其の名を呼んでは為らぬモノ

穂積瑞浦

忌み名の怪異と胡乱な怪人

 何の変哲も無い、とある高校にて、誰が言い出したのだろうか、こんな噂が広まっていた。

 五芒星を紙に描き、その紙に向かって特定の言葉を口にすれば〝キイナ様〟と呼ばれる存在を呼び出す事が出来る。

 これによって、何が起こるのか、その一切は不明瞭である。

〝キイナ様〟とは、漢字に起こして何と書くのかは、口伝えに風聞されて来たもの故に分からない。

 よくある肝試しの為の噓、冗談の類に尾ひれが付いて、学校中に広まってしまった、そんな一笑に付す程度の風の噂、それが〝キイナ様〟であった。

 だが、自身を誇示する為か、はたまた相当な物好きか、この様な噂を実行してしまう者はどの時代にも存在する。

 こうして、すっかり夜の帳が降りた午後六時頃、未だに陽光を残す様な仄明るい藍色の空が広がる天蓋の下、薄明の月光が差す件の高校の教室にて、女子生徒が四人、机を囲んでいたのだった。

 四人の女子生徒は一つの机を囲んで椅子に座っており、机の中央には大きな五芒星が描かれたA4サイズのノートを広げている。

 不気味な影が走る教室は、一人の女子生徒が持つスマートフォンのライト以外に電灯が点いていないので、暗澹とした暗闇が部屋の隅を染めて、妙に目を引いてしまう不可視を創り出していた。

「こんな事、やってなんか意味あんの? てか、学校じゃなくてもよくない?」

 いよいよかと言う所で、唐突にスマートフォンを持った女子生徒が口を開く。

 その声色は、恐怖や焦燥と言うよりも、当惑や苛立ちに近い、平たく言えば鬱陶しがっていると言える語調である。

「前野、そんな事言わないでよ。こう言うのは、学校でやると雰囲気出るんだって。どうせ、なんも起こんないんだからさ、そんなカリカリしない」

 この儀式をやろうと言い出した張本人だろうか、長髪の女子生徒が嫌にニコニコしながら窘めるのを、前野と呼ばれた女子生徒は手を振りながら、溜息を吐いて言葉を発する。

「はぁ……宇都宮の奴、今度会ったら、ぶっ飛ばすからな……」

 眉間にしわを寄せて発するとげとげしい語気の言葉には、心の底からの恨みや苛立ちが込められている様に思える。

 幾つか他愛の無い言葉を交わした後に、長髪の女子生徒がパンパンと手を鳴らして場を制した後に、

「じゃ、始めまーす」

 そう楽しげに、それでいて軽薄に、明朗な言葉を発して、その後に長髪の女子生徒に続く様に、四人が声を揃えて、例の符丁を諳んじる。

 ――〝キイナ様、キイナ様、お越しください〟

 呆気ない程に短く、驚く程に簡単な符丁を四人全員が声立てて発すれば、蝉の鳴く声の響く、時間すらも凍り付いた様に静寂を満たす教室に空虚に木霊する。

 その木霊する詠唱にも似た発声を返す者は無く、次の瞬間に訪れるのは、驚愕してしまう程に静まり返った暗闇の教室。

「……やっぱね。マジで時間の無駄だった……」

 何も起こる事は無い。

 前野が心底面倒そうな声を上げたのが、静まり返った室内に響くのが、四人の耳朶を打つだろう。

 この現代社会において、巷に遍く都市伝説やオカルト的な噂など、この程度のものである。

 肝試しにすらなりはしない、子供騙しの絵空事。

 前野が、苛立ちを隠そうともせずに、パタンとA4ノートを閉じる音〝だけ〟が響く。

 場が完全に白けてしまったのか、一縷の呼吸すら憚られる程に、四人は一言も発さない上に、妙にその場を動かない。

 ――いや、余りにも〝静か過ぎる〟

 詠唱の前後、響いていた蝉の音、教室に備え付けられた時計の音、衣服の擦れる音や呼吸音に至るまで〝何も無い〟のだ。

 耳鳴りがしてしまう程の静寂。

 それは最早、静寂ではない。完全な無音の空間へと様変わりしていた。

 一気に異様な空気に包まれて、身動ぎ一つも取れない前野が唾と息を吞んで、煌々とした月光すらも差さない教室を少し見渡して、キリキリとした緊張に堪え兼ねたのか、焦燥を口に出す。

「――皆、どうしたの? ちょっと……黙ってないで……」

 少しの手の震えと不快に拍動する心臓が主張する恐怖と焦燥を振り払って、前野が急いで立ち上がりながら、黙りこくった三人をライトで照らし出す。

 その三人の姿は、以前のものと変わらない。

 だが、その表情は蝋で塗り固めたかの様に硬直しており、感情や思考の一切を読み取る事は出来ない。

 その姿に、前野が刹那の安堵を覚えたのも束の間か、女子生徒の一人がその表情を大きく歪ませる。

 いや、それは〝歪ませている〟のではない。

 言うならば〝歪まされている〟のだ。

 その女子生徒の顔面、筋肉と皮膚の間を何か、ヒルかナメクジと形容出来る、這う様なモノが夥しく蠢いて、滅茶苦茶に動き回っているのを、表情を歪ませたと勘違いしただけに過ぎない。

 何かに吊り上げられる様な笑顔や引っ張られる様な憂い顔を見せながら、それでいてどこか無表情であり、気味悪く顔が波打つ女子生徒を見て、前野は焦って椅子を倒しながら、後退りしてしまう。

「……なに……え?」

 不気味に顔を波打たせながら、無表情でこちらを見つめている三人を見て、前野は動揺に尻餅をつくのだが、スマートフォンのライトがあるにも関わらず、徐々に徐々に視界がブラックアウトして行く。

 視界が黒に覆い尽くされる刹那、瞼が気持ち悪い程にビクンと痙攣した感覚を覚えて。


 走る、走る、走る。

 人々に平等に在る筈の刹那を置き去りにして、枯渇した酸素を求める様に拍動する心臓を高く鳴らして。

 火急の事態が故だろうか、外靴に履き替える事も無く、上履きのままの状態で、校舎の外縁を囲う高い塀を外側からなぞる様にして、制服姿の女子高生が脇目も振らずに疾駆していた。

 何かに追われる様にして、その女子高生は高校の玄関から校門を抜けて、焦燥のままに疾走を続けていた。

 もう既に闇夜に落ちた薄暗い住宅街に、上履きが鳴らす妙に場違いで間抜けなペチペチとした靴音が響き渡る。

 そう、この女子高生は前野と呼ばれた女子高生であった。

 恐怖と焦燥、当惑と混乱に顔面をクシャクシャに歪めながら、高速で背後に流れて行く眼前の景色を気にも留めず、最早、視界に映っている筈の眼前の情景すらも見えていない様だった。

 そんな極限の状態だったからだろうか、前野は進行方向から歩いて来る長身の男に気付かなかった。

 全くの速度の減速も無く長身の男に突っ込んだ前野の体は、ドンッ、と言う人体を激しく打つ音を鈍く立てて、受け身をろくに取る事も出来ずに尻餅をついて、後方に倒れ込んでしまう。

 本来ならば、転んだ衝撃が体を貫き、凄まじい激痛に臀部の辺りがジンジンと痛みを発して来る筈であるが、現状を考えれば、その様な痛みを気にしている暇は無いと言うものであろう。

「――失礼、ご無事でしょうか?」

 倒れたままの姿勢で座り込んで、少しの逡巡に時間を費やしていた前野に、強くぶつかったにも関わらず倒れる事も無く、超然とその場に立っていた長身の男が懇切丁寧と言った様子で手を差し伸べて、穏やかな語調で語り掛けて来る。

 その男を一言で表すならば、紳士然とした長身の男である。

 男はキザに漆黒の中折れ帽子を深くかぶっており、その中折れ帽子が覆い隠すのは、煌々たる月光に照らされて暗く輝く短い白銀の髪。

 美麗に整った顔貌に嵌め込まれた、視界の全てを掌握している様な切れ長の瞳は、鋼や氷を思わせる寒々とした紅の眼光を放っている。

 線の細い印象を与える長身瘦躯に、膝丈程度の前を留めていない漆黒のロングコートを羽織り、その内に純白のシャツを着ている。

 堂々とした立ち居振る舞いをする男を地面に立たせる両脚を包むのは、フォーマルな黒のチノパンツであり、例によってか、良く磨かれた黒のブーツを履いていた。

 全体的な印象で言えば、時代錯誤の古臭い紳士を気取った変人、と言ったものだろうか。

 姿勢の関係から、見上げる様にして男の顔を視界に映した前野は違和感を覚える。

 月明かりも届かず、帽子で影になっているにも関わらず、妙に透徹し切った光を放つ赤い瞳が、自ら光を放っている様に思えてならないからだ。

 一目見るだけで〝異質〟な何かを覚える男の射殺す様な眼光に狼狽えて、返答もままならない前野が、蛇に睨まれた蛙の様相を呈していると、

「ハハハ、何だか警戒されてしまっている様子で、全く悲しいですね」

 そう口の中だけに響かせる様に苦笑し、差し伸べている右手を引っ込めて、男はコンクリートの地面に縫い止められた様に動かない前野を心底心配している様子で、膝を曲げて語り掛けて来る。

「随分と急いでいたご様子でしたが……何か用事でも? それならば、走った方がよろしいのではないでしょうか? あぁ、やはり倒れ込んで体を痛めましたかね? そろそろ、何か答えていただかないと、全く心が痛むと言うものなのですけれども……」

 濁流の様に捲し立てる男の飄々とした言葉に気圧されたのか、はたまた喋る気力を失っているのか、黒い瞳をキョロキョロと泳がせて、眼前の女子高生が一向に口を開かないので、男は顎に右手を当てて、どうしたものかと思案していると、ヨロヨロと前野が立ち上がる。

「あぁ、立てるではありませんか。全く、全く、心配しましたよ」

 どこか生気が無く、まるで幽鬼の様にフラフラと立ち上がる女子高生を視界に映して、満足そうに声を発する男。

 厚い鈍色の暗雲が、煌めく半月の形を三日月の様に覆い隠して、月光の光度を食んでしまうのと同時、前野が乾いた唇で縁取られた口を重々しく開く。

「……すみません、ずっと走ってて、少し疲れちゃって」

 ほとんど消え入る様に掠れた声を発し、魂の底から吐き出されたと錯覚してしまう程に重々しい溜息を一回だけ吐いて、前野は男を半ば無視して歩き出そうとすると、

「――ならば結構。それで、後ろの人はお友達ですか? 先程からこちらを見ていますが」

 ドクンッ、と前野の心臓が一際大きな鼓動を打つ。

 最早、眼前の男にも聞こえてしまったのではないか、と思う程に脳に響く心臓の拍動のままに、前野はパッと後ろに振り返る。

「……荒戸」

 そこには、前野と同様の制服を身に纏った女子高生が立っていた。

 前野は忌々しそうに、それでいてどこか哀切を伴った声で、その女子高生に対して、荒戸と声を漏らしていた。

 荒戸と呼ばれた女子高生は、不気味な程に静かで、それでいて気持ちが悪い程に生き生きと血走った瞳で、前野の姿を睨んでいた。

 いや、睨んでいたと言うのは表現として適切では無い。

 あえて言葉にするのなら、前野と言う個人を見ているのではなく、両目の焦点を合わせず、どこも見ていないのだが、たまたま前野が視界の大部分を占めているだけ。

 その証拠に、この女子高生の焦点は刹那にグルグルと動き回っており、両目の動きはバラバラに泳ぎ回っている。

 一気に、空間の緊張が高まる。

 ここから一歩でも動けば、この張り詰めた緊迫の線に絡め捕られて、そのままバラバラに引き裂かれてしまうのではないかと言う漠然とした感覚。

 明らかに〝異常〟である。

 ブルブルと蠢く様に小刻みに震える荒戸(と思われる人物)は、男の姿を見るなり両の目を大きく見開いて、吊り上げる様に口角を引き上げる。

 ――次の刹那、荒戸の両眼がゴロリと眼窩から転がり落ちる。

 不快な水音を立てて、ゴロリと荒戸の両の目が転がり落ちて、深淵を映した様な空の眼窩の奥から、ドス黒い血液に似た粘度の高い液体と共に、ヌルリと触手が這い出て来る。

 コロコロと鼠色のコンクリートを転がる湿った二つの眼球を荒戸はグチュッと言う音を伴って踏み砕いて、前野との3メートルはあろう距離を詰めようと歩き出そうとした。

 ――正しくは、歩こうとした〝だけ〟であったが。

「――右に避けてくださいますか?」

 この〝異質〟な剣吞を意にも介さず、鉄線にも思える緊迫の糸を悠々と切り裂いたのは、白銀の月を思わせる件の男であった。

 澄んだ氷塊を思わせる透き通った声音を響かせて、男はバッと黒のロングコートを翻すと、腰の右側面に黒のベルトで固定してある、拳銃を携帯する為のホルスターの留め具を外して、素早く黒鉄の拳銃を抜き出す。

 神速、そう形容するに他は無い。少なくとも、右に倒れる様に避けた前野の瞳には拳銃に右手を掛けた男の腕の動きを視界に映す事は叶わなかった。

 ――次の瞬間、パァン! と言う耳を劈く轟音を響かせて、黒鉄の拳銃はその一連のブローバックを終えていた。

 分かり切っていた結末か。

 いや、正確に眉間を撃ち抜かれてしまった荒戸だったモノは〝理解する〟事も叶わなかったろう。

 拳銃弾であっても、弾丸の速度は優に音の壁を超える。

 これに生身で、発射された弾丸を見てから対処出来る生物は、この地球上に一種たりとも存在しない。

 拳銃の激発音が耳に届くと同時に、荒戸の額は破裂する様にして銃創を広げて、その後に荒戸の首はガクンと後ろに傾いて、そのまま生物らしい行動を一切取らずに、その場に立ったまま動かなくなってしまう。

 大気にじんわりと溶け出して行く煤けた硝煙と火薬の焦げた臭い。

「……〝怪異〟ですか、全く面白い」

 淡い警戒に両手で拳銃を構えて、銃口を荒戸に向け続ける男の放つ微笑を伴った言葉に、前野は銃声の耳鳴りをようやく振り払う事が出来る。

 僅かに照星を覗く目を細めながら、男はじりじりと荒戸に近付いて行く。

 3メートル、2メートル、1メートル、徐々に縮まって行く男と荒戸との距離。

 その距離がゼロとなると思われた時点で、唐突に荒戸の体が大きく蠢く様に震えたかと思えば、喉を絞めるギリギリとした圧迫音と胃の残留物を嘔吐く水音を伴って、荒戸の闇を映した口腔から鋭く触手が這い出てきて、男の顔面を目掛けて伸びて来る。

「――浅ましい」

 その愚かしさを小馬鹿にする様に静かに呟いた男は、顔面を目掛けて飛び掛かって来る口腔よりの触手を紙一重で躱して、翻したそのままの姿勢で荒戸の右方に回って両脚の鼠径部を二発の弾丸で撃ち抜くと、直立に耐えられなくなった荒戸が地面に膝を着く。

 そのまま男は、左脚の大腿部に付けているサイホルスターから、一本のナイフを左手で抜き取って、跪く荒戸の首に銀閃を伴う斬撃を走らせる。

 ――瞬間、暗澹とした住宅街に降る月光と木々の様に立ち並ぶ街灯の光をキラキラと反射する鋼のナイフが、荒戸の頸動脈を正確に切り裂いていた。

 それは、頸椎を全く傷付けず、首に走る頸動脈のみを部分的に切り裂くと言う、絶技とも言える短剣術である。

 頸椎にナイフを干渉させてしまえば、その首を断ち切る事も出来ず、斬られた傷も最小限となってしまう。

 それを防ぐ為、驚異的な空間把握を用いてナイフを振り切った。

 見ていて驚嘆してしまう程の殺人術を有り有りと見せ付けられて、前野は不思議と体がガクガクと震えてしまうのを必死になって抑えるのだが、今も刻一刻と状況は変化し続けている。

 荒戸の頸動脈は致命的に切断されて、心臓の鼓動に合わせ、ドクドクと夥しい量の鮮血が首の切創から噴き出して来る。

 一人の人間に収まっていたとは思えない程のドス黒い血液の濁流が、荒戸の左半身を醜悪に汚して行って、荒戸の体はそのまま地球の重力に逆らえずに前のめりに倒れ込む。

 自身で作り上げた血液のカーペットに倒れ込んだ荒戸の肉体は、今度こそ一切の動作を停止して、物言わぬ肉塊と化す。

 既に、これは終わった〝モノ〟だ。

 だからこそ、次に起こる現象は前野の心を大いに惑わせる事になる。

 ――次の刹那、終わった筈の荒戸の肉体、高校の制服、噴き出した血液に至るまで、まるで火葬でもされたかの様に、ボロボロと黒く細かい粒子に分解されて行き、数秒も経たない内に荒戸を構成する全てが跡形も無く消え去ってしまった。

 言葉が出て来ない。それ程に常識の埒外にある超常を目に焼き付けられた。

 この状況で何か気の利いた言葉が出て来る人間は、余りにも超常現象に慣れているか、歪む程に精神が破綻した異常者であろう。

 感情の色を見せない冷ややかな瞳で荒戸の消滅を見届けた後に、男は前野の方向に向き直る。

「……この〝怪異〟もしや貴方に関係が?」

 荒戸の消滅の影響か、血液が一滴も付着していないナイフと未だに発砲の熱を孕む黒鉄の拳銃を納めて、男が場に不釣り合いな程に軽薄な様子で問い掛けて来るので、

「あっ……えっと……」

 声が全く出て来ない。

 と言うよりも、凄絶な波浪の如く流れ込んで来る情報と感情の坩堝に、脳の処理が追い付いて行かないと言った所だろうか。

 倒れ込む様に回避したままの姿勢で立ち上がれず、オドオドと発声する事の出来ない前野の眼前に立った男は、玲瓏たる月明かりを放つ半月を背にして、何を勘違いしたのか、

「……失礼、名乗るのが遅れました」

 そう、口角をほんの少しだけ上げた完璧な微笑を浮かべて、威風堂々と名乗りを上げる。

「――『異能結社コスモス』二代目代表、月宮煌輝つきみやこうき、と申します」

 月宮と名乗った男は、どこまでも紳士然として、優美に一礼をした。


 月宮煌輝は滔々と語った。

 この世界には、人間の精神、心の在り様、人が抱き他者に向ける感情、それら心の働きから生まれる存在である〝怪異〟が実在する。

 そんな超常の存在から人々を守りたい、と言う理念を共有して、個々人が手を組んだ組織が、月宮が代表を務める〝異能結社〟と言うらしい。

 前野は己の事情を説明した。

 とある人物に、この儀式をやる事を勧められて、勢い付いた荒戸が全員を巻き込んで学校を舞台に〝キイナ様〟を呼び出す儀式を行った事を。

「何故、陳腐な物語なら、死亡フラグ確定ってな事をしてしまうんですかねぇ。私には、とてもとても理解が出来ませんよ。いやはや、責めている訳ではありませんが」

 事の顛末を前野が学校の正門前で喋り終えた後、月宮の開口一番の言葉がこれであった。

 心の底から呆れている様で、それでいて少し愉快そうに声音を揺らして、月宮は手をヒラヒラとさせているので、前野は申し訳なさそうに目を伏せて、

「あぁ……すみません。あの、よかったら……」

 前野が何を言おうとしたのか、その言葉の先をまるで知っているかの様に、月宮は獣の様にギザギザと凶悪に生え揃った歯列を剥き出しにして、嫌に歪められる口から言葉を発する。

「その先は言わずともよろしいでしょう〝怪異〟が発生しているならば、解決するのが〝異能結社〟の存在意義ですから」

 そう半ば独り言の様に高らかと声を上げた月宮は、暗雲の切れ間から覗く、空に懸かる半月を仰いで、禍々しい気配が吹き荒ぶ学校の校舎へと歩みを進めて行く。

「――では、アドベンチャーパートと参りましょう」

 一歩ごとに鉛が身体に注入されていかれるが如く、倦怠感にも似た緊張と痺れにも思える震えを生じさせる校舎を眼前にして、

「――ハッ」


 ――瞬間、空間の性質が、一気に転換して行く感覚を覚える。

 月宮が件の高校の玄関扉を開け放てば、その先は一寸先すらも見通す事の出来ない純粋な漆黒である。

 この時間ならば、未だに教職員が学校の中に残っている筈で、当然ながら蛍光灯の類は明かりを灯しているのが道理である。

 しかし、眼前に見える筈の下駄箱や廊下と言った物は外からは確認出来ず、暗澹たる闇は視認の一切を拒んでいる様ですらある。

 月宮はそんな常識の埒外を凛然とした調子を崩さずに受け止めて、遂に玄関扉の敷居を跨いで、漆黒のインクの中に溶け込む様に校舎の中に侵入する。

 刹那に覚えるのは、物理的な環境変化に依らない〝異質〟な雰囲気の変化。

 そこは先程までキラキラと光を放っていた月光すらも差さない、闇に落ちた校内。

 窓からは一切の光は差さず、墨汁によって塗り潰したのかと錯覚してしまう。

 当然の様に、天井に付けられた蛍光灯は機能を停止しており、先程まで喧しいくらいに騒いでいた蝉の音も、今では恋しくなってしまう、その様な〝暴力的〟な静寂。

 暗澹たる影と惨憺たる闇が隙間なく走る校内は、その全容を推し測る事すら不可能になってしまう程の不可視。

 月宮はとある事情により夜目が利く為、そこまでの問題にならないが、通常の人間ならば歩行が困難になるレベルの暗闇である。

 月宮は、己の背後に付いて、この空間内に足を踏み入れた前野をチラリと一瞥する。

 その冷徹なまでの紅の瞳に映る前野は、どこか落ち着き払っていて、暗闇以外を何も映していない筈の黒瞳は動揺しているのか、ウロウロとその視線を一点にする事が無い。

「……動揺されていますか?」

「…………そうかもしれません」

 生徒用であろう、下駄箱が立ち並ぶ玄関を抜けて、眼前にある廊下に差し掛かった所で、月宮は前野を心配してか、そう静謐な声音で問い掛けるのだが、心ここにあらずと言った様子での返答が帰って来る。

 至極当然と言えば、そうかもしれない。

 己の友人が〝怪異〟と化し、それを眼前で殺され、自分しか助からなかったかもしれない。

 心中察するに余りある状況、女子高生の精神力では耐えられる筈も無いだろう。

 だが、月宮はこの〝怪異〟について、何を知っていると言うのだろうか。

 その様子を訝しげに思い、鋭く目を細める月宮の警戒を知ってか知らずか、前野はどこか気の抜けた様に声を漏らす。

「……私以外にも、生き残ってる奴がいるかもしれないし、一旦、四階の突き当たりにある空き教室に行きましょう。そこで儀式をやったので」

 そう前野は上階へと繋がる階段に差し掛かる直前に、月宮に対して、無機質にも聞こえる平板な口調で伝えて来るので、

「そうですね。事件現場を検めるのは調査の基本中の基本ですから、それで良いと思いますが……先程から、体調が優れない様子で?」

 月宮は前野の指し示す方針に同意しつつも、揺さぶりを掛ける様に目を細めて、前野の体調を気に掛ける。

「……あぁぁ、まぁ、色々あったんで」

「まぁ、道理ですね」

 どこか天井を仰ぐ様にして首を上に向けながら、掠れた声を無理矢理押し出す様にして言葉を紡ぐ前野に、月宮は当たり障りの無い言葉で会話を断ち切る。

(やはり、要領を得ませんね〝怪異〟或いはこの〝異界〟に中てられている?)

 どこか腑に落ちない疑念に、月宮は心の内で思案を巡らせているのだが、その間にも歩みは止まらない。

 階段の静謐を切り裂く様に反響する乾いた靴音が耳朶を打つ。

 階段を用いて上階に上がろうと、深淵にも似た暗闇を進んでいると、思索の為に少し俯いた視界が功を奏したか、何かが落ちているのを月宮は発見する。

 それは、紙片であろうか。

「――すみません、心細いでしょうが、先に四階に上がっていて貰ってよろしいでしょうか? 危険であれば、引き返してください」

「へっ? わかりました……けど〝絶対に〟来てくださいね」

 そんな月宮の刃の様に鋭く唐突な言葉に面食らった前野は、刹那に困惑しながらも、即座に気持ちを切り替えたのか、足早に階段を上がって行ってしまう。

 階段の踊り場で道を曲がって、その姿が消える直前に、月宮の事を妙に執着的に見つめていた前野の事が気掛かりだが、ともかく、足元に落ちている紙片を確認したい。

 直感的に、月宮は前野と多くの情報を共有しない方が良いと判断した。

 その長身を窮屈そうに屈めて、階段の一段に落ちている、手の平サイズの紙片を摘み上げて、その内容を確認する。

 そこには、血の様な赤い文字で、

〝殺シタイ人間ハイルカ〟

 とだけ書かれていた。

 それは、妙に間延びしていて、殴り書きされた様な字体であった。

 怨恨か、怨嗟か、怨念か、怨讐か、そんな表す事の出来ない負の感情が文字としての形を以て浮かび上がっている、そう形容出来る代物である。

(……殺したい人間はいるか? この〝怪異〟の中心、その儀式は確か〝キイナ様〟とやらを呼び出すだけ、だった筈では?)

 左手を己の顎に当てながら、月宮は少し思案に耽るのだが、その脳裏の思索の海に深く浸かる事は遂に出来ない。

 ――何故なら、月宮の眼前、階段の踊り場に突如、一人の女子高生が現れたからだ。

 位置の関係から、月宮を睥睨する様に見下ろす女子高生は、その肉体の内に何が蠢いているのか、皮膚の下を波打つ様に震わせて、既に眼球を失った空っぽの眼窩から、ヒルにも似た黒色の触手を伸ばしている。

「……アノ、ミチヲキキタインデスケド……イイ、イイイイ、イイデスカ……?」

 不気味に小首を傾げて、ノイズ混じりの嗄れ声を発している女子高生を訝しんで視界に映した月宮は、呆れた様に視線を横に流しながら、

「もう隠す気ゼロですね。貴方の母校でしょうに……良いでしょう」

 そうキザったらしく言葉を少し溜める様にして、凛然とした戦意のままに言い放つ。

「――冥土への行き方なら教えて差し上げましょう」

 ――次の刹那、女子高生の右腕の皮膚が鮮血と共に弾け飛ぶ。

 嫌に鮮やかな桃色の筋肉と黄白色の神経を覗かせた右腕より、タールにも似た黒色の触手が幾つも食い破る様に這い出て来て、月宮へ目掛けて大気を穿ち割りながら迫って来る。

 それは、幾重にも束ねられた黒色の触手による、敵愾心を持った大質量の押し潰し。

 吹き荒ぶ戦意と一気に思考を白熱させる脅威、階段の横幅すらも超越する規模の触手の攻撃を眼前にして、月宮は階下に向かって、左手で帽子を押さえながら、軽やかに跳躍する。

 そのまま重力の影響を受けて一階に落下して行く月宮の肉体は、内臓を揺らす凄絶な浮遊感と平衡感覚を失う虚脱感に苛まれながら、一階の廊下、その床面に壮絶な衝撃を伴って着地して、その流れで横に転がり込んで触手の押し潰しを躱す。

 チラリと激突した触手が齎した筈の壁面の被害を月宮が一瞥すれば、そこには乗用車が突っ込んだのかと錯覚してしまう程のひび割れが刻まれていた。

(当たれば、即死は免れませんね。まぁ〝怪異〟の攻撃は、どれもそんなものですが)

 雷撃の様に迸る思考とそれを叶える肉体の素早い動作で、月宮は腰に差した黒鉄の拳銃を右手に担う。

 ジェリコ941FS、月宮煌輝の愛銃。

 イスラエルの兵器製造コンツェルン、IWI社製の自動拳銃。

 バレルやマガジンを交換する事で、様々な弾薬を使用する事の出来る多様性に、メンテナンスが容易と言った特徴を持つ、発売された1990年の当時としては画期的で斬新な機構であり、イスラエル警察の制式拳銃になっている程には良い銃器である。

 それに月宮は少しカスタムを施している。

 9mm強装弾を撃ち出す為の強化スライドに、互いが干渉しない程度に大型化されたスライドストップとサムセーフティ。リングハンマーに、握り込み易い様に交換され、手の形に合わせて削り込んだ滑り止めグリップ。指を掛けやすい様に延長され、溝を彫る事で滑りにくくしてあるトリガー。フロントサイトとリアサイトの高さを合わせ、シアーとハンマーの山の角度を45度にして、接地面を鏡面仕上げに磨き上げている。

 余程、愛用しているのであろう、年季が入りながらも、良く整備されている黒鉄の拳銃を転がり出た廊下より、月宮は階段に向けて構える。

 ――次の瞬間、異常に膨れ上がった黒色の右腕をもたげて、凄絶な衝撃を空間に伝播させながら、女子高生の形をした怪物が廊下に降り立って来る。

 いや、その右腕は膨れ上がっているのでは無く、タールの様な黒色の触手が夥しく重なり束ねられて、まるで一つの触腕の様に見えているだけの事だった。

 刹那、月宮は迷い無くジェリコの引き金を引き絞る。

 その動作によって拳銃の撃鉄が高速で倒されて、炸裂音を伴って一発の弾丸が、怪物のこめかみを目掛けて音の壁を越えて迫るのだが、その射撃の直前に頭部を覆う様にして、怪物の首から発生した黒色の触手によって、致命の弾丸は防がれてしまう。

 筋肉を穿つグチュッと言う醜い快音を響かせて、9mmパラベラム弾は頭部を覆う黒色の触手を少し抉り抜いた所で、遂にその運動量をゼロにしてしまう。

(頭部を狙って来る事を前提に、触手で事前に防御をした……銃弾を優に止めてしまう筋肉、末恐ろしい)

 脳裏を凄絶に白熱させる苛烈な状況の中、先手を打ったのは人型の怪物。

 惨憺たる殺意を空間に注ぐ怪物は、その右腕の触手を一つ一つ解く様に展開して、まるで多頭の蛇を喰らい付かせるが如く、月宮へ向けて数多の黒色の触手による刺突を放って来る。

 空間に張り詰めた様な痺れを蔓延させる、そんな致死へ誘う触手の刺突の一つ一つを、月宮は翻して躱し、上体を逸らして往なし、鋭い踏み込みで横合いに回避する事で、怪物の攻撃を殺して行く。

 その荒れ狂う嵐の如き触手の乱舞によって、月宮の背後にある下駄箱が原形を失う程に滅茶苦茶に破砕され、壁面は巨大な生き物の爪痕が刻まれた様にひび割れる。

 月宮は、その容易く乱発される一つ一つの打撃にさえ、明確な死を直感する。

 横薙ぎに振るわれる触手の打撃に対して、前に走り込んだ後、体を旋回させながら跳躍して躱す。

 漆黒の中折れ帽子が、月宮を離れて宙に舞う。

 空中、逆様の姿勢であっても不自由が無いと言った様子で、月宮は怪物の右脚を狙って照星と照門を覗き込み、四発、耳を劈く炸裂音を響かせて、ジェリコによる射撃を敢行する。

 一発は地面に命中し、小さく銃痕を刻んで炸裂する。残りの三発は全くの狂い無く怪物の右脚を穿ち、大腿部を半ば貫通して命中した銃創は、破裂する様にその傷を大きく広げて、グチャグチャに筋肉を破壊する。

 流石の怪物でも己の体を支える事が出来なくなったのだろう、致命的に破壊された右脚の膝を地面に着いて、右足を使えなくなった為か、巨大な右腕が荷重に耐えられず、ダラリと地面に降ろされる。

 それを好機と見た月宮は、空中で体勢を立て直し、地面に軽やかに着地すると、刹那の思考で走り出す。

 体を貫く程の強い衝撃を受けながら踏み込んで、漆黒の影を這わせるが如く黒色の触手による攻撃を疾駆の最中に躱しながら、月宮は風を耳で切って怪物に接近して行く。

 月宮は眼前に迫る触手の刺突を滑り込んで躱し、地面を這って怨敵を握り潰そうとする触手の絡み付きを、地面を手で押し出す事で高度を確保して回避するが、中空に出て身動きの取れない月宮の隙を狩ろうと、触手を束ねた打突が放たれる。

 大気を穿つ凄絶な膂力の籠る触手の打突に対し、月宮は左腕を引き絞る様にして後ろに溜めて、そのまま真っ向から拳撃を衝突させる。

 何を馬鹿な事を。

 壁面に凄絶なひび割れを生じさせ、木製の下駄箱をバラバラに粉砕するレベルの膂力を誇る触腕の一撃に対し、月宮は何を思ったか、真正面からの殴り合いを選択した。

 苦し紛れの姑息な策か、はたまた力量差を測れぬ蛮勇か。

 その拳が衝突した瞬間、月宮の腕はグシャグシャに拉げて、そのまま壁面と触腕に挟み込まれて、圧殺されるのが関の山。

 無為と化すのが必至、それが故の決死なのだろうか。

 さぁ、その愚かしさの代償を、死を以て贖って――、

 ――だが、月宮の左の拳撃は、校舎に氾濫する鈍い轟音を響かせて、真正面から怪物の触腕を受け止めていた。

 明らかに人間の力を超えている筋力を見せる月宮であるが、やはり肉体のスペックには差がある様で、ギリギリと押され始めている。

 ――しかし、月宮煌輝にとっては、その僅かな間隙で充分。

 月宮は即座に左手の拳を開いて怪物の触腕を掴み取り、そこを起点に勢いを付けて、弧を描く様にして怪物の触腕の上に立つ。

 無駄に大きいが故に、怪物との間を結ぶ橋と化してしまった黒色の触腕を器用に渡って行って、遂に月宮は怪物を目と鼻の先にまで距離を詰める。

 ――瞬間、月宮は異形の触腕から飛び降りて、怪物の右方に着地すると、両手で構えたジェリコによる三連射を以て怪物の腹部に風穴を開ける。

 音の壁を破る衝撃波を発生させながら、正しく風切り音を纏った真鍮の弾丸は、雷管により生じる火薬の燃焼の光をキラキラと反射させて、人間の中でも脆弱な腹部に荒く炸裂する。

 内蔵を掻き混ぜる様に臓器を爆ぜさせる三発の弾丸により、怪物の腹部からドス黒い血液が飛び散るのを一瞥して、月宮は大気に溶ける硝煙を置き去りにする程の速度で踏み込み、怪物の懐にまで接近する。

 反撃は無い。恐らく、右腕の異形の触腕は重量がありすぎて、素早く動かす事が出来ないのだろう。

 そのまま、月宮は白銀のナイフを抜き放って、怪物の腹部、肝臓を目掛けて突き上げる様に突き刺すと、ドスッと言う鈍い臓器を穿った水音が彼の耳朶を打つ。

 グチャリとした肉を抉る不快な感覚を振り払う様に、ナイフを逆手に持ち替えた月宮は心臓、肺を流れる様に一突きにし、稲光を思わせる速度で踏み込んで怪物の背後に躍り出る。

 その最中だったのだろう。怪物の左の脇腹は、彼が迸らせた銀閃を纏う斬撃によって切り裂かれて、その中身を垂れ流しにしていた。

 てらてらと鮮やかな桃色をした腸が、他の臓器に圧迫されて、逃げ場を求める様に唯一の出口となってしまった左の脇腹の切傷から体外に漏れ出して来て、怪物の左半身に絡んで来る。

 そこで、時間が凍り付く。月宮はこれ以上、この一秒に行動は出来ない。

 いや、と言うよりも、致命的な損傷を被った所為か、ピタリと時間が静止した様に怪物が動きを停止させたので、それ以上の行動をする気が失せたと言った所か。

「……アァアァアァ……シニタクナ……イィ」

 白銀の短剣により負傷した心臓、肺、肝臓、脇腹、真鍮の凶弾により撃ち抜かれた胴部の各種臓器、漆黒の触手による堅牢な防御を誇る頭部と右腕を除いた、あらゆる急所を正確に貫かれて、人の形を成した怪物は、遂にその歪な命脈を絶たれたかの如く、前のめりに地面へと倒れ伏す。

 ビチャビチャと腹部から流れ出して行く、命の源流たる血液の海に全くの減速も無く倒れ込んだ怪物の肉体は、砂や灰が風に吹かれてボロボロと散って行く様に、その体を消滅させてしまった。

 例によって、怪物の着用していた服、垂れ流しにされた血液や臓器と言った、怪物を構成していた全ては、まるで〝虚構〟であったかの様に跡形も無く消え去ってしまった。

 落下した漆黒の中折れ帽子を回収し目深に着け直して、手に担っていた武装を収めた後に月宮は、何を思ったのか一瞬だけフッと瞑目して、少しの疲弊を溜息に乗せて吐き出すと、先程までの軽薄な微笑を完全に消し去って、右手で顔を覆いながら、

「……趣味が悪すぎる」


 月宮は、闇に誘われる様に校舎の中を疾駆していた。

 天井に設置された蛍光灯の光や藍色の天空より降り注ぐ月明かりすら差さない、真の暗闇の中を、月宮は迷い事も無く進んでいた。

 妙に耳朶を打つ風切り音に疾走の振動に揺れる視界、高速で後ろに流れ行く眼前の情景を置き去りにし、月宮は階段を素早く上がって行って、遂に暗澹たる空気の満ちる四階の廊下まで辿り着く事が出来る。

 本来は、生徒の教室や教科の部屋が存在する階層なのだろう。階段を上がって来た月宮の眼前には、廊下の壁を沿う様に列を成した窓が存在するが、その窓の先の景色は完全な虚無や虚空と言える深淵であり、その先には何も映っていない。

 人の往来が頻繫にある筈の学校と言う環境ではあるが、今は全くと言って良い程に人の気配と言うものを感じ取る事が出来ない。

 全体的に小綺麗で、清潔に保たれているにも関わらず、校内は理由の分からない退廃的な雰囲気に満ちている。

 まるで、人が居なくなって久しい、窓ガラスも割られ切った廃墟に足を踏み入れた様にも思える。

 暗黒に落ちた四階の廊下に、神経を少し尖らせながらも、月宮は緩慢に足を踏み入れると、丁字路の様相を呈している右方の壁の死角から、何者かが飛び出して来るのを視認する。

「――ッ」

 疾風の如き速度でジェリコを抜き放って、死角より現れた人影に銃口を突き付けると、

「――私ですよ。ここで待ってました」

「……驚かせないでください」

 その人影の正体は、先程別れた前野であった。

 わざわざ待っている必要はあるのか、と少し思った月宮であったが、一応は警戒を解いて拳銃をホルスターに仕舞う。

 どこか、場を膠着させる剣吞な空気が両者の間に流れて、凍り付いた様な沈黙が訪れるが、月宮は事件現場、突き当たりにあると言う空き教室に向けて歩み出す。

「……そう言えば、前野さんは歩くのに苦労しませんでしたか? こんな〝暗闇〟ですので」

 何気ない雑談と言った調子で、月宮はそう前野に問い掛けるが、その紅の瞳は剥き出しの剣の様な、凍て付く鋼の如き透徹を伴っている。

 そう、前野は〝最初〟から、光源も無しにこの暗黒に包まれる校舎を不自由なく歩き回っていた。

 その確信めいた語気から投げ掛けられる疑問に、前野は困った様に小首を傾げて、妙に気の抜けた感じで声を発する。

「あぁぁ、忘れてた。暗闇で儀式やってたんで、目が慣れてるのかもしれません」

 答えになっていない、と月宮が苦言を呈す直前に、

 ――ガタッ。

 この蝋で塗り固めた様な静寂を破る物音が、月宮と前野が通り掛かった女子トイレの中から聞こえて来る。

 バッと弾かれた様に横合いの女子トイレに正対する月宮は、啞然として目を見開いている前野を一瞥する。

 その表情は形容するならば、恐怖を誘うお化け屋敷の中の突然の物音に驚いた、と言う感じでは無く、言うならば、自分一人しか居ない筈の自宅の中で、突然鳴り響いた物音に驚いた、と言った様子である。

 この場合で言えば月宮は前者、前野は後者だろう。

 両者、全く別種の驚愕に神経を張り詰めるのも程々にして、月宮は飽くまでも凛として、警戒を緩める事なく。

「前野さん、私の後ろに。もしかしたら〝ヒト〟では無いかもしれませんので」

 その言葉の応答を聞き届ける事も無く、月宮は引き扉が嵌め込まれた女子トイレのドアを慎重に開け放って、素早く死角をクリアリングすると、眼前の光景を視界に映す。

 そこは、何の変哲も無い、四つの個室トイレが並び、三つの洗面台と掃除用具入れが併設された女子トイレである。

 ――そこの最奥、前から数えて四つ目のトイレの扉の前、蹲る様にして体を縮めて膝を着いている女子高生が一人。

 前野と同じ制服を着ている、フワフワとした黒髪をボブカットにした少女。

 間違いない、この学校の生徒で、この〝儀式〟とやらに巻き込まれた側の存在。

 月宮は尚も最大限の警戒を緩めず、じりじりと緩慢に距離を詰めながら、両手でしっかりとジェリコを構えて、女子高生に対して狙いを付けながら、

「――ご無事でしょうか」

 その明らかに訝しんだ語調の、鋭い月宮からの問い掛けに、女子高生はハッとした様に顔を上げて、手元に持ったスマートフォンのライトをこちらに照らして、右手を床面に着きながら、月宮の顔を伺って来る。

 柔和な印象を与える垂れ目の付いた、可愛らしい容貌にある口から、女子高生は言葉を発する。

「大丈夫ですけど……って、銃!? 本物!? ……えっと、学校に残ってたら、いきなり暗くなって、何か怖い感じがして、隠れてたんですけど……あなたは?」

 余程、焦っているのか、纏まりも無く捲し立てる女子高生の態度に、月宮は少しだけ安堵する。

「私の名前は月宮煌輝〝異能結社〟の二代目代表を務めております。そして、この異常事態を収拾しに来た者でもあります。隠れていたのは正解でしたね、素晴らしいご判断、感服いたします。貴方は?」

 久々に〝人間らしい人間〟に出会って、少し、いや、かなり気分が高揚して、月宮は心の底からの微笑みを向けて、女子高生に名を尋ねると、

「――宇都宮です、宇都宮千秋うとみやちあき

 そうトイレの床から立ち上がりながら、朗らかに名乗りを上げた宇都宮と言う女子高生に、月宮は自身の後ろに黙り込んで立っている前野に話を振る。

「前野さん、宇都宮さんとはお知り合いだったりしますか? ならば、これ以上に嬉しい事は無いでしょう――」

 何故なら、前野さんが待ち望んだ友人の生存者なのですから、と続けようとした月宮に割り込んで、宇都宮がボソッと小声で呟く。

「――前野なんて人、この学校に居ないんじゃ……」

 その言葉が月宮の鼓膜を静かに打って、神経を通じて脳裏に駆け巡ると、それが深い意味を成して状況の理解を促す前に、直感的に月宮は動き出す。

「――ッ!」

 心肝を鮮烈に焼かんばかりの焦燥と一気に神経をピンと張り詰めさせる緊張が、雷電の様に月宮の肉体に伝播して行く。

 月宮は放たれた矢を思わせる速度で振り返り、そのまま右手に担ったジェリコによる弾丸を前野が立っていた地点に発砲する。

 パァン! と言う落雷を想起させる炸裂音を立てて飛翔する一発の弾丸は、遂に敵の殺害と言う命を果たす事は無い。

 ――何故なら、月宮の背後に居た筈の前野は疾うに床を離れて、天井に両腕を用いて張り付いていたからだ。

「――チッ、不味い」

 前野の姿は既に人のそれとは乖離している。

 頭部に当たる部分は、首の断面から生えた一本の太い黒色の触腕がそれを代替し、先の細くなったその触腕の先に、両目の代わりをしているのか、赤黒い眼球が二つ付いている。

 両腕があった部位には、黒色の触腕がそれぞれ一本ずつ置き換えられる形で発生していた。

 異形の怪物と化した前野、いや、正しく怪物が、女子トイレの天井、その隅に漆黒の触腕を以て張り付いていたのだ。

 ――刹那、堰を切った様に状況が動き出す。

 先手を奪ったのは、月光を思わせる速さでジェリコを怪物に構え直した月宮。

 遊底が後退する度に四発、瞬きにも満たない超越的な速度以て、黒鉄の拳銃から音速を超える凶弾が放たれる。

 それぞれ、怪物の両腕の付け根に二発、首の付け根に一発、腹部の水月に一発、真鍮の鈍くも美しい輝きを放つ弾丸が、醜い裂傷にも似た銃創を荒々しく刻み込む。

 そこで、激しい金属音を立てて、ジェリコのスライドストップがカチリと掛かり、弾倉内の弾薬が空になった事を知らせて来る。

 両腕の付け根を凄絶な衝撃が伝播した影響か、怪物は天井に張り付く事が出来ず、重力に従って床に落下して来る。

「――一旦、この部屋から出てください!」

「――ッ、はい!」

 瞬きにも満たない時間で床に落下して来る怪物を縫い止める為に、月宮は宇都宮に向かって叫んだ後に、眼前の怪物に突貫する。

 床に地響きを立てて着地した怪物は、目の前にまで迫る月宮を、何を映しているか分からない眼球で視界に入れたが、それを全く意に介さずに、けたたましく醜悪な猿声を上げる。

「――ウトミヤァァァアァ!」

 目立った発声器官も無く、どこから大音声を上げているのか皆目見当も付かないが、怪物は眼前の明確な脅威である月宮を無視して、扉からトイレを出ようとする宇都宮に右の触腕による横薙ぎの打撃を振るう。

 高速で他者を傷付ける鞭の様に全体がしなって、鋭い打撃をぶち込もうとする怪物の右の触腕は、あわや宇都宮を殴り付けると言った所でその軌道を外して、彼女を少し掠めただけの結果に終わる。

 だが、宇都宮を掠めた右腕の触腕の軌道にあったトイレの扉が、バキャッと言う壮絶な破壊音を伴って吹き飛ばされて、それに巻き込まれた宇都宮は暗黒に満ちる廊下に転がる様に倒れ込んでしまう。

 それを月輪の様な冷然さを持った紅の瞳で一瞥した月宮は、

「――仲間外れは寂しいですね」

 ――瞬きの内に怪物の懐に潜り込んだ月宮は、その右脇腹に凄絶な膂力が籠る拳撃を痛烈に叩き込む。

 筋肉や臓器を穿つ鈍い衝突音を響かせて、体を衝撃に折り曲げた怪物は、そのままの勢いで壁面に叩き付けられる。

 全身を貫く内臓を引っ繰り返される様な凄まじい衝撃に、流石の怪物も一瞬だけ動作を停止する。

 動きが僅かに鈍くなったのを確認した月宮は、吹き飛ばされて扉としての役割を持たなくなった扉枠を潜り抜けて、怪物が忌々しそうに伸ばして来る追撃の触腕の刺突を翻して躱し、転がり出る様にして廊下に出る。

「大丈夫ですか?」

「はい、少し頭を打ったくらいで」

「それは大いに結構。追撃が来ます、私を盾にしながら、出来る限り距離を取ってください」

 暗澹たる深淵が満ちる廊下に転がり出た月宮は、腰に着けた黒のベルトの左側面に固定してある三個のマガジンポーチから、一つの弾倉を抜き出して、ジェリコの空になった弾倉を交換し、スライドストップを解除する事で発射可能な状態にする最中に、宇都宮の体調を確認する。

 ――瞬間、トイレの扉枠を屈む様に潜り抜けて、怪物が廊下に躍り出る。

 熱を持った様に加速する思考回路から導き出される、直感と言う名の最適解に従って、月宮は神速とも言える早撃ちを見せる。

 ほぼ同時、怪物から5メートル程度離れた位置から、月宮は一聴して一発にしか聞こえない程の早撃ちで、怪物の両足首を貫いていた。

 その撃発を知覚する事すら烏滸がましい、と凶弾は嘲笑う。

 右膝を着いた姿勢の月宮から放たれる音速の弾丸により、細い両足首の筋肉や腱を激しく損傷して、両脚による直立を維持出来なくなった怪物は、ガクンと両膝を床面に着いて、歩行機能の一切を失ってしまう。

「ソレハ……モウ見飽キタ!」

 肉体のどこだろうか、眼前の怪物が暗澹たる空間を切り裂くが如き大音声の叫喚を上げて、両腕に当たる触腕を目の前の怨敵である月宮に振るって来る。

 顔面にまで迫る触腕の刺突に対して首を傾ける事で躱し、廊下に破滅的な亀裂を刻む触腕の横薙ぎを後方に跳ぶ事で往なし、烈風の如き激しさを以て振るわれる触腕の乱舞の中で月宮は活路を見出そうとする。

 だが、月宮は更なる苦境に立たされる事になる。

 ――瞬間、黒色の触腕の乱舞の渦中にて、怪物の両脚がミシミシと言う筋肉を鈍く引き裂く音を立てて蠢き出し、柔い薄橙色の皮膚をブチッと鮮血と共に破って、そこからは例によってか黒色の触腕が這い出して来る。

 さながら、両手両足が黒色の触腕に置換されたチープな怪人、と言った風貌に様変わりしてしまう怪物であるが、その冷笑を誘う外見とは裏腹に、状況は一気に異様な緊迫を孕んで行く。

(――不味い、人型ベースの〝怪異〟から、明らかな異形へと変化して行く。最初に殺した〝怪異〟は頭部を撃ち抜き、頸動脈を切断した為に死亡した。その弱点を補う様に、次の〝怪異〟は頭部と頸部を守って来た。そして、今目の前に居る〝怪異〟は、隙を作る事も出来ない様に両手両足に頭部すらも触腕に変えて来た。情報共有でもしているのですかね)

 鮮烈に生死が交錯する戦いの最中に、月宮は少しの逡巡をした後に、

(だが、未だに人間をベースとしている筈。どこかに必ず弱点はある。手遅れになる前に終わらせる)

 ――次の刹那、怪物の黒色の触腕が無数に躍り掛かる。

 幾重にも重なっていると錯覚する程の速度を以て、空気の壁を裂く風切り音を響かせながら、怪物は異形と化した両腕を荒々しく振るって来る。

 即座、月宮はナイフホルスターから銀の煌めきを閃々と放つナイフを左手で抜き放って、そのままナイフを用いて猛烈な勢いで迫る黒色の触腕による打撃を流す。

 怪物の左の触腕が銀の短剣と火花を散らす様にして軌道を逸らされると、その加速度を殺せずに月宮の背後に伸びて行って、廊下の壁面に突き刺さる。その怪物の触腕は刹那の内に壁面から己の右腕を抜き出して、月宮をグルグルと巻いて拘束する為に、彼に向かってその触腕による包囲の半径を狭めて行く。

 まるで蛇がとぐろを巻いて獲物を締め上げる様に迫る、異形の右腕から逃れる為に、月宮は体を宙に舞い上がらせる。

 空中で美麗な弧を描く後方宙返りによって、包囲を敢行する異形の右腕から逃れた後に、月宮は異形の左腕による凄絶な膂力の刺突に対し、姿勢を低く屈める事で回避する。

 黒色の触腕による打撃を躱し、穿ち、往なし、翻し、払い、怪物による致命の乱打を月宮は紙一重で回避して行くが、徐々に月宮と怪物との距離が縮まって行く。

 歩みを取り戻した怪物は、明らかに歩行に向いていない異形の両脚を地面に突き刺す様にして、じわじわと月宮との距離を詰めて来ていた。

「――ッ」

 苦境、接近戦になれば、人間である月宮に勝機は無い。

 苦し紛れか、月宮は逆境に息を半ば詰まらせながら、嵐の様に命脈を絶ちに迫る触腕の乱舞の間隙を縫って、黒鉄の拳銃を撃発させる。

 パァン! と言う落雷を思わせる破裂音が耳を劈く。

 黒色の触腕を回避する為に体躯を激しく翻しながら、胸部、腹部、下腹部に掛けて月宮は三発の弾丸を放つ。

 グチュッと言う臓器と筋肉を鈍く穿つ水音を立てて、怪物は醜くドス黒い血液を撒き散らす。

 胸部から下腹部に掛けての三つの被弾箇所は、破裂する様にして醜悪な銃創を作り上げる。

 その制服を赤黒い血液で醜く汚した怪物は、その動作の一切を止める事は無く、熾烈な攻撃を続行しながら、月宮に接近して行く。

 絶望的なまでの戦力差を覚えた月宮の脳裏に、電流の様に一つの選択肢が駆け巡る。

 どうする?

 ここで〝使う〟か?

 そんな無為とも思える思考の逡巡を見透かしているのか――、

 ――次の刹那、怪物は胴部を虫が這う様に滅茶苦茶に蠢かせて、その内から何かが飛び出す様にして、その制服をビリビリに破く。

 絶句する。

 月宮が驚愕に息を吞み、凍った様に思考を停止して、釘付けになったが如く見詰める視界の先に在るのは、制服が破けて露わになった胸部と腹部。

 例によってか、それすらも異形と化している。

 胸部の中央を起点にして、まるで花弁が開いて大輪を裂かせている様に触手が展開されており、腹部には針の様に細く鋭い牙の生えた大口が生えている。

(やはりと言うべきか、心臓と肺を保護する為に胸部を触手で防御している……今さっき銃撃されたからですかね。ですが、口? 発声をする為だけに?)

 異形と化した人紛いを前にして、月宮は刹那に思考する。

 そもそも、心臓や肺、臓器が生存の上で必要ないのならば、守る必要など無い。

 わざわざ、それを防御していると言う事は、逆説的に心臓や肺、脳が必要と言う事に他ならない。

 ならば、今頭部に無い脳は一体どこに存在している?

 脳の大きさからして、手足には確実に無い。

 胸部は心臓と肺で埋まっている。

 ともすれば、脳が存在する場所は一つしかない――、

「――ッ!」

 刹那の思考の帰結に、月宮は大きく目を見開いて、神速とも呼べる速度でジェリコの銃口を怪物に向ける。

 間違えていれば、もう打つ手が殆ど無くなってしまう。更に、脳裏に浮かんだ矛盾も解決していない。

 だが、やるしかない。

 ――刹那、月宮は黒鉄の拳銃を鋭く撃発させ、怪物の腹部の大口に目掛けて、真鍮の凶弾を放っていた。

 音の壁を破って大気を穿つ音速の弾丸は、月宮の眼前敵の沈黙と言う命を果たす為、全く以て軌道を変えずに、真っ直ぐ怪物の大口に吸い込まれて行った。

 沈黙、大口の口腔に吸い込まれて行った凶弾が齎したのか、怪物は一瞬だけ体を震わせて、その動作を刹那に止める。

 ――凍り付いた様に停滞した戦場を動かしたのは、

「――ギィヤァァァアァ!」

 他でも無い、異形の怪物の甲高い叫喚であった。

 何故、弱点を露わにする様に大口が付いているのか、それは分からないし、考える必要は無い。

 そこに脳があろうがなかろうが、少なくとも、怪物の脆弱な点であると言う事を月宮は直感する。

 ――瞬間、この脆弱性を消される前に、月宮は黒鉄の拳銃を撃発させる。

 黒鉄の拳銃より断続的に鳴り響く炸裂音と月宮の血を吐く様な叫びに呼応して、大気を鋭く穿つ真鍮の弾丸が、怪物の大口に幾つもブチ込まれて行く。

 ドス黒い血液と透明に近い脳漿を、吐血する様に大口からブチ撒けて、怪物は先程までの荒々しい暴風の様な勢いを殺して行く。

 それと同時、月宮の右手に担うジェリコのスライドストップが掛かって、弾切れを知らせて来るので、月宮は拳銃をホルスターに仕舞って走り出す。

 疾風を思わせる速度で走り出した月宮を迎撃する為に、怪物は両の触腕を震わせながらも放って来る。

 壮絶な風切り音を耳で感じながら、月宮は迫る右の触腕を左のナイフを用いて切り払う様にして往なし、左の触腕の横薙ぎを軽く前に跳躍する事で回避する。

「クルナナァァアァ!」

 血液とそれ以外の体液で醜く汚した腹部の大口から、怪物は張り裂ける様な咆哮を上げるが、月宮は全くそれを意に介さずに、怪物の懐に潜り込む。

 明確な死の気配に恐慌したのか、怪物は胸部の触手を焦燥と共に動かそうとするが、それは致命的に遅すぎたらしい。

 ――次の刹那、月宮は凄絶な膂力の籠る右の拳撃を、怪物の大口に叩き込んでいた。

 バキンッと言う針の様な牙がへし折れる凄まじい破壊音を伴って、月宮の右の拳が怪物の大口に叩き込まれる。

 ――刹那、生物を在らしめる、何か極めて大切な〝モノ〟を破壊してしまったと言う実感が襲い来る。

 グチュッと言う臓器を滅茶苦茶に潰す不快な感触を覚えて、月宮はゆっくりと大口から右の拳を引き抜いた。

 どんな感情だろうか、少し目を細めた月宮は、臓器の破片や紅の血液が右腕に絡み付いているのを見て後に、もう動く事が出来ないであろう怪物を一瞥する。

 最期を齎す一撃を痛烈に叩き込まれた怪物の肉体は、もう既に体を動かす余力は無い様で、重力に従い後ろにその体躯を倒して行く。

 背中から床面に倒れ伏した怪物は、自身が作り上げた血の池の上で手足をバタバタと無為に動かしながら、その大口より血液を少し吐き出して、

「……ウトミヤ……オマエ……ガ……オマエノ……セイ……デ…………」

 最期の恨み節だろうか、怪物はそれだけをノイズが掛かった様な掠れた声で呟いた後、その肉体はボロボロと黒ずんだ塵と化して、生きた証の一切を消し去ってしまう。

 当然、月宮の右腕を赤に染めていた血液や床に満ちた血の池も。

「……貴方が言いたかった事は、そんな事だったのですか? 前野さん……」

 ――わざわざ、弱点となる大口を付けてまで。

 月宮は、紅に染まっていない右手を確かめる様に開閉して、ポツリと呟いた。


「――都市伝説の調査……ですか?」

 月宮煌輝は片目の目尻を驚いた様に少し上げ、訝しげな語調で言葉を紡ぐ。

 その場所は、鮮烈なまでの西日の橙色に照らされた、どこかの事務所の一室に見える。

 小ぢんまりとしていて落ち着くと言うべきか、ただ単純に窮屈と言うべきか。

 そんな事務所の一室、その中央には一つのローテーブルを挟む様に並べられた二つのソファがあり、その他には漫画や小説、医学書にコンサルティングについての参考書などが並べられた本棚や調度品を置く為の棚などがある。

 人々が抱く〝探偵事務所〟のイメージの結晶と言っても過言では無い

 月宮の立つこの場所は、想像通り〝異能結社〟の事務所内である。

 暴力的なまでの斜陽に照り映える事務所内の色彩によってか、セピア色に褪せた古い写真の様だなと月宮は思いを馳せる。

「――そうだ。柏田かしわだ高校を知っているか?」

 そう、月宮の疑念を孕んだ声音の言葉に呼応して、右手に持つティースプーンを彼の方向に差し向けて問いを投げ掛けるのは、ソファに腰を深く下ろして座り込んだ女性である。

 非常に端整で、数多の群衆の中に紛れたとしても、その存在感を示す程に美麗に整った容貌。

 腰の辺りまで伸びた、整えられてキラキラと光沢を放つ白髪に、幼さを残しながらも精悍さを覚える凛とした面貌には、果ての無い穹窿を映した様な澄んだ空色の瞳が嵌め込まれている。

 背丈が低く線の細い小柄で、酒を買いに行ったら、まず間違いなく年齢確認をされてしまいそうな彼女だが、それに相反して女性的な起伏のある体。

 その体躯を包むのは無骨な白衣と黒色のTシャツ、医療現場などで用いられる黒色のスクラブパンツを着用しており、動きやすさを重視してか黒のスニーカーを履いている。

 そして、一番目を引くのは、左手の薬指に嵌められた奇妙な指輪。

 それは暗澹たる深淵を映し出した様な漆黒の宝石が一つだけ付けられた、誘われる様な魔性の雰囲気を発する指輪である。

 一見して、医者の扮装をした変人か、医師免許を持たないヤブ医者にしか見えない彼女に向けて、月宮は思案に右手を顎に当てながら、

「柏田高校とやらは存じ上げませんが……〝連合〟関係ですか? 日崎さん?」

 日崎、と月宮に呼ばれた女性は、どれくらいの砂糖が入っているのか、見当も付かない程に淡く濁ったコーヒーをティースプーンでクルクルと掻き混ぜながら、月宮の問いに返答しようとして、こちらに視線と意識を向けて来る。

 あれは最早、コーヒーでは無くただの砂糖液だろう、無粋極まりない、と月宮は日崎を糾弾したいのだが〝異能結社〟創設以来の付き合いになるので、これにはもう慣れたと言うのが本音か。

 まぁ、月宮はどちらかと言えば紅茶派であるが。

「いや、今回の案件は〝連合〟とは関係ないらしい。数ヶ月程前から柏田高校に妙な噂が流れている」

 日崎は致死量としか思えない程に糖分の混ざったコーヒーを少し口に含めて、続きを促す様に頷く月宮の所作を一瞥すると、淀みなく流暢に語り出す。

「とは言っても、直接見聞きをした訳ではないけどな。柏田高校の在校生を中心に、各種のSNSに〝キイナ様〟と言う新手の都市伝説についての書き込みが散見された」

「へぇ? ですが、そんなもの眉唾レベルのデマにすぎないでしょう? その様な創作された怪談など幾らでもあるものですが」

 やはりと言うべきか、月宮は呆れてものが言えないと言った様子で手をひらひらとさせて、日崎の言葉を一蹴するのだが、それと同時に彼はこの様なデマを鵜呑みにする彼女では無い事を知っている。

「まぁな。だが、不自然な点は散見される。柏田高校が噂の発端にも関わらず、入念にSNSの投稿を調査したとしても、誰もその詳しい内容を知らない。と言うよりも、その結末を知らない。高校生が流すデマレベルの怪談にしては、少し不自然さを覚える。暇だったから、事の真偽は分からないまでも、念には念をと現地調査と偵察を行った。結果として、該当の高校に〝異質〟な雰囲気を感じさせた」

「……マジですか?」

 暇とか言う不純な言葉が聞こえた気がするが、月宮は一旦それを無視する。

 月宮は日崎の座るソファの向かいに、その骨組みを軋ませる音を立てて座り込んで、憂鬱を伴う重い溜息を吐きながら、

「……もう言いたい事は分かりますよ。私にその〝怪事件〟の調査をしろと言うのでしょう? バラクも整備出来ていないのに、他に適任を……」

 月宮はこの時点では、ただ調査を誤って、偶然にも〝異質〟な気配を柏田高校の校舎から感じたものだと考えていた。

 ただ、それを差し置いたとしても、何だか厄介な事になると言う直感にも似た、名状し難い、妙な胸騒ぎが胸中に木霊したのである。

「まぁ、そう言うな。あの二人にとっては貴重な夏だぞ? 大人しく青春をさせてやれ」

 少々、愉快そうに口角を上げた微笑を浮かべて、日崎は優しげに月宮を宥めるのだが、その少し後にいつもの仏頂面に戻り、真剣さを孕んだ声音で、

「調査をするならば、今日が良いだろうな。どうやら、この〝キイナ様〟の召喚とやらを、今夜、柏田高校の校舎で行う馬鹿者共がいるらしい。タイミングが良い、この機会に乗じて調査を進めてくれ」

「〝馬鹿者共〟は言いすぎですね。と言うか、もっと早く言ってくださいよ……」

「仕方ないだろ、SNS上にこの情報が投稿されたのが、今日の十四時頃だったんだから」

 その後に、ローテーブルを挟んで他愛の無い問答を繰り返して、月宮はハンガーラックに掛けられた黒のロングコートを手に取って、それに袖を通しつつ、

「では、朗報を期待しておいてください」

「おう、墓前には何を手向ければいい?」

「ハハッ、全く言ってくれますね」

 そんな軽口を交わし合って、

「――死ぬなよ」

 心の底から不意に漏れ出した様な、そんな真の哀切を伴った、無事を願う言葉が、今生の別れにも感じて、

「――ご安心を。もう、死ぬ気はありませんよ」

 ――蝉の鳴く音が異様に大きく聞こえた。


 暗黒が迸る。

 月宮煌輝は四階、惨憺たる儀式の現場となったとされる、突き当たりの教室へ向けて歩みを進めていた。

 先程、女子トイレに隠れていた宇都宮と言う女子生徒は、月宮を盾にして反対の方向に走って行った為、図らずも件の教室方面に向かったと思われる。

 好都合だろう。

 件の教室に月宮を呼び寄せたのが〝怪異〟側の前野であった以上、何かがあるかもしれないと言う情報は眉唾であろうと推測されるし、最悪の場合は罠かもしれないが、どちらにしても、宇都宮が向かってしまった以上は彼女を守りにそこへ向かうしかない。

 しかし、前野がこの学校に存在しないとは、一体どう言う事なのか。

(まぁ、諸々の疑問は、彼女に伺えば済む話ですね)

 一旦、脳裏に浮かんで来る数多の疑問を思考の片隅に追いやって、月宮は歩みによってゆったりと流れて行く鬱屈とした光景に目を走らせる。

 どこまでも、不快な空間だ。

 何故ならば、この空間は死んでいる。

 まるで、人の流れが完全に絶えて、誰もその空間を知らないし、知ろうともしない、そんな人々から忘却された廃墟の中を歩いている様な、沸々と湧き上がって来る強い孤独感と虚脱感。

 小綺麗で整備の行き届いた学校と言う外観を持ってはいるものの、それが逆に、何か悍ましく気味の悪い何かを塗り固めて覆い隠す様な、ムカデや毒虫が這う壺の中身を知っていて、その蓋を開封せずとも虫壺を視認するだけで肌が粟立つ様な、そんな実像を掴み切れずとも本能的に感じ取れる恐怖。

 これこそが〝異界〟の真骨頂であろうか。

 不自然なまでに〝自然〟に、どこまでも続いて行く様な深淵を映し出す廊下の側面に付けられた窓からは、まるで暗幕でも張られたかの如く一切の月光が差さず、最早それは黒いガラスとして作られたと言われても違和感を覚えない。

(……〝月明かり〟が差さないのは……)

 ――寂しい。

 そんな陰々とした情景に、いささか悲愁を覚えてしまうのだが、月宮はそんな感傷を振り払って、遂に廊下の突き当たり、件の儀式現場となった教室の前まで辿り着く事と相成った。

 本当に、何を言う事も無い。特筆すべき事などは何も無い。

 何の変哲も無い、教室の引き扉を眼前にして、月宮煌輝は凛然として立ち尽くしていた。

 空き教室なのだろう、扉の縁に付いている教室の用途を示す細い板版に付けられていた名札が、剝がされた事による白く掠れた痕跡を残している事から理解出来る。

 ここが儀式現場であろう事は疑いようも無い。

 だが、一つ気掛かりな事が。

 宇都宮が居ない。

 先の怪物と戦った地点から、ここまでは完全な直線であり、横合いに逸れる事は考えられない。道中にあった教室からは一切の人の気配を感じなかった。

 恐らく、この教室内に宇都宮が居るのではないか。

 道理だろうか、常識の埒外の怪物が狂気を振り撒きながら徘徊している学校ならば。

 部屋に入って隠れていたいと思うのは当然だろうか。

 ならば、何もこの部屋でなくても良いのではないか。

 全く、妙な巡り会わせだと、月宮は嘆息して、とにかく教室の引き扉の取っ手に手を掛けて、その狂気的な寒烈が満ちているであろう教室の扉を勢い付けて開け放つ。

 まるで、禁忌の封印を開放する様に。

「……」

 その教室は拍子抜けしてしまう程に〝普通〟であった。

 例によってか、照明の光や月明かりの差さない漆黒の教室内は、誰かに文字を刻まれる事が久しくなったと見える黒板や忘れられて埃を堆積させている物置棚、三十人分程の机と椅子が並べられた、哀愁を漂わせる普遍的な教室である。

 その中でも特筆すべきは部屋の中央に空間を作る様にして、四人が向かい合わせに座れる様に並べられた四セットの机と椅子である。

 上から見て十字を描く様に置かれたその机の上に、閉じられたA4サイズのノートが置かれているのが視認出来た。

 その他にも、何かに焦って立ち上がった際に、足がもつれて蹴り飛ばしてしまった様に倒れ込んでいる椅子が一つ、そこに存在する上、未だに懐中電灯機能によって光を放ち続けるスマートフォンが無造作に捨てられている。

(……状況的にここで儀式があった事自体は眉唾ではなかった……あのノートが五芒星を描く為に用いた触媒……?)

 そこまで思考をグルグルと逡巡させた所で、一つ余りにも単純な事を見落としている事に気が付く。

 ――その件のノートが置かれた机の前に、茫然自失として宇都宮が立ち尽くしていた。

 いや、茫然自失としていたかは分からない。少なくとも、月宮煌輝はそう見えた。

 ユラユラと実体を不確かにして、生命を主張しない冥界の幽鬼の様に、余りにも生気の抜けた立ち振る舞いに、月宮が一瞬だけその少女を〝闇〟と錯覚して、周辺の暗闇と同化して見えてしまっただけの事。

 今も宇都宮は、扉のかなり大きな開閉音を気にも留めず、ノートの前で悄然と俯いて、何かを考え込んでいる様に動かない。

 月宮と宇都宮の位置関係的に、教室に少し足を踏み入れた地点で、その綺麗に整った横顔を見つめる形となった月宮は、尋常ではない集中にも似た沈黙を少し訝しんで、宇都宮に声を投げ掛ける。

「宇都宮さん」

「――っ!」

 そこまで大きな声量ではなかったと思っていたが、この異常な状況に神経が昂っているのだろうか、宇都宮は凛然として耳朶を鋭く打つ月宮の呼び掛けに、その肩をビクッと大きく跳ね上げて、喉を絞め上げる様に息を詰まらせる。

「…………貴方ですか。ビックリさせないでくださいよぉ……」

 肺の奥に詰まっていた鉛の様に重い空気を吐き出すが如く、大きく息を吐いて、宇都宮は月宮にふわりと緩慢に向き直る。

「失礼。驚かせるつもりはありませんでした。それにしても、随分と遠くの教室へ逃げ込まれたのですね」

 悪癖だ。

 月宮は全ての事柄や事物を一旦疑って掛かる癖がある。何か物事や因果には明確な理由が無いといけない、と言う面倒な哲学を持っているのだ。

 宇都宮にも、その疑惑の視線は伝わっているらしく、彼女は少し居心地が悪そうに身動ぎをした後に右腕を左手で抱いて、

「そうですね、必死に逃げている内に突き当たりに着いて、とりあえず身を隠す為にここに……と言う感じです」

「…………全く道理ですね。ご無礼を。少々、シェイプシフター系の〝怪異〟への警戒で、神経が昂っていたのかもしれません」

 そう口では言うものの、月宮は全くと言って申し訳ないとは思ってはいない様子で、つんとした澄まし顔を見せている。

 月宮は飽くまでも、いつもの飄々とした調子を崩さずに、自身の存在を誇示している様にゆっくりと、宇都宮の居る場所へ歩み寄って行く。

 と言うよりも、件の儀式の触媒となった筈のノートが置かれた机に。

 夜陰を煌々と照らし出す月光を思わせる、月宮の横に薄く伸びる微笑を湛えた口より、荒んだ心を埋めて落ち着かせる様な語調の言葉が紡がれる。

「貴方には少しばかり聞きたい事があるのです」

 一歩、宇都宮との距離が詰まる。

「一つ、前野さんが、この学校に存在しないとはどう言う事ですか?」

「……? そんな人、単純に聞いた事が無いってだけの事ですよ」

 月宮の爛々と輝く紅の瞳は、掴んだ疑念を放そうとはしないらしい。

 二歩、宇都宮がこちらに体を正対させた後に、警戒を強め半身になって月宮と対峙する。

「二つ、貴方は〝キイナ様〟と言う単語に聞き覚えは? そして、その仔細をご存知ですか?」

「……すみません。そう言うオカルトは良く分からなくて」

 月宮が何か確信を得たかの様に紅玉の瞳を少し見開いた後に、少しばかり瞑目すると、射殺す様に目を細めて、透徹し切って澄んだ目を宇都宮に向ける。

 三歩、遂に月宮は宇都宮との距離をゼロにして、その隣に並び立つと、訝しげに眉を顰める彼女を意にも介さず、その机に置かれているノートを手に取って、それを天井に向かって掲げる様にして持ち上げる。

「三つ、貴方は何故、こんな夜遅くまで、校舎に残っていらしたのですか?」

「部活動が遅くまで続いてしまって……月宮さんは、この学校の文芸部のガチさ加減が分からないと思うので、理解して貰えないと思うんですけど」

 そう困った様に頬を掻きながら、目元を緩めて苦笑する宇都宮は、どこまでも自然で、普通で、異常さや不自然さを微塵も感じさせない。

 恐怖も無い。焦燥も無い。宇都宮はどうやら、月宮の質問に際して、ひたすらに〝困り果てて〟いるらしい。

 月宮はどこか、つまらなさそうな顔で見上げる様にノートの表紙を眺めている。

 どうやら、月宮が聞きたい事はこれで打ち止めらしい。

 滔々とした一連の質問の滂沱が勢いを無くして、急激に静まり返る教室内。

 何か音を発しようものならば、胸を圧する緊迫を放つ静謐さと言う見えない鉄線に、即座に身体を絡め捕られて、バラバラに刻まれてしまう様な、そんな言い表し難い凄絶な沈黙。

 そんな時間が凍り付いた様な停滞した状況を変化させたのは、

「――ッ! 危ない!」

 凪の水面に小石を投げ入れる様に、宇都宮がピタリと静止した大気を鋭く裂く様に大きく叫ぶと、月宮に全身を用いて、タックルの要領で飛び込んで来る。

 必然、唐突な出来事に十分な用意をする事が出来なかった月宮は、殆ど抵抗する事も出来ずに、宇都宮に覆い被られる形で地面に倒れ込む。

 何を、と宇都宮に行動の真意を問い掛ける前に、

 ――月宮と宇都宮の頭上を、何か黒々とした大きな塊が通過していた。

「――ッ」

 その黒々とした丸太の様に太い塊は、高速と形容出来る程の速度で月宮と宇都宮の頭上を禍々しい風切り音を立てて通過すると、大気を穿って破砕するそれは、その進路にあった机や椅子を、爆音を鳴らしてバラバラに吹き飛ばし、先にある壁に壮絶な衝撃によるヒビを刻み込んで、ようやく加速度を殺し切った。

 急な出来事に息を詰まらせて驚愕を露わにする月宮は、咄嗟に漆黒の塊が飛来して来たであろう場所に視線を向ける。

 それは、目を凝らしてみれば、黒々とした塊などでは無かった。

 形容するならば腕。

 何故ならば、教室の壁面に凶悪なヒビと陥没を齎した黒々とした塊は、教室の出入り口に立っている人型の右腕と思しき部位が、伸びているにすぎなかった為である。

 ――それは、この世界に顕在化した慄然たる狂気の体現者。

 今までに邂逅したどの〝怪異〟よりも、シルエットで言えば人型に最も近い筈であるのに、それを認めたくない、いや、認められない。認められる筈も無い。

 その威容は一言で形容が出来てしまう。

 それは、気味の悪い粘液のテカリを帯びた、黒々としたヒルと形容出来る触手や触腕が複雑に絡み合って、人の形を成している、ただそれだけの存在。

 それにも関わらず、人間を模った威容から吹き荒ぶ、身震いをさせる狂気の暴風は、一気に教室の大気を席捲して、月宮の腹の底に吐き気を催す何かを落とす。

 漆黒の右腕をゆっくりと自身の身体の傍に引き戻して、真の怪物は赤黒くも炯々とした真紅の眼光を以て、月宮と宇都宮を睥睨していた。

(――ッ! あれは……いや、あれこそが……〝キイナ〟……!)

 月宮煌輝は数多の〝異質〟な修羅場を潜り抜けた経験則から、本能的にこれが〝怪異〟の中心点であると実感した。

 背筋を紫電の如く走る強い焦燥感に従って、覆い被さる宇都宮と共に転がる様に膝立ちになって、稲光を思わせる速度を以てジェリコを右手で抜き放つ。

 だが、違和感。

 漠然と何かが足りないと言う、首筋を悪魔が愛撫する様な、もどかしい感覚。

 その漠然とした疑念の解を得る直前に〝キイナ〟は攻撃を開始する。

 ――筈だった。

「――何を……」

 月宮が愕然として、漏れる呼気と同化してしまっている程にか細い声で呟く。

 ――何故ならば、漆黒の異形は素早く自身の触手を伸ばして、床に落ちているノートを拾い上げたかと思えば、こちらを一瞥する事も無く、即座に教室から出て行ってしまったからだ。

 そう、月宮は宇都宮に覆い被られた際に、手に持っていたノートを地面に落としていたのだ。

 拍子抜け、と言うものであろうか。

 急激に緊張が減圧して行く空間の緩みを体で感じ取って、月宮は肺に痺れる様な瘴気を深く吸い込んで行く。

 今なら、この瘴気としか思えない忌々しい大気すら、深呼吸で取り入れる事に躊躇いは無い。

「……〝アレ〟……何をしに来たんでしょう?」

 不安からか、ジェリコのグリップの感触を確かめる様に握り込んでいた月宮に、ふと宇都宮が不思議そうに呟いた。

「――アレに何か目的があったと言う視点ですか? 興味深いですね」

 確かに、アレには何か明確な目的意思があった様に思える。

 恐らく、儀式の触媒となったノートを手中に収める事。

「……あのノートが〝怪異〟にとって重要なものであり、私に調べられたり、持ったりされていると不都合……と言う事ですかね」

 とりあえず、月宮はそう結論付ける。

 だが、月宮と宇都宮を殺さなかったのは、どう言う事なのだろうか。

 どちらにしても、あのノートが鍵である事は疑い様も無い。

「さて……次はどうする?」

 独り言の様に、誰に聞かせる訳でも無く、口の中だけに反響させる程の声量で呟いて、月宮は状況を整理し始める。

 この儀式は〝キイナ様〟を呼び出すだけのもの。

 だが〝殺シタイ人間ハイルカ〟と言う紙片の情報から、単純な召喚の儀式では無いと予測される。

 そもそも、何か特定の行動をして呼び出す、と言うタイプの〝怪異〟は数が少ない。

 今回、儀式を行った人数は、SNS上の投稿から四人であると推測される。

 今まで殺して来た〝怪異〟は三体。そして、あの〝キイナ様〟の本体と目される存在を含めて四体。儀式を行った人数と一致する。

 SNS上に上がっている情報には、召喚手順しか乗ってはおらず、何が起きるのか、どうしたら退散させられるのか、と言った情報は無い。

 柏田高校にて、儀式で何が起こるのかの情報が無く、行方不明者が発生していない事から、今回の事案が初めての召喚と思われる。

 前野が宇都宮を認知していると思しき発言。しかし、宇都宮は前野がこの学校に存在しないと断言。矛盾。

 幾らでも脳に湧いて出て来る疑念に解を出す為に、思索の海に意識を溺れさせている月宮なのだが、やはり、足りない。

 決定的なピースが足りない。

 この状況、完全に踊らされている。

 まるで滑稽なまでに面白可笑しくおどけて見せて、笑いを誘う事を強いられる道化師の様に。

 それでは、ピエロではなく、マリオネットではないか。

 何かのゲームを遊んでいて、それで自分が負けている時に感じる退屈やつまらないと言った感情は正常だし、まだ遊べているだけマシだ。

 だが、この状況はその大前提にすら則ってはいない。

 自身が完全に蚊帳の外になってしまって、傍から他人が取り組んでいる脱出ゲームを見続けるなど、興醒めの一言だ。

 急に黙りこくって、難しそうな顔で眉を顰める月宮の事を見兼ねたのか、宇都宮は思い出した様にパンッと手を打って、

「――そうだ! その〝キイナ様〟でしたっけ? あの噂、図書室から始まったんですよ。何でも、図書室の本の一つに、儀式の内容が書かれた紙が挟まれていたって。何度もその紙を捨てるんですけど、明日には本に新しく挟まれているって。手詰まりなら、図書室に行くのも……」

 恐らく、この状況を作り出したかった何者かが、風聞が広まる事を期待して、その様な行動をしていたのだろう。

「……現状、宇都宮さんの情報だけが手掛かりですね。分かりました。そちらに向かいましょう」

 何故か、不満そうに言葉を濁らせながら、宇都宮の提案を肯定した月宮は、悠然とした歩みで、しかし、どこか焼かれんばかりの焦燥を伴った歩調で、教室の吹き飛ばされて無くなった扉へ向かって行く。

 嫌な水気を帯びた、這う様に教室の隅々まで走る暗澹たる影を踏み潰して、月宮は混沌と狂気が吹き荒ぶ廊下へと足を踏み入れて、その渦中に身を躍らせた。

 ――宇都宮がそんな月宮の後ろ姿を、感傷的な瞳で見つめているとも知らず。


 どうやら、件の図書室は四階の西棟の端、つまりは儀式のあった教室から丁度反対側に存在すると言う。

 件の教室から廊下に出て、そのまま曲がる事なく真っ直ぐ歩いて行けば、図書室に到着する予定である。

 相も変わらず、一切の光が差さない暗澹たる廊下を照らすのは、月宮の炯々と光を放つ紅の瞳と宇都宮のスマートフォンから放たれる懐中電灯の光源である。

 鬱屈とした闇に包まれた廊下の瘴気に引き摺られて、胸中に鉛が如く重い緊迫と焦燥が満ちるのが、耐え難いと言わんばかりに、宇都宮が言葉を発する。

「……こんな事をこんな状況で聞くのもアレですけど、月宮さんって本当に何者なんですか? 拳銃を持っていたり、凄く強かったり……どんな人生を歩んで来たんですか?」

 周辺への警戒を緩ませず、常にホルスターに納められた黒鉄の拳銃に右手を置いて、索敵を行っていた月宮が、そんな当然とも思える質問に、少し呆気に取られた様に眉を動かして、何かを思い出す様に瞑目する。

「自分の事を他人に話すのは、苦手と言うか、少し憚れると言うか、そう言うのは他人が行うから箔が付くと思っているのですけどね……まぁ、簡単に言えば恥ずかしいのですよ」

 そう恥ずかしそうに、困った様に苦笑した月宮は、鼠色のコンクリートで出来た天井を仰ぐ様にして見上げる。

 まるで、満天の星空に懸かる月を探す様に。

「私の人生は聞いていて面白いものではありません。まぁ、高校生になるまでは、変人と呼ばれて、疎まれる様な人間ではありましたが、普通に人生を謳歌していましたとも」

「……〝高校生までは〟?」

 淀みなく歌う様に、澄んだ声色で、月宮は普段にも増してニヒルな笑みを浮かべながら、滔々と語り出す。

 天井の一点を食い入る様に見つめている。

 疑い様も無い、彼は月を見ようとしているのだ。

「……満月が、綺麗な夜でした。窓から差す月光が、殊更に美しかったのを覚えています」

 月宮はそこで言葉を切って、意を決する様に深く、深く息を吸う。

 ジェリコに置いている月宮の右手が、微かに震えているのが、宇都宮の目に留まる。

「――その夜、私は両親を殺しました」

 その言葉が宇都宮の耳朶を打った瞬間、様々な思考が溢れ出す。

 絶句して二の句を継げない宇都宮は、何故、と言葉を発しようとした。

 が、それは詰まってしまった様な閉塞感が襲う喉からは出て来られず、意味のある言葉として大気を震わせる事は無かった。

「この世界には、所謂〝異能〟を持つ人間が存在します。数は少ないですが、心から生まれた特異な力を操る人間が、この世界には存在する。私は……〝異能力〟を暴走させ、両親をバラバラに引き裂きました」

 月宮が今、どんな顔をしているのか、彼の後を付いて行っている宇都宮には分からない。

 だが、分からないまでも察する事は出来る。

 きっと、最悪な顔をしているだろう。

「その後、とある男に拾われました。悪名高い〝異能連合〟と言う組織の頭領である男に。そこでたったの一年間、殺しの技術を磨きながら、人様には言えない様な悪業を犯しました。そんなある日、一人の女性を殺害しろ、と言う命令が下されました。何でも〝連合〟の頭領にとって、因縁の相手だと」

 そこで、月宮が纏っていた、刺々しい悪性の覇気にも似た雰囲気が、少しだけ和らいだのが、素人の宇都宮にも感じ取れた。

「その女性を私は殺そうとしましたが……ふふっ、全く敵いませんでした。百回挑んで九十九回は死んでいる。そんな、雲泥の大差。これ程の強さを持つにも関わらず、彼女は私を遂に殺そうとはしませんでした。これは、強さによるものではなく、彼女の心の強さによるものであると、心の底から実感しました。彼女は私に、一緒に来い、と言いました。そんなもので、私達は〝異能連合〟に対する組織として〝異能結社〟を立ち上げました。最初に名乗りましたね、私は〝異能結社〟の二代目代表だと。そうして、私は様々な人に支えられて、ここに立っています……つまらない話でしたね」

 泣き出してしまいそうな程に、悲哀の雰囲気を纏った月宮は、背後を歩いている宇都宮に首だけ振り向く。

 普段の調子と変わらない、横に薄く伸ばして口角を少しだけ上げた完璧な微笑を浮かべて、

「そんな、つまらない話しか出来ない人間が私です。別に、特別な訳じゃない。凄い訳でも無い。ですから、信じてください。私は人間なのだと。貴方と同じ、人生に懊悩し、混迷し、苦悶する。そんな、等身大の人間なのだと……私は何を言っているのでしょうね?」

 自然と口を衝いて出てしまったキザな言葉に、月宮は歯が浮いてしまったと言う様子で頬を掻いて、恥ずかしそうに片目を伏せる。

「全く、これだから自分語りは……言わなくても良い事を言ってしまうから、全く、全く、嫌ですね」

 こうして、月宮と宇都宮は四階の西端、図書室の前に辿り着いた。

 世界中の禁書指定された本を集めて、それを封印している書庫に踏み入る様な面持ちで、月宮は眼前の扉を勢い良く開け放った。


 眼前、広がるのは何の変哲も無い、図書室の光景。

 外縁に沿う様に多数配置された、天井にまで届かんばかりの大きな本棚に、部屋の中央には利用者が本を読む為の大きな木製の机や椅子が設置され、窓際には自習用だろうか、仕切りの付いた机や椅子のセットが並べられている。

 当然ながら、窓の先の光景は視認の一切を拒んでおり、暗幕でも張られたかの様に完全な闇で覆われていた。

「〝怪異〟が出ないとも限りません。出来るだけ離れない様に」

「……」

 そう月宮は宇都宮へ注意を呼び掛けて、この空間全体に神経を張り巡らせる様に最大限の警戒を行っていた。

 まるで、巨大な生物の口腔へと放り込まれてしまったと錯覚する程に嫌な湿気を帯びた、不気味な闇が支配する図書室を慎重に縦断して行くと、月宮は眼前の大きな机の上に、黄ばんで古ぼけた、妙に目を引く一枚の紙を発見する。

 どうするか、一瞬だけ考えを巡らせたが、ここでこれを読まない選択は無いだろう。

 この事件と言う名の物語の核心を担う情報であると期待して、その一枚の紙を右手で拾い上げると、月宮は素早く目を通し始める。


 呪術 ■■■■(鉛筆か何かで黒く塗り潰されていて、判読不可能)

 奇忌名様、召喚の儀式についてのメモ書き(キイナの当て字か?)

 召喚方法 〝キイナ様、キイナ様、お越しください〟と紙に書いた五芒星に向かって発話する。お越しくださいの部分は、こちらに来て欲しいと言う意思を伝えられるものならば、どんな言葉でも代替可能。

 詳細 召■の■■に従って■■■■を呼び■■■■合、儀■を実■■■人物は即座に■■し、■■■■■■する。そして、■■が誘い込んだ一人、もしくは複数人を■■する事で、儀式は成功する(前半部分が特に掠れていて判読不能)

 退散方法 儀式を行った場所で、召喚方法と逆の事をすればいい。


(この儀式は、ただ単に〝キイナ様〟と言う架空の都市伝説を呼び出すだけのものじゃない。成功と失敗がある時点で、それは確定的だ。まさか、この儀式は……)

 そこまで月宮が思考を電流の如く逡巡させた時点で、彼はゆっくりと振り返る。

 その一枚の紙を机に置いて、図書室の引き扉の傍から離れずに、黙ってこちらを見つめている宇都宮と正対して、月宮は凄絶なまでの威圧感を発しながら、剣のような鋭さを持った言葉を紡ぐ。

「――それで? 貴方、何者なんですか?」

 ――神速の如き素早さで抜き放った、黒鉄の拳銃の銃口を宇都宮に突き付けながら。

 刹那、啞然として目を見開いた宇都宮は、そんな事を言われる筋合いは無いと言わんばかりに、顔を歪めて言葉を紡ぐ。

「何者なんですかって……私は柏田高校一年の宇都宮千秋ですよ。何の事か分かりません。と言うか、人に銃を向けるなんて……冗談っぽいですよ……? 月宮さん……」

 疑われている事は、出会った時から気付いていただろう。

 だが、こうして実際に、卓越した殺人者の圧と疑念を一身に受けて、宇都宮は狼狽を隠せず、心外だと腕を震わせて、月宮を宥める様に声を掛ける。

 そんな言葉に、月宮は耳を貸す事も無く、更に追い詰める様に鋭利な言の葉を刺し込んで行く。

「――だって、貴方〝死ぬ〟と思っていないでしょう?」

 それは、宇都宮の持つ核心に近い言葉だったのだろうか、彼女はその言葉を一聴した途端に、押し黙って声を発する事が出来なくなってしまう。

「余りにも〝普通〟すぎます。そんな、散歩の延長線上みたいな顔をして、この空間に居られる訳がありません。まるで、ゲームマスターが脱出ゲームを行う参加者を傍観している様な、そんな真の意味での〝上から目線〟を、貴方からは感じます。貴方が感じている恐怖や焦燥は、怪物による死や脱出が出来ていない現状へ向けられているものでは無いですね?」

 月宮は、濁流を思わせる程の勢いで捲し立てる。

「最初に出会った時から、私は貴方をこの〝怪事件〟の関係者だと思っていました。何故ならば、この空間に招かれているからです。残業で残っている教職員や様々な事情で校舎に残っている生徒達を差し置いて、貴方だけが、です。それにも関わらず、貴方は〝無関係〟であると言う顔をしている。怪しむな、と言う方が無理な話ですよ」

 一つ、一つ、宇都宮に抱いた疑惑の事由を、月宮は無遠慮に指摘して行く。

「私が貴方に『〝キイナ様〟と言う単語に聞き覚えがあるか』と聞いた事がありましたね。その時、貴方は『オカルトは良く分からない』と、言いました。どうして〝キイナ様〟と言う単語のみで、何も知らない筈の貴方がオカルト的な事だと分かったのですか? 別に、日本の民俗学の単語かもしれないではありませんか。そもそも、この図書室がこの噂の発端だと知っている時点で、この〝キイナ様〟と言う単語を知らない筈が無いのですけどね」

 そこで、月宮は波浪の如き疑念の濁流を打ち止めて、図星なのか押し黙って、蠟で固めたかの様に無表情な宇都宮を見つめ返して、

「――再度、問いましょう。貴方、何者ですか?」

 月宮はこの時点で、宇都宮がこの〝怪事件〟の関係者、最悪の場合、黒幕である可能性まで視野に入れている。

 ジェリコの無機質に人間を喰らう鋼の冷たさを持った銃口が、鈍い金属の輝きを放って、宇都宮を狙い澄ます。

 そんな、人間を容易く貫いて、物言わぬ肉塊へと変じられる凶器を前にしても、宇都宮は全くと言って良い程に狼狽える事はしない。

「………………はぁ、生きて帰すつもりは無かったけど、ここかぁ……まぁでも、バレるに決まってるか」

 突如として、宇都宮が纏っていた空気が一変する。

 ――刹那、図書室の扉が勢い良くバッと開け放たれる。

 もう既に扉を開け放った存在に心当たりがあると言った様子で、月宮は開け放たれた扉の先を泰然と注視する。

 ――それは、現実に顕現する筈も無い〝虚構存在〟

 ヌメリのある漆黒の触手や触腕を人間の型に絡めて形成した様な、生物の根幹を悉く冒涜した、そんな異形の〝怪異〟が、宇都宮の隣に並び立つ。

 その漆黒の異形が左腕に持っているA4サイズのノートを、宇都宮は泰然と受け取って、それを手中に収める事と相成った。

 明らかに、宇都宮が漆黒の異形を従えている。

「――〝異能力者〟……!」

 月宮は少しの驚きに顔を強張らせて、宇都宮と漆黒の異形を交互に一瞥した後に、彼は合点が行った様に声を紡ぐ。

「そうですか……道理で自分が死ぬとは思わない訳ですね。ゲームマスターなのですから。つまりは、貴方がこの〝怪異〟を生み出した元凶。そして、この儀式の本質は恐らく、何も知らずに儀式を実行した人物を殺す、そんな呪いの儀式。前野さんを知らないと言ったのは全くの噓、危機感を抱いた私に前野さんを殺させる為ですか。後は、誘い込んだ私を殺せば、儀式は成就する、と言ったところでしょうか? 宇都宮千秋さん?」

 もう確認を取る必要などない程に、確信を得ている月宮が、宇都宮に向けて一応の確認をしてみると、彼女は感心したと言った様子で、

「そこまで分かるものなんですね、探偵さんって言うのは。まぁ、大体は合ってますよ。〝異能〟でしたっけ? 私が生まれた時から使えた能力。私の唯一の〝お友達〟」

 そこで言葉を切って、何か勿体ぶる様に言葉を溜めつつ、

「――私はこれを『アーバン・レジェンド』と呼んでいます。私が想像した都市伝説のキャラクターを現実に呼び出して、操れるんですよ。設定も、能力も、自由自在です。凄いと思いませんか?」

 意気揚々と、自身の〝異能〟の内容を公開した宇都宮の顔は、まるで、自身の手柄を褒められる事を期待する子供の様な、そんな自信に満ち溢れている。

「……何故、前野さんや荒戸さんを殺したのですか? いや、こんな悪趣味な方法で、無関係な人まで巻き込んで……」

 そうだ。宇都宮の〝異能〟が情報の通りならば、文字通りの完全犯罪だって可能だし、もっと楽に殺す事だって出来る筈だ。

 この状況は余りにも、手間が掛かりすぎる。

 その疑念と憐憫をごちゃ混ぜにした様な声音の言葉が宇都宮に届いた瞬間、彼女の感情はどうやら決壊したらしい。

 憤怒に体全体をブルブルと震わせて、青筋を立てる程に顔をクシャクシャに歪ませて、肺に満ちた空気を全霊で以て吐き出して、この惨澹たる空間の大気を大きく震わせる。

「――私は、あの四人にいじめられていたの! トイレで水を掛けられた! 靴に画鋲を仕込まれた! 椅子を雑巾で濡らされた! 殴られた! 蹴られた! 土とか虫だって食べさせられた! 私が何も言い返してこなさそうだからって……! だから……だから! 私の感じた苦痛を! 兆倍にして返してやろうって! そう決めた! だから、何ヶ月も準備して、今日、あいつらを煽ってやった。呪いの儀式をしてみろ、ビビりじゃなければ出来るよねって! それで、まんまとあいつら引っ掛かった……! トイレに隠れている時、笑いが止まらなかった。あいつらの最期を見届ける為に、わざわざ夜まで校舎に残ってさ、何にも起こらなかったら、どうしようかと思った! これの何が悪いの!? 私があいつらに復讐したって、誰も文句は言わないでしょ!? そもそも、私があの四人を殺したって、誰も知る事は無いけどね! それでも……月宮さんは私のやる事を止めるの!? あいつらの味方をするの!? 私が異常な能力を持っているから、それで罪を犯したからって、私を糾弾するの!? 貴方だって、人殺しの癖に! そんなのおかしいって……分からないの!? ……何か言ってよ、月宮さん!」

 今まで心に堰を作った様に溜め込んでいた感情が一気に溢れ出した影響だろう、顔を興奮に紅潮させて、異常に逸る心拍に顔を顰めて、宇都宮は喉が張り裂ける程の声量と勢いで、月宮に言葉をぶつけて来る。

 それは、正しく、魂からの叫び。全くの偽りの無い、心の底から漏れ出した、本音と言う名をした苦痛の一滴。

 最早、薄くキラキラとした涙の膜を張っている宇都宮は、その悲しみに満ちた瞳で月宮を射抜く。

 一瞬の内に、暗澹とした空間全体に波及して行く、狂熱と哀絶。大気の性質が、一気に転換して行く。

 月宮煌輝が、今どんな顔をしているのか、涙でぼやけた視界の所為で宇都宮には分からない。

 だが、月宮の顔から、笑みが消えたのだけは、本能的に理解出来た。

「――だから、なんですか?」

「……えっ?」

 何の前触れもなく、月宮がポツリと、しかし、確かな義憤を感じさせる声音で呟く。

 今まで、合理的に、冷静に、飽くまでも事務的に、この状況を解決しようとしていた月宮が、宇都宮に初めて見せる、言わば〝感情の色〟

 ――月宮煌輝の取り繕われた仮面が決壊する。

「――『だから、なんですか?』と言ったんですよ。貴方、その程度の事で殺人が許されると本気で思っているんですか?」

「……ッ! 何を言って――」

 月宮の鋼の如き冷たさを孕みつつも、触れるだけで灰と化してしまいそうな熱を持った言葉に何か言葉を続けようとする宇都宮に先んじて、

「貴方、そのいじめとやらを、真に解決する努力をしましたか? 友人は? 家族は? 先生は? 身近な人に相談をしましたか? 公共の機関には? 児童相談所やいじめ相談ホットライン、こどもの人権110番、ヤング・テレホン、教育委員会、東京都の教育相談センター、24時間いじめ相談ダイヤル、何なら、スクールカウンセラーの方もこの学校に勤務していらっしゃいますよね? 本当に貴方は、自身が出来得る最大限度の努力をして、全く改善しないと結論付ける水準の過程を踏んで来たのですか?」

「それはッ……!」

 月宮は憤っていた。

 そんな、簡単に人を殺すと言う選択に至ってしまう、宇都宮の惰弱な人間性とここまで精神的に追い詰めた全てを。

 当然、いじめは加害者の方が絶対的に悪い。

 勿論、自身を棚に上げるつもりは無い。だが、殺しは駄目だ。

 そんな安易な現実逃避を、月宮煌輝は許さない。

「そうして、自身が法の中で出来得る、最大限の努力をした上で、ようやく、加害者にささやかな復讐が許されるんです。そいつらの靴に泥を詰めてやりましょう。家を暴き出して、いたずらの手紙を投函してやりましょう。教科書を川に投げ捨ててやりましょう。それでも改善しなければ、その時はバイバイです。もう自分から離れましょう。泣き寝入りに等しいですが、殺害よりは断然マシです」

 もう、宇都宮は一切の言葉を紡ぐ事が出来ないらしい。

「貴方は、そう言ったものを飛び越えて、殺人と言う最悪の選択をしてしまった。更に酷いのは〝異能〟による殺人と言う事です〝異能〟での殺人は癖になりますよ。現代の司法では裁けないのですから」

 そこまで、憐れみと憤りを込めた言葉を言い切って、月宮は少し自身を落ち着かせる様に深く溜息を吐いて、

「……宇都宮千秋、ご再考を。私に貴方を信じさせてください」

 そこで月宮は、右手の拳銃が向ける銃口を宇都宮から下ろして、慈愛にも似た面持ちで左手を差し伸べる。

 その荒々しくも的確な言葉の暴風は、確かに至言であるのだろう。

 だが、正論とは、言い方を変えれば理想論である。

 その様なものは、宇都宮にとっては今更と言うものである。

 宇都宮は現状に絶望し切ったと言った暗い顔を俯かせて、目を泳がせながら何かを逡巡しているのだが、それも遂に終わったらしい。

 何か、壮絶で悲壮な決意を感じさせる、強い意思を持った瞳で月宮を射殺す様に見つめ直すと、

「――すみません」

 そんな言外な宣戦布告を、月宮に向けて傲岸不遜に言い放った。


「――〝キイナ〟!」

 ――瞬間、真に無意味で切に狂気的な戦端が幕を開ける。

 大気に痺れを波及させる様に響く宇都宮の叫びに呼応して、漆黒の異形が体をビクビクと蠢かせて、その右腕を高速で薙ぎ払って来る。

 空間を荒々しく引き裂いていると錯覚する程の膂力と速度の籠った、漆黒の薙ぎ払いに対して、月宮はその姿勢を地面に着く程に屈めて、紙一重の距離感で躱して見せる。

(まずは、あのノートを確保する)

 その攻撃の範囲にある机や椅子、本棚を積み木でも崩すかの様に吹き飛ばす横薙ぎが、頭上をギリギリの地点で掠めたのを感じた月宮はそのままの姿勢で突貫する。

 幸い、眼前に存在した机や椅子は、異形の怪物が薙ぎ払ってくれた。

 苛烈な火花を散らしていると思える程に狂熱を孕む空間を、月宮は疾風と一体になって、疾駆して行く。近付けさせない為か、鞭を上から振り下ろす様な触手の打撃を漆黒の異形は幾つも放って来るのだが、月宮はそれを横合いに跳ぶ事で回避して行き、右手に担う黒鉄の拳銃を発砲する。

 パァン! と言う雷が落ちた様な轟音が、空間を無遠慮に駆けて行く。その宛先は、漆黒の異形。大気を穿つ真鍮の弾丸は、音の壁を超える速度で頭部、両腕、水月、腹部、両脚にほぼ同時に着弾したと思えば、その深淵を映した肉体を少しばかり抉って、その運動エネルギーを全損させる。

 やはり、拳銃弾程度の力では、この〝怪異〟を一撃で屠るには不足らしい。

 だが、接近自体は叶う。

 距離にして、三メートルの地点。月宮がたったの数歩、踏み込めばゼロになる。

 白熱して加速して行く思考に従う様に、肉体が巡らされた心血を用いて、月宮の肉体に運動能力の向上を授けてくれる。

 じんわりと体全体に広がって行く、恵みの熱血に氷を差す様に、

「――〝口裂け女〟」

 ――瞬間、月宮の横合い、並び立つ本棚の隙間から、何か鈍い金属の輝きを放つものが瞬きの内に飛び込んで来る。

 刹那に接近を中止、月宮は左腿に差してある銀色のナイフを抜き放ち、ほぼ山勘で金属の輝きを放つ何かを迎撃する。

 逆手で担った銀色の短剣と大振りな金属の塊が衝突し合う。キィィンと言う激しく甲高い金属音を立てて、短剣と金属塊は凄絶に衝突し合って、その余りの膂力に月宮は押し切られて、背後にある本棚の山に向かって吹き飛ばされてしまう。

 埃の混じった噴煙と滅茶苦茶な木屑が噴き出して、本棚の山に突っ込んだ月宮は、強い衝撃に脳が揺れる感覚に、意識を少し明滅させながら、自身を吹き飛ばした存在を睨み付ける。

 それは、赤いコートを流麗に着こなした、女性の様なシルエット。

 だが、その女性の頭は縦に二つ付いており、まるで団子でも見ているかの様だ。

 更に、その連結された頭を纏めて縦に引き裂く様に、凶悪な牙の付いた口が覗いている。

 口が縦に裂けた、頭が二つのバケモノ女、と言った様相である。

 宇都宮はこれを〝口裂け女〟と言った。

「……趣味が悪いですね」

 そう言わずにはいられない程に、常識から外れた美的感覚だ。

 口裂け女は、右手に担ったハサミの片刃の様な武器を禍々しく掲げて、月宮を四ツ目で睨み付けた後に、猛然とこちらに走り込んで来る。

 咄嗟に、黒鉄の拳銃を口裂け女の両足を目掛けて発砲したのと同時、月宮は横合い、漆黒の異形から距離を取る形で転がり込んで、残った本棚を盾にする様にして走り出す。

 その発砲の結果、グチュリと口裂け女の両足の付け根は破砕されるが、それを意にも介していない様子で再び月宮に駆け込んで来る。

 月宮の疾走を捉えようと、漆黒の異形の触腕が鞭の様に振るわれる。本棚を何の意味も持たない木片に変える程の威力の打撃が、月宮のすぐ傍に着弾し、バラバラに粉砕される本棚の残骸が、彼の未来を予見している様だった。

 辛うじて触手の乱打を躱して、中央の机や椅子が立ち並んでいた空間に躍り出る。

 いや、誘導された。

 月宮を追跡して、口裂け女が本棚の残骸を踏み砕いて、彼の横合いから迫って来る。

 それと同時、眼前から、まるで放射状に打ち込まれる様な、極大の範囲を覆う、触腕の打撃が上方より襲い来る。

 正しく、必至。致命傷は避けられない。

 だが、月宮は一つ、宇都宮の『アーバン・レジェンド』の情報に違和感を覚えている。

(……何故、宇都宮さんは〝キイナ様〟の伝説を学校に広める必要があった? いじめグループが実行しやすい様に、とも考えられるが、やはり、足が付くリスクや不用意に他人を巻き込むかもしれない事を考えても、噂を広める意図が分からない)

 ここで、月宮煌輝は一つの結論を弾き出した。

 宇都宮の『アーバン・レジェンド』は、その名の通り、不特定多数が認知している必要があるのでは?

 ならば、不特定多数が信じている設定の通りの弱点が、この〝怪異〟にもあるのでは?

「――〝ポマード、ポマード、ポマード〟滑稽ですが、口裂け女はこれで怯むと――」

「――キィィィィィイィイヤァァァアァァァアアアァァ!」

 ――月宮が謎の符丁を唱えた刹那、口裂け女が縦に裂けた口を大きく開いて、甲高い叫喚を響かせていた。

 ――瞬間、口裂け女の肉体が、それが噓の産物であったかの様に、凄絶な爆破に巻き込まれたが如く消失してしまう。

「……なっ」

 その一見して意味の分からない光景を目の当たりにして、宇都宮の顔面が驚愕に酷く歪んで、食い入る様に口裂け女が居た空間を凝視する。

 月宮は前方より来たる、放射状に爪痕を残そうと迫る触腕の打撃を、その合間を縫って躱し切って、再び前進を開始する。

 やはり、宇都宮の『アーバン・レジェンド』は、不特定多数の人間の認知によって成立しているらしい。

 そして、その弱点を宇都宮自身は、今の今まで認知していなかったらしい。

「実戦不足ですか?」

「――ッ! うるさい!」

 熱を持った様に白熱して行く戦端にて、月宮煌輝はギザギザに生え揃った歯を剥き出しにして、更に一段階、その運動能力のボルテージを引き上げる。

 最早、その走行速度は人間のものでは無い。

 月宮は漆黒の異形から放たれる、暴風雨にも等しい触腕の乱打を紙一重で躱しつつ、徐々に宇都宮との距離を詰めて行く。

 右手には黒鉄の拳銃を、左手には白銀の短剣を担って、月宮は眼前に迫る触腕を穿ち、逸し、往なし、斬り払い、上方より迫る触手を拳銃弾で撃ち落とし、漆黒の拳銃と白銀の短剣による一糸乱れぬコンビネーションで、狂気の怪物の致命的な一手を退けて行く。

 暗闇の中に散って行く黄金の火花と白銀の澄んだ反射光が、場違いなまでに美しい色彩を見せる。

 どうにかして、あのノートを奪い取らなければならない。

 だが、漆黒の異形の背後に立った宇都宮から、直接ノートを奪い取るのは至難の業だろう。

 やはりと言うべきか、月宮の進行速度は徐々に低下して行っている。

 正しく、息を吐く暇も無く吹き荒ぶ漆黒の触手の乱打に、月宮は接近を妨げられてしまっていた。

(このままジリ貧ならば……少しこちらのプロットに付き合って貰いましょうか)

 ――瞬間、月宮はジェリコの引き金を引き絞って、その雷管を撃発させていた。

 音の壁を越えて飛来する二発の鈍い弾丸は、宇都宮の頭上、天井に埋め込まれる様に設置された電灯を炸裂させていた。

 パァン、と言うガラスの割れる快音が響き渡って、宇都宮を目掛けて鋭いガラスの破片が降り注いで来る。

「――うっ」

 少し狼狽して声を漏らして、咄嗟に右手に担うノートでガラスの雨を防ごうとする宇都宮へ割り込む様に、漆黒の異形がその黒々とした触腕でその全てを散らして防ぎ切る。

 一瞬だ。一瞬だけ、漆黒の異形の攻撃が止まった。

 刹那に、月宮は右斜め前に跳躍する様に大きく踏み込んで、宇都宮との射線を確保した。

「……あ」

 宇都宮は堪らず死を直感する。

 何故ならば、月宮の透徹した瞳と重なる照星と照門が、宇都宮に向けられているのだから。

 パァン! 耳を劈く様な鋭い轟音が空間に響き渡った。

 その静謐さを孕む宙を舞うのは、宇都宮の鮮血などではなく、彼女が手に持つノートであった。

 月宮は、宇都宮が高く掲げる形になったノートを撃ち抜いたのだ。

 だが、そんな事をしても、ノートが貫かれるだけであろう。

 しかし、月宮は〝キイナ様〟がノートを奪い取って行った場面を目撃している。月宮の反応を許さない為、それなりの速度と膂力でノートを掴み上げた筈にも関わらず、ノートは一切損壊していなかった。

 殆ど賭けに等しかったが、やはり、触媒となったものには、破壊不可能の性質が付与されているらしい。

 パラパラとページを風ではためかせながら、宙を舞って行くノート。

 強い痺れに痛みと震えを発する右手を、宇都宮は空中に伸ばすが、それよりも月宮が圧倒的に素早い。これは単純に、月宮はこれを前提に行動を組んでいた為である。

 床を強く震えさせる程の踏み込みで跳び出して、空中に身を躍らせていた月宮は、宇都宮よりも先に、クルクルと宙を舞うノートを左手で掴み取る事に成功する。

 必然か、月宮は宇都宮の右隣に並び立つ様に着地する事になる。

 漆黒の異形からの追撃は来ない。

 何故ならば、既に走り出している月宮と漆黒の異形の間には宇都宮が存在し、攻撃が彼女に命中する可能性があるからだ。

 月宮は背後を一瞥する事も無く、姿が掻き消える程の速度で疾走して、図書室から脱出する。

「――〝キイナ〟! 追って!」

 そう漆黒の異形に鋭く命令を下して、宇都宮は図書室の引き扉から身を乗り出そうとするのだが、

「――ッ」

 図書室の引き扉の縁に、音速を越える真鍮の凶弾がブチ当たって、少しばかり木材の破片を舞わせて炸裂してしまう。

「――誰が動いて良いと言ったのですか?」

 銃撃される事の恐怖に宇都宮は、廊下に身を躍らせる事が出来ず、地面に縫い止められる様にして立ち尽くしてしまう。

 漆黒の異形を傍から離れさせれば銃撃のリスクがある。そして、漆黒の異形は月宮に追い付く程に素早いとは言えない。

 このままでは、月宮に儀式現場となった教室へと到達されて、儀式を終了される。

 が、それを黙って見ている程、宇都宮も我慢強くは無い。

「――〝テケテケ〟!」

 ――刹那、どこからだろうか、ペタペタと地面を手で這う様な奇妙な音が響き渡る。

 その異音に気付いて首だけを後ろへ振り返る月宮が見たものは、下半身を失った厚着の女性の影であった。

 それは、ドロドロに腐り落ちた様に爛れた気味の悪い顔面を月宮に向けて、その両腕を滅茶苦茶に振り回し、地面を這って彼を追跡し始める。

 壁や床を縦横無尽に這い回りながら、凄まじい速度で迫って来るテケテケは、人間を殺せる事への狂喜に崩れた顔面を綻ばせて、悦楽のままに月宮を狩り立てる。

(……〝テケテケ〟確か、都市伝説上では乗用車にすら追い付くらしいですね。逃げ切る事は不可能)

 耳朶を強く打つ心拍に促される様に、壮絶な速度で廊下を駆け抜けて行く月宮の走行能力は人間のものとは思えないが、それよりも先に下半身の無い怪物が彼の背中を切り裂く方が速い。

 その距離が殆どゼロになった瞬間、疾駆する月宮に対して、テケテケは天井から飛び掛かって、その禍々しく生え揃った鉤爪を突き立てようとする。

 同時、月宮は疾駆を中断して、バッと背後へ体を翻し、上方から躍り掛かるテケテケと正対する。その横薙ぎに振り切られる鉤爪の爪撃を後ろ跳びに躱すと、地面に着いたテケテケが次手として放つ貫手の様相を呈する跳び付きに対して、

「――〝地獄に落ちろ〟」

「――ギッ」

 短く甲高い悲鳴を上げたテケテケは、月宮の放つ呪文にも似た呟きに反応して、まるで

 透明な何かに押し潰されたかの様に、勢い良く床に叩き付けられる。

 間隙は与えない。

 月宮はどう抵抗しても動く事が出来ないと言った様子を見せる、テケテケの木の棒の様な首を、容赦なく踏み潰す。

 バキッ、と言う枝が折れる様な、骨がへし折れて砕ける生々しい破壊音が響き渡った直後に、拉げた首を少し震わせたテケテケの肉体は、ボロボロと崩れ去ってしまう。

 危険は無い。

 そのまま月宮は高速で後ろに流れる情景に身を任せて、突き当たりに儀式現場の教室まで走り込んで行って、行って、行って、行って――、

 ――宇都宮が何とか儀式現場の教室に辿り着いた時には、既に手遅れだった。

 月宮は教室の中央に悠然と立っていて、ノートに描かれた五芒星を眺めていた。

 おしまい。

 月宮がその五芒星に向かって、特定の符丁を唱えるだけで、儀式は失敗する。

 恐らく、月宮を殺して儀式を成功させる事に固執していた事から、この儀式が失敗した時点で、あの四人は生き返るのだろう。

「終わりです。この時点で、貴方の敗北は決定しました」

 もう儀式の成功を諦めてしまったのか、宇都宮は心の底から絶望した様な表情で、月宮の持つノートをぼんやりと眺めていた。

 諦観に光を失った宇都宮の瞳は、また訪れるだろう苦痛の日々を見つめているのだろうか。

「――だが、そんな終わり方は、全く以てつまらない」

 ――何の前触れも無く、月宮は手に持っていたノートを背後に放り投げていた。

「……は?」

 この状況の打開を諦め切っていただろう宇都宮が、急に頭を殴られた様な衝撃に、そんな呼気とも取れる困惑の声を発していた。

 当然だろう。月宮にとって宇都宮は敵で、黒幕で、この状況を収める為には、即座に儀式の終了手順を踏む必要がある。

 呆気に取られて、息が詰まった様に言葉を失う宇都宮へ向けて、月宮は凄絶な覚悟と決意を覚えさせる精悍な顔を張り付けて、好戦的に言ってのける。

「――貴方の組んだプロット通りだなんて、気に入らない〝私が決めた設定に負けたんだ〟などと勘違いされても寝覚めが悪い。だから――」

 月宮は人を気圧する程の覇気を持った瞳で、宇都宮を視界に映して、

「――掛かって来い。貴方の矜持を全てバラバラに砕いて差し上げましょう」


 純然たる宣戦布告を受けて、宇都宮は信じられないものを見るかの様な目で月宮を睨み付けるのだが、その意思を挫こうとするが如く、彼から何かを投げ渡される。

「それ、貸しますよ。どちらにしても、今の私には要らないものなので」

 月宮が嫌な笑みと共に宇都宮へ投げ渡して来たものは、黒鉄の拳銃。

 存外な重みを感じさせる黒鉄の拳銃を力の抜けた右手で持って、宇都宮は真の狂気を目の当たりにしたかの様に叫ぶ。

「まさか……〝キイナ様〟を破壊する気!? 銃も無しに、その身一つで!?」

 そう横に並び立った漆黒の異形を左手で示して、宇都宮は正気を疑うと言った様子で月宮に吠え掛かる。

「えぇ。この状況を創り出す最後の構成要素である、その怪物を破壊する。そうすれば、この〝怪異〟は存在を保てなくなるのでは?」

 言っている事は正しいかもしれない。

 だが、何故に困難な道を行こうとするのか。

 宇都宮には理解が出来ない。脳裏に一つも解が浮かばない。

「…………そんな結末、用意してない……!」

「――承知していますよ。ですから、少しばかり物語に介入させて貰いましょうか」

 ――刹那、月宮煌輝が纏う空気が明らかに変質する。

 否、空気だとか、そう言う目に見えないもののレベルでは無い。

 月宮の両腕と両足、両の頬の辺りから、白い霧が立ち昇って行く。

「――『マーナガルム』」

 ――瞬間、月宮の両腕が、白い霧に巻かれる様にして変貌を遂げて行く。

 霧が晴れた後に、そこにあったのは、人と狼を足して割った様な、そんな異形の両腕。

 狼よりは長く、人よりは短い、そんな鉤爪の付いた指に、白銀の体毛を生やした前腕。

 恐らく、見えていない両脚もそうなっている。

 月宮煌輝の〝異能〟『マーナガルム』

 架空の人狼へと肉体を変貌させると言う力。

 普段の人間離れした身体能力は、この人狼の膂力を人間の姿で引き出しているものだ。

 だが、肉体の一部を人狼化させた場合、拳銃等の複雑な道具を操作出来なくなると言うデメリットも存在する。

 今回の場合は、両腕と両脚、胴部に限定した部分変身である。

 様々な付随能力はあれ、これが月宮の〝異能〟の実体だ。

 こうして、白銀の月を思わせる、魔霧の人狼が、宇都宮の眼前に顕現する。

 鬱蒼とした暗闇を切り払う様に、月宮の紅玉の瞳が眩い光を放って行く。

「…………〝キイナ〟! 殺して!」

 こうして、凛然たる白霧と惨澹たる暗影が満ちる、最後の戦端が幕を開ける。

 先手を取ったのは両腕と両脚を人狼のものへと変じさせた月宮。

 以前までの速度とは、比肩すら出来ない程の踏み込みで、ほぼ一息に漆黒の異形との距離を詰める。

 急激にゼロとなった両者の間合い。月宮は漆黒の異形の懐に潜り込んで、左手に担った白銀の短剣によって、幾重にも重なる程の速度で斬撃を迸らせる。

 それは、黒々とした触腕と白銀の輝きを放つ短剣が織り成す、致命の二重奏。

 教室と言う狭い空間でその立ち位置を入れ替え、立ち替え、右腕と左腕を鋭い剣状にした漆黒の異形と月宮は、一手でも違えれば死を齎される剣劇の中を踊る様に掻い潜って行く。

「……凄い」

 宇都宮は煌々たる銀閃と鈍い光沢が入り乱れる戦場にて、場違いにも、そんな感想が漏れ出ていた。

 それ程に、月宮の戦闘者としての技術は卓越していた。

 漆黒の異形が眼前の怨敵を袈裟に切ろうと放つ斜の斬撃を、月宮は逆手に担った白銀の短剣を躍らせて、それを防ぎ切った後に、空いた右の拳を異形の腹部に炸裂させる。

 そのまま弾かれる様に吹き飛んだ漆黒の異形は、道中にある机や椅子をグチャグチャに押し潰しながら、黒板にその体躯を叩き付けられる。

 白い霧の残滓が空中で線を描きながら、月宮は姿が掻き消える程の速度で接近、漆黒の異形に追撃を加えようと、凶悪に生え揃った牙を剥き出しにして、月光を思わせる銀閃を煌めかせる。

 その視認する事すら烏滸がましい程の斬撃に対し、漆黒の異形は右腕から伸ばした触手を窓に付いている安全棒に絡めて、それを強く引っ張る事で体躯を窓の方向に引き寄せる事で、何とか回避する。

「――宇都宮さん、貴方は何故、こんな回りくどい方法を取るのですか?」

 少し距離が開いた瞬間、漆黒の異形は両腕の絡まった様な触腕を大きく開放して、鞭の如くしなる打撃を幾度も月宮に叩き込んで来る。

 それを危うく回避する最中、月宮は背後に居る、右手を震わせた宇都宮に向けて、子供に言い聞かせる様な声音で語り掛ける。

「退散の方法や人を誘う設定など、なくても良かったじゃないですか。私より先にノートを確保して、隠すなり何なりしても良かったじゃないですか。貴方には、その時間がありました。儀式現場に初めて訪れた時、私からノートを奪わせて〝キイナ様〟を逃走させなくとも、あの場で私を殺せば良かったじゃないですか。きっと、いじめグループを後悔させながら、殺す方法を貴方は幾らでも取れた筈です」

「……………………」

 眼前に迫る触腕の刺突を屈んで躱して、足を払う為の薙ぎ払いを軽く跳躍して回避し、月宮は目が眩んでしまう程に美麗な銀閃を放って、滅茶苦茶に彼を引き裂こうと迫る数多の触腕を何とか切り刻む。

「――貴方は待っていたんじゃないんですか? 自分が作った物語に従って、自分の悪行を止めてくれる、そんな存在を」

「…………………………………………」

「――答えろ! 宇都宮千秋!」

 月宮が自身の内から溢れ出す、凄まじい激情のままに吠える。

 宇都宮の顔にはもう既に、怒りや絶望、不満や焦りと言ったものは無かった。

 ただ、顔をクシャクシャにして泣いていた。

 悲泣のままに、ボロボロと涙の粒を雫として地面に落としている。

 もう止めようも無いらしい。

 その悲哀に呼応してか、眼前の怪物にも変化が訪れる。

 黒々とした体躯を妙な光沢で覆う漆黒の異形の、絶え間なく壮絶な攻勢が、僅かではあるが、その勢いを弱めた。

 この様な完全な異形型の〝怪異〟であったとしても、この世界に実体を以て存在していると言う大前提には則っている。

 その為、この様な存在であっても、どこかに弱点を持っているか、生命力の様なものは保有している。

 ならば、この怪物にも、終わりがある。

 月宮は、その一瞬緩んだ攻勢の間隙を見逃さない。

 頬から立ち昇る白霧の残滓が空中で尾を引いて、月宮の疾駆の軌跡を知らしめる。

 そうでなければ、その姿形を捉える事など不可能。

 ――刹那の内に、硬直する漆黒の異形の眼前に、月宮は現れていた。

 漆黒の異形が月宮を赤い眼光で捉えて、迎撃をしようと体を動かすが、致命的に手遅れであった。

 ――瞬間、月宮が花弁状に煌めく銀閃を漆黒の異形の胸部に放っていた。

 ほぼ同時に放ったとしか思えない程の神速の斬撃によって、漆黒の異形の胸部は開花する様にぽっかりと開かれて、その胸腔の内にある心臓にも似た赤黒い塊を露出させる。

 それこそが、この〝怪異〟の核となる部位である事は、疑いようも無かった。

 ――直後、月宮の右の鉤爪が、漆黒の異形の心臓を刺し貫いていた。

 グチュリと言う血肉が潰れる、不快な水音を暗澹たる空間へ静かに響かせて、月宮の鉤爪は漆黒の異形の心臓を抉り抜いていた。

 その刹那、漆黒の異形の力が一気に抜けて行く。

 もう、彼の怪物に、抵抗する余力は残っていないらしい。

「……あっ」

 そんな宇都宮の気の抜けた様な、愕然とした呟きが、月宮の背後より耳朶を打つ。

 そうして、この教室の空間を支配していた、忌々しい緊張感が消失して行く。

 月宮は背後に茫然自失として立ち尽くしている、宇都宮の傍らへゆっくりと歩いて行く。

 カツカツ、と月宮のブーツの乾いた音が、妙大きく聞こえる。

 宇都宮の目と鼻の先の距離まで近付いた月宮は、床に膝を着いて跪くと、彼女が右手に持っている黒鉄の拳銃の銃身を左手で掴み取る。

 そして、自身の額に愛銃の額を強く押し付けると、宇都宮に語り掛ける。

 銃口のひんやりとした鋼の冷たさを、月宮はぼんやりと感じ取る。

「……今なら、まだ間に合うかもしれませんよ。貴方がその引き金を引けば、私は頭を撃ち抜かれて死に至る。儀式は成功して、貴方は望みを叶えられる」

 そう、死に至った漆黒の異形は、その触手が解ける様にして消滅している最中だ。

 未だに〝異界〟は閉じていない。

 そこまで独り言の様に語り掛けた月宮は、愛銃の銃身から左手を放して、全くの無抵抗であると言った様子で宇都宮を見上げながら、その選択を見届けるつもりらしい。

 宇都宮の右手は震えていた。

 いや、右手だけと言うのは誇張しすぎている。

 もう、既に全身がガクガクと振戦していた。

 荒い呼吸と定まらない視線。

 息も絶え絶えと言ったその様子は、どちらが死の淵に立っているのか分からない。

 バクバクと不規則に鼓動を乱す心拍に、顔を滅茶苦茶に汚す涙。

 嗚咽を漏らす喉に、歯の根が合わない程にガチガチとなる歯列。

 プルプルと自身の迷いと共鳴する様に、ゆっくりとジェリコの引き金に指が掛けられる。

 そこまでしてようやく、宇都宮の脳裏に、どうして月宮がここまでの危険な道を渡ったかの、一つの解となるものが湧き出して来る。

 月宮は、幾らでも宇都宮を撃ち殺せる機会があった。

 この事態を終息させたいのならば、それが一番手っ取り早い。

 それなのに、わざわざ語り掛け、自身の殺意の根源たる〝キイナ様〟を直接打ち砕いた。

 まるで、宇都宮の〝異能〟では、誰も殺す事が出来ない、と訴える様に。

 誰か傷付ける為の力ではない、と暗喩する様に。

 そこで初めて、宇都宮は気付いた。

 ――月宮は、宇都宮を救う為に命を懸けていたのだと言う事に。

「……出来ない……出来ないよ……」

 月宮を殺す事など、出来る筈も無い。

 何故ならば、他でも無い、宇都宮が待ち望んでいた救済、その体現なのだから。

 そこで、宇都宮は右手の拳銃を地面に落としていた。

 ――それが合図だったのか、眩い月光が惨澹たる空間に差して来る。

 既に、漆黒の異形は解ける様にして、静かにその輪郭を消し去っていた。

 煌々たる月輪から差して来る、溜息が出てしまう程に美麗な月明かりが、宇都宮の涙によってまだらな模様を付けた地面を照り付けて、キラキラと輝いている。

「……良く頑張りましたね、宇都宮さん。貴方は少し力の使い方を間違えただけ。貴方に必要だったのは、その身を預けられる友人だったのでしょう」

 そう心の底からの喜色を顔一面に湛えて、月宮は宇都宮に初めて見せる、屈託の無い満面の笑顔を浮かべる。

「うぅぅう……うぁあぁあぁぁ!」

 泣きじゃくる宇都宮の肩を抱いて、月宮は慈愛にも似た穏やかな面持ちで言葉を紡ぐ。

「――私も貴方に協力します。さぁ、止まった時間を進めに行きましょう」

 殊更に強く光を放つ白銀の月下の下、宇都宮の救われた様な悲泣がいつまでも聞こえる様だった。


「……はっ」

 そこは、柏田高校の校舎、四階の突き当たりにある空き教室。

 星空に懸かる月光が消灯した空き教室に柔和に差して、彼女らの目覚めを促したらしい。

「……なんか、変な夢を見てたような……って何時だよ!?」

 眠気眼でぼやく前野が、座り込んだ椅子から焦燥を伴って立ち上がる。

 もう既に、時刻は九時を回ってしまいそうだ。

 眼前には儀式に使ったA4サイズのノートに、いつもの三人が未だに眠りこけている。

 何だか、記憶が錯綜している。

 どういう経緯で、ここで眠っていたのか。

 ――バッと、唐突に空き教室の引き扉が開け放たれる。

 考えを巡らせる前野は、急に音を立てて開け放たれた引き扉を見て、ビクッと肩を上下させる。

 まさか、警備員にでも見つかったか。

 だが、引き扉を開けた人物は、少なくとも学校の関係者には見えなかった。

 二十代前半に見える若い男で、その鋼の様な美しさを持った白銀の短髪が、煌々とした月光を反射させて、美麗に光沢を帯びているのが印象的だった。

 思考がフリーズして、何も言えなくなってしまっている前野に向かって、長身の男は紳士然とした丁寧な声音で、朗々と名乗りを上げる。

 その漆黒の中折れ帽子を右手で外して、騎士の様に恭しく一礼をしながら、

「――こんばんは。宇都宮千秋さんの〝友人〟月宮煌輝と申します。以後お見知り置きを」

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其の名を呼んでは為らぬモノ 穂積瑞浦 @iridescentsnake17

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