何もない夜

真花

何もない夜

 別に性欲なんてのは時間潰しの便利な道具でしかないし、そんなことよりも時計が夜の十時を回っているのに今日に特別な何かが何もないことの方が問題なんだ。焦る。このまま今日が終わってしまうってことに散歩にずっと連れて行って貰えない犬のように落ち着かない。自分が一つ消えてしまうような予感が胸の底に生まれて、それが沼になって俺を足元から沈ませようとする。だからとにかく外に出る。出て、ミカに電話をかける。「今から行くから」「え、明日も仕事だし」「いいから行くから」「……分かった」自転車に飛び乗って、宵っぱりのセミの声を切り裂いて、人のいない住宅街を駆け抜ける。十時の呪いが振り払われる肌の感覚に、ギラギラした目のまま口許をわずかに緩ませる。

 ミカのアパートのドアの前でもう一度電話を鳴らす。「開けて」「分かった」すぐに切る。チャイムは押したくない。ここに俺がいることを他の誰にも知られたくない。ミカは俺の恋人ではないし、そうなる予定もないし、かと言ってセフレでもない。俺にとって必要なときにだけ訪ねる。一方的で不均衡な斜面のような二人だ。ミカは多分、俺に恋愛感情を持っている。だけどそれを確かめたことはない。ドアが開いて、普段着のミカが現れる。化粧もしていない。髪もボサボサで最低限の身だしなみを割っている。でもだからと言って問題は何もない。俺が今ここにいて、ミカがいればそれで十分だ。「部屋汚いけど」「いいよ」中に入る。服が脱ぎ散らかされていたり、モノがごちゃっと端っこでまとまり切っていなかったりして、生活が沈殿している。付けっ放しのテレビの音は小さくて、それでも何かを騒いでいる。ミカは多分、夜を一人で過ごせる。テレビのノイズで埋めることが出来る。俺はそこに割って入った。

「お茶飲む?」「飲む」麦茶を出されてひと息に飲み干す。いつものようにベッドに腰掛けて、いつものようにタバコに火を付ける。ちゃぶ台の上には俺のために用意された灰皿があって、前回来たときの吸い殻がまだ残っている。構いやしない。全部構いやしない。ミカが俺の横に座る。カピバラに似ているが、あそこまで面長ではない。美人とはとても言えない。「何かあったの?」「何もなかった」「何もなかったの?」「何もないからここに来たんだ」ミカは現代美術を前にした成金みたいな空っぽの顔をする。「何もないのに来るって、私を求めているんだね」「ちょっと違う」「でも求めるでしょ?」「それはそうだけど」俺はタバコを揉み消して、その手でミカの頬に大切なものを扱うように触れる。セックスがしたくてしょうがない訳ではない。でも他にすることがないから、ミカの唇に自分のものを重ねる。それは、つまらない会話を封じる意味もある。ミカの体をまさぐれば、俺はちゃんと興奮するし、ミカもそうだし、行為は問題なく進む。ミカが声を上げて、俺が汗をかいて、行くところまで行く。これを愛し合うと表現するのは気持ちが悪い。性欲は心にとって外付けの欲望のように俺は感じているし、これが愛ではなく欲であることは明らかだ。ミカが今何を考えているのか分からないし、これが会話なら分かり合えるかも知れないのに、と言ってもミカと話すことはないけど、俺は俺で勝手なことを考えている。とてもとても愛の行為ではない。話すことの方がよっぽど愛だ。これは欲望の――射精の感覚に思考が麻痺する。

 汗が混じるのは嫌いじゃない。むしろ好きだ。体を抜いて、ミカの横に転がる。クーラーの風を俺達の熱が押し返して蒸し暑い。テレビが急に存在を主張する。俺の中のカレンダーの今日の日付のところに丸が付く。途端にここにいる意味が失われて、さっさと帰りたい。ミカが「会えて嬉しい」と俺の耳に風鈴のように囁く。「そう?」「そうよ。そうに決まってる」俺は帰りたい。ミカが俺の手を探して繋ぐ。まあ、それくらいはいい。「明日も仕事なんでしょ? 早めに帰るよ」「それはそうだけど。もう少し話そうよ」そう言われても話すことなんてない。大学の話をしてもしょうがないし、ミカの仕事の話を聞いてもピントが合わない。二人の未来は存在しないし、だとしたら話すことなんて何もない。「ミカは何か話したいことがあるの?」「あ。ミキだって何度も言ってるでしょ? 誰? ミカって」「ごめん。ミキはあるの? 話したいこと」「別にないけど。特別なものは。雑談しようよ」「雑談って意味ないでしょ」「意味のないもので時間を埋めるのがいいんじゃない?」「俺は意味のないもので埋まる人生は耐えられない。何もないのに耐えられないのと同じくらい耐えられない」「何もないよりはいいんじゃないかな」「そうは思えない」「きっとね、何もないのに耐えられるようになって、意味がないものを楽しめるようになるのが大人になるってことじゃないかな」俺が大人ではないと断定されて胸がこごるがそれをサッと横によける。「じゃあ、俺は大人にはならない。一服したら帰る」俺は起き上がってタバコに火を付ける。「しょうがないねぇ」ミキは服を着る。俺はテレビをぼうっと眺めて、そこには何もなくて、これも意味がないものを楽しむ訓練の道具なのだろうな、タバコを灰にして、帰る準備をする。

 ミキは玄関まで見送りに来て、俺はもうキスなどしたくないから「じゃあね」と言ってすぐに外に出た。ドアが完全に閉まったことを確認して停めてある自転車に向かう。夜が肌にひた、と張り付く。セミがまだ鳴いている。行きの勢いのある運転とは違って、ゆったりと漕いで自分の部屋に向かう。またミカのところに来るのだろうか。今はもういい、だけど同じように何もない一日があれば来るのかな。あれ? ミカじゃない。……ミカでいいや。


(了)

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何もない夜 真花 @kawapsyc

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