天才ヒロインの彼氏は俺になりました

ナオキ

第1話

 天才は様々な分野である程度、存在する。どんな分野でもその道で活躍する者が天才と呼ばれる傾向にある。


 俺は天才ではない。その道を極めようと努力し、活躍を夢見て日々自分を高めてきた。けれど、俺という存在は天才と程遠いことを知った。挫折したのだ。天才と自分との距離があった。


 努力だけでは叶わない夢がある。それを知った。天才は努力だけではなく、一定以上のセンスや感性がある。俺にはそれがなかった。俺は、天才ではなかったのだ。


 *


 文芸部。その部には俺、夏川信也なつかわしんやしか部員がいない。俺が一年生のころに入部し、そのときは三年生の先輩が数人はいた。が、先輩の受験に向けての引退と同時に、部員は俺のみとなった。二年生となった俺が部長であり部員。部室はいつだって静かである。


 ゆったりのんびりとした部室での時間。それを楽しんでいた俺の元に、それは突然やってきた。


「失礼! 入りまーす!」


 勢いよくドアの開く音がした。心臓が飛び跳ねた。机に突っ伏していた俺は思わず姿勢を正し、ドアのほうを見た。


「ここが文芸部? なんだ、なんか普通だね」


 女子生徒。長い黒髪を揺らし、俺の領域である部室に入ってくる。俺は、この人物を知っていた。彼女はこの学校で一番有名といっても過言ではない、目立っている人物だった。


愛宮奏あいみやかなで……なんの用だよ」


 俺が名を呼ぶが、愛宮は部室を構わずウロウロと歩き回り物色している。


「へえ、部室には本があんまり置いてないんだね。これだったら図書室に行ってたほうがまだ本に触れあえそう」


 愛宮には俺の声が聞こえていないらしい。俺の声を無視しているのか、本当に聞こえていないのか。どちらなのだろうか。どちらにせよ、なんだかムカつく。俺は少し大きめの声を出した。


「愛宮! なんの用で来たんだよ」


 俺が言い放つと、愛宮は少し肩をビクつかせ、こちらを向いた。無視しているわけではなかったらしい。


「いきなり大きい声を出さないでよ、びっくりするなぁもう。私はただ入部しようと思って来ただけなのに」


 愛宮の右手には入部届があった。


「いや、俺に入部届を持ってきてどうするんだよ。そういうのは顧問の先生に持っていくんだろうが」


「あれ、そうなんだっけ。ああ、たしかにそんなことを言われたような……」


 首を傾げて視線を斜め上に向ける愛宮。噂通り少し抜けているところがある。そして外見は整っている。猫のような丸い瞳に、さらさらの長い黒髪。白い肌には輝きがあるようにも見えた。


「っていうか、なんでこのタイミングで入部なんだよ? 今さら文芸部に入る意味、お前にはないだろ」


 愛宮は、小説家としてこの学校で有名である。中学一年生の頃に初めて書いた小説が学生向けの文学賞で最優秀賞を受賞。その後も同じ賞で何度も受賞していた。俺はその輝かしい経歴を知っているので、愛宮をひどく尊敬する一方で、やり場のない怒りを覚えてもいた。


 だからその愛宮が文芸部に入ろうとしているのかが謎だった。彼女はもう小説の全てを知っている。功績だってある。文芸部に入ったところで、生ぬるい素人の文学を知るだけではないのか。


 愛宮は俺の問いかけに笑っていた。俺は自分が面白いことを言ったのかと錯覚したが、その笑みはすぐに止まった。いや、急な真顔が怖い。


「私の小説はまだまだだよ。まだまだってことにようやく気が付いたから、少しでも小説に触れられる環境を増やしたいんだ」


 愛宮は真剣な眼差しでこちらを見ていた。


 窓から風が入ってくる。時期はまだ春に近いように思えた。今は五月だ。もうそろそろ夏がくる。暑さがやってくる。


 風で愛宮の黒髪が揺れた。もう一度真剣な愛宮を見た。こいつは小説に関してはなんでもやってみせる変な人間なのだろう。いや、変なだけではない。こいつは小説において、間違いなく、天才なのである。


「まあ、入部するのはべつにいいよ。俺が決めることじゃないしな」


 文芸部員が増える。それは決して悪いことではないが、俺はどこか胸がざわついていた。愛宮奏が入部する。部員が増えるというより、愛宮が入部するというその事実が、俺の中にある胸のざわつきの正体なのだろう。


 俺だって、愛宮のようになりたかった。誰よりも小説に打ち込んでいたつもりだった。同年代の誰よりも早く小説を書いていたつもりだった。その努力や日々は、あっけなく散ったのだ。愛宮奏という壁にぶち当たって散ったのだ。


 俺は愛宮のように天才ではない。表面上では小説に全てをかけているように見えても、結局は愛宮以下なのである。それでしかない。俺は愛宮にはなれない。天才にはなれない。


「君は普段、なにを書いてるの?」


 愛宮が唐突に尋ねてきた。無意識に愛宮と自分を比べて、自分の作品について述べるのが恥ずかしくなった。


「いや、べつに大したものは書いてない。っていうか、書けてない」


「教えてよ。君はなにを書いているの?」


 愛宮が俺に顔を近づける。いや、近い。近すぎる。めちゃくちゃなんかいい匂いするし。なんだこれ。これが女子の香りか。めちゃくちゃ甘い。


「いや、その……恋愛小説……」


「恋愛小説!?」


 途端に愛宮が大きな声をあげた。近かった距離が少し離れた。俺は驚愕する愛宮に驚いた。


「そんなに驚くことないだろ。ありきたりな恋愛しか俺には書けないし」


「いやいやいや。恋愛小説って奥が深いよ。いいね、すごくいい」


 愛宮はどこか考え込む様子を見せ始めた。小さな声でなにかブツブツと言っている。唱えていると言ったほうが意味合い的に近い気もする。呪文でも発動しているのか。なにか言いながら考えている。俺はそんな愛宮をじっと見てしまっていた。


 顎に手を当て、部室内をウロウロしながら、なにか言っている。こういうところが変だし天才っぽい。これを演じていないということが愛宮のすごいところなのかもしれない。


「よし、私は決めたよ」


「なんだよ、ずっとブツブツ言ってたけど」


「私はね、文芸部に入るよ」


「おお、まあ、俺はべつに構わないけど」


「そんで君、私と付き合おう」


 は?


 口に出していなかった。口に出しているつもりだった。俺は状況が理解できていなかったのだと思う。だから声が出なかったのだ。何度でも言おう。俺は全く状況が理解できていなかった。そして声が出なかった。


「は?」


 ようやく声が出た。なんだよこれ。なんだよこの状況。なんで俺、交際を申し込まれてるの? 目の前にいるこいつは変というかバカなの? 天才ってやっぱりこういう感じなの? おかしいだろ。めちゃくちゃ変じゃんこの女。


「いやぁ、探してたんだよ。君みたいな人」


 愛宮は続けた。


「私はさ、恋愛小説が全く書けなくてね。君みたいに恋愛に長けた人を探してたんだよ。私と付き合ってよ。そしたら私も恋がなんたるかを知ることができそう」


「いやいやいや。待てって、落ち着け。俺はお前が思ってるほど恋愛に長けてるわけじゃない。っていうか、そこまで恋愛をしてきたわけじゃない。小説だから恋愛事が表現できてるってだけだぞ」


「謙遜するねぇ。恋愛小説を書ける人は恋を深く知ってるんだよ。でないと書けないよ。妄想だけで表現できるほど、小説は甘くない」


 愛宮は目を輝かせていた。俺はこのあとなにを言えば、愛宮の間違った思考回路を払拭させられるだろう。もうなにを言っても愛宮は止まらないのかもしれない。俺はどうすればいいのだろう。


「そんなに断ろうとするということは君、もう既に恋人がいるのかな? いいねぇ。やっぱり恋を知ってそうだねぇ」


「いや恋人はいないが……だからといってお前と付き合おうとはならん!」


「じゃあ嘘の交際ならどう? 恋人っぽいことをするけど、実際は付き合わない」


「いやなんか、それはそれで面倒な気が……」


「そうかい。じゃあしかたないね」


 愛宮は溜息を吐き、ようやく諦めた様子を見せた。


「君が私の願いを叶えてくれないのなら、私は文芸部に入らない」


 それはべつに構わない。俺は面倒ごとに巻き込まれないようで安堵した。


「そうか。じゃあ、このまま俺は一人で文芸部を続けるよ」


「いいのかな? それで」


 愛宮はにやりと笑った。口角の上がり具合がとんでもなかった。


「さっき、文芸部の顧問が言ってたんだよ。このまま部員が増えなければ文芸部は廃部だってね」


 このパターンは知っている。めちゃくちゃ卑怯な手法である。愛宮はただひたすら憎たらしい笑みを浮かべている。男だったら思わずぶん殴っていた。


「私が入れば文芸部は存続。それに私が入ったら知名度も上がって部員も増えるだろうね。さあ、どうする?」


 俺はこの場所——文芸部が好きである。廃部。なんともいやな響きだ。俺はこの場所を守りたいのだろう。だから今、葛藤している。文芸部を守るなら、この邪悪極まりない小説家、愛宮奏の脅しにのらないといけない。


 俺は決心した。


「俺はお前とは付き合わない」


「ほほう。じゃあ、文芸部は終わりだね」


「だが、疑似交際なら手を打とう」


 俺は文芸部を守ることに決めた。この場所を守ることに決めた。目の前には新しい部員である愛宮奏がいる。こいつは天才である。そして、性格が終わっている。

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