌に載せる小説をさっさと書け」


「筆が進まないんだよぉ~。全然いい文章が浮かばない~」


 駄々をこねている子どものように言葉を発し、愛宮は机に突っ伏した。焦っているように見えるのは部誌に載せる小説が進まないかららしい。


「お前が書いた時点でいいものになるだろ。気楽に書けよ。たかが部誌なんだし」


「いや、小説を書くならどの媒体だろうと魂をこめなければ」


 愛宮はそう言うが、変わらず机に突っ伏したままだった。まるで説得力がない。俺は自分の小説を書き進める。今回の部誌に載せるのはやはり得意な恋愛小説。というかそれしか書いてない。


 自分の小説を書きながら、愛宮の様子を微かに見る。こいつが本気を出して小説を書いたら、今回の部誌は大変なことになるのでないだろうか。俺はなんだかそれが怖かった。こいつが本気を出したら、元から存在感の薄い俺の小説がもっと存在感の薄いものになる。溜息を吐いた。愛宮は相変わらず机に顔面をこすらせていた。


「そもそもお前は今回どんなのを書こうとしてるんだよ?」


「いやぁ、それはねぇ。ちょっと恥ずかしくて言えないというか」


「なんだよそれ。言っておくが、あまりにも過激なやつは部誌に載せられないぞ」


「いやいやいや! べつにそんな際どいのは書こうと思ってないよ! ただちょっと、まあ、ちょっとした官能シーンを書いてみたくて……」


 愛宮は顔を赤くさせてうつむいた。視線を一切こちらに向けない。自分が言ったことに恥ずかしくなっているようだった。発言の自爆をしていた。


「お前、そんなことで赤面するなよ。まだ書いてもないだろ」


「書いてもないし、多分書けないよ。官能シーンに至るには恋愛も多少書かないとだめだろうし」


「お前、恋愛書けないもんな」


「……うるさい」


 愛宮は小声でそうつぶやき、俺から視線をそらした。こんなことで恥ずかしくなるものなのか。まだ学生とはいえ、高校生ともなれば無駄にそういった知識が蓄積されるものではないのか。


 天から舞い降りたように一つの可能性が浮かんだ。愛宮の羞恥心の正体が分かった気がした。


「もしかして、愛宮、お前、恋愛経験がないのか?」


 愛宮はビクッと肩を震わせた。机に突っ伏したままプルプルと上半身を震えさせ、赤くなった顔面のまま、叫び出した。


「夏川! 君はなんてデリカシーがないんだ全く! っていうか恋愛小説が書けないって言ってた時点でそんなの察しろよバカヤロー! 君は恋愛小説が書けるんだろ! それなのになんでこんな純粋な女心を砕くようなことを言うんだ! バカ! このバカ!」


 愛宮は俺の胸をポコポコと叩く。全く強くない柔い力だった。いや、でもなんか何回も殴られていると痛くなってくる。


「分かった、すまんすまん。ちょっと気になって聞いただけなんだ。悪かった」


「もうっ! 夏川は恋愛小説が書けるのに女心が分からないんだ。この鈍感ノンデリ男め」


 落ち着いた愛宮は席に着き、ノートパソコンに向かい始めた。が、またすぐに突っ伏した。視線は俺ではなく真下に向いている。


「夏川はどうなのさ?」


「なにがだ?」


「夏川は恋愛経験、あるの?」


 即答はできなかった。頭の中で今までの恋愛を思い返していた。何度か異性と付き合ったことはある。が、どれも大して長続きしない恋だったことを強く覚えている。


「まあ、人並みにはある」


「ふーん。人並みね」


「なんだよ」


「初恋は? いつ?」


 初恋。それがいつだったのか、俺にはよく分からない。何歳で恋を覚えて、人並みに恋をするようになったのだろう。


「覚えてないな。だいたい中学生くらいじゃないか?」


「へぇ」


「お前、話題を振っておいてその反応はないだろ」


「覚えてないんだ。初恋」


「まあ、はっきりとは分からないな」


 愛宮がこちらを見た。俺も執筆中のノートパソコンから目を離し、愛宮のほうを見る。視線が合うと、愛宮は眉間にしわを寄せ、こちらをにらんだ。


「いや、なんだよ」


「全く書けそうにない!」


 怒りに満ちたように見えるその表情は、ただの八つ当たりのようだった。今日の部活が始まってから、愛宮はおそらく一行も小説を書いていない。本当に筆がのらないのだろう。


「無理に恋愛を書こうとするからそうなってるんじゃないのか? べつのジャンルで書いてみたらいいだろ」


「むむむ。まあ、でもその通りだよね」


 愛宮はしばらく考える様子を見せた。なにも言葉を発さず、ただ黙って真っ白な画面のノートパソコンを見つめている。


「ああ、なるほどね。そうかそうか」


 黙ってなにかを考えているかと思えば、次は独り言を発し始めた。そうするなり、ブツブツとなにか小声で唱え始める。そして、なにも書かれていないであろうノートパソコンの画面に、勢いよく文章を打ち込み始めた。キーボードを叩く姿を見て、感性のおもむくままにピアノを弾くピアニストを思った。


 その姿に圧倒されたが、俺も自分の小説を進めなければならない。二人して無言で小説を書いた。地味な部活動だった。


 俺が執筆をひと段落させたころ、愛宮はまだ書いていた。完全下校時刻の午後六時半が近づいていた。愛宮は書くことに集中している。こういうとき、邪魔をしてはならないのだろう。俺は愛宮の執筆がひと段落するのを待った。


 しばらく経って部室の時計を見た。午後六時二十五分。もうそろそろ俺も帰りたい。そう思い、ゆっくりと席を立って愛宮の背後に回った。文章が大量に打ち込まれているだろうノートパソコンを覗くと、不意に愛宮のキーボードを叩く手が止まった。


「疲れた!」


 俺は一歩後ろに下がり、「お疲れ」と愛宮に声をかけた。すると愛宮は、


「もうあと少しで完成だから、続きは明日にでも書こうかな」


「そうだな。もう下校時刻だし」


 ノートパソコンを覗いたとき、微かに書かれている文章が見えた。が、それだけでは愛宮の天才っぷりは判断できない。愛宮の小説をじっくりと読んでみたい。そう思った。


 俺は愛宮の小説を読んだことがない。中学生のころに愛宮の存在を知った俺だったが、彼女の小説を読んだことはないのだ。正直なところ、当時は愛宮との才能の差に嫉妬していたので、彼女の小説を読む気にはならなかった。


 けれど今は、純粋に愛宮の小説を読んでみたいと思えている。その才能がどれほどのものなのか、俺は知りたい。


「夏川、帰ろう」


「ああ、そうだな」


 二人で、静かに暗くなりかけている校門をくぐった。愛宮は俺の右隣を歩いている。その横顔はどこか満足そうで、そんな愛宮を眺めている俺も、なぜだか満足した気分になれた。


 季節は春の終わり。桜の花はとっくに散っているが、外気は春の温もりがある。初夏はまだ先。空は夕日に覆われており、光が伝う雲と空の間は紫色に見えた。


 俺と愛宮は最寄り駅に向かっている。歩幅は小さく差異があり、愛宮は遅れている足取りを細かく俺に合わせていた。


「夏川はさ、今まで経験してきた恋で印象に残った恋はないの?」


 愛宮が唐突に尋ねた。俺は歩きながら考える。印象に残った恋。思い出になるような恋をしていない気がした。答えることが難しい。


「印象に残った恋はないな」


「そっか」


 愛宮の横顔はどこか寂しそうに見える。気のせいかもしれない。夕方はなにを見ても寂しく見えるものなのだろう。俺はふと思ったことを続けた。


「まあでも、俺たちのこの偽の恋は記憶に残るだろうな」


「え?」


「偽の恋だが、お前は今までのどの女子よりも強烈な印象だからな」


「そう……なんだ!」


 愛宮は笑った。俺はなんだか恥ずかしくなった。自分らしくないことを言ってしまった気がする。


「あ、カップルっぽいこと今、できてる」


 ふと愛宮がつぶやいた。なにに対してそれを言っているのだろう。一緒に帰っていることを言っているのだろうか。それならば、たしかにカップルっぽいことを達成している気がする。


「まあ、それっぽいといえばそれっぽいな」


「夏川、あのさ」


 愛宮が立ち止まる。歩幅が完全にずれた。俺の後ろに愛宮がいる。後ろを振り返ると、夕日がまぶしかった。俺は目を細めて愛宮を見た。


「手……つないでみる?」


 愛宮がそう言った。その表情は見えない。全ては夕日がまぶしいせいだった。

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