第9話 ほんの少しの、特別

 月曜日の朝。

 こはるは、教室のドアを開けると、つい黒川の席を探していた。


 ……いた。いつもの場所。

 相変わらず無表情で、イヤホンを片耳に挿して、窓の外をぼんやりと眺めている。


(でも、先週よりちょっとだけ……目が優しい気がする)


 こはるが席に着くと、黒川がそっとイヤホンを外して言った。


「……お前、土曜からずっと“既読スルー”な」


「えっ」


「昨日のノートの写メ。送っただろ」


「ご、ごめん! 見てたのに返してなかった……!」


「……ま、返事なくてもお前なら読むだろって思って送ったけど」


「え?」


「お前、テスト近いと集中力ゼロになるからな」


「……見抜かれてる」


 こはるは苦笑しながらも、胸がじんわりと温かくなるのを感じた。

 言葉はぶっきらぼうなのに、ちゃんと“見てくれてる”。

 それが嬉しくてたまらなかった。



 昼休み、いつもより廊下が騒がしい。


「やば! 今日、購買の焼きそばパン秒でなくなるって!」


 こはるも友達と一緒に、パン争奪戦に参加しようとした。


 だけど——


「……!」


 廊下の角で誰かとぶつかりかけ、バランスを崩す。


「あ、す、すみません……!」


「前見ろ、鈍くさ」


「え……?」


 見上げると、そこにいたのは黒川だった。


「……ほら、これ。もう買っといた」


「え、なんで……って、焼きそばパン!?」


「お前が“今日こそ食べる”って朝言ってたろ」


「そ、そんなの覚えてたの……?」


「……忘れるほど鈍感じゃねぇよ」


 黒川はそう言って、そそくさと自分の教室へ戻っていった。


 残されたこはるは、焼きそばパンを胸に抱えて、しばらく動けなかった。


(……これって、特別、だよね)


(たぶん、黒川くんは気づいてないふりしてるけど……)


(私は、ちゃんと気づいてるから)



 その日の放課後。


 こはるは自分から、黒川の隣の席に座った。


「ねえ」


「ん」


「……ありがと。さっきのパン」


「別に」


「ううん。すっごく嬉しかった。ほんとに」


「……なら、ちゃんと全部食えよ。残したらぶっ飛ばす」


「はいはい、黒川先生」


 目が合って、ふたり同時に、少しだけ笑った。


 言葉にしなくても、気持ちは伝わる。


 それは恋になる前の、いちばん大切な時間のような気がした。



 帰り道。夕焼け空に浮かぶ雲が、ほんのりレモン色に染まっていた。


 となりを歩く彼の横顔を、ちらりと盗み見て思う。


(“好き”って、たぶんこういうこと)


(ただ、隣にいられるだけで、胸がいっぱいになる)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る