第7話

 聞きたいことは幾らでも浮かんでくるが、まずはなんと声を掛けたものか分からず、文音は黙って母の姿を見つめているしかなかった。

 

「場所を変えましょうか」


 母の言葉に頷き、後へ続く。背中を眺めながら文音は思う。母と行動を共にするなんていつぶりだろうか。思い出そうとしてみたが、子供の頃のぼんやりとした記憶ばかりが蘇ってきた。


 母の運転する車に乗って向かった先は喫茶店だった。


「仕事でよく使うのよ。静かで落ち着いていて、良い店よ」


 これまで母は、仕事について忙しい以上の情報を語ることなど殆どなかった。文音は目をしばたたかせたが、何も言わずに頷いた。母の急な心変わりに対して、彼女は思案する。


 ――お母さんもお父さんから逃げたかったのかな。それは大人として、親として無責任だと言わざるを得ない態度だ。だけど、今こうして私と向き合ってくれている姿には、少しの寂しさとそれ以上の嬉しさを感じている。その感情を否定したくはない。互いに人間である以上、すれ違うことなどあって当たり前なのだ。だから。


 店員が席へと近付いてきた為に、文音は思案を止めた。言葉少なに注文を終えた後、母はノートパソコンを取り出して何かの作業を始めた。話はコーヒーが届いてからね、と前置きがあったことに文音は安心しつつ、ぼんやりと外を眺めていた。通りに面した大きな窓辺の席だが、住宅地の外れに位置する為か、車も人も殆ど通らない。老人が一人、小さな茶色の犬を連れて通ったのが唯一だった。


 ややして届いたカフェモカが想像以上に甘ったるく、ちびちびと啜っている内に、母はぽつぽつと話し始めた。


 父の容態は、身体機能については大きな後遺症は残らないだろうが、皮膚と気道は元通りに治療するのは難しいという話であった。容姿と発話機能には障害が残るも、命に別状はないということだ。


 ――そっか。


 安堵しつつも、父がこれからどうするのかは不安だった。あんなことがあった後でも、ミジオを文音の弟として扱い、理想の父親像にしがみ付き続けるのだろうか。そうすると、母はまた家庭から離れていくのだろうか。


「それから、ハエモグラ男についてだけどね」


「……うん」


「学校へはもう連れていかなくて良いわ。家ではゲージに入れておこうと思っているの。大型犬用のゲージ、今日中に買えそうなお店を見つけたから安心してちょうだい」


「い、いいの……?」


「いいのよ。会社にも共生家庭に選ばれた人がいるけど、外に繋いでるって話だったもの。そこは郊外のお宅だから、ウチも同じようにとはいかないけど」


「学校は?」


「私からちゃんと連絡するわ。大変な状況なのは伝わるでしょうし、先生だって無理に連れて来いとは言えないはずよ」


「うん。……ごめん。お母さんだって忙しいのに」


「あなたが気にすることじゃないわ。だけど、少し協力してくれない?」


「協力?」


「そう。お父さんの会社にもまた顔を出す必要があるし、ゲージの受け取りは夜になりそうなの。だからそれまで何処かで友達とでも一緒に居て欲しいの。あの家に、あなた一人で居させるわけにはいかないでしょう?」


「ん……」


 平生であれば、雪乃をあてにしただろう。文音は少し悩んだ。母が気遣っているのは分かるし、ここで友達なんか居ないと答えれば余計な心配を与えてしまうに違いない。


「安全であれば、別に一人でも構わないのだけど」


「ううん。ちょっと聞いてみる」


 雪乃に連絡を入れるのは勇気が要る。咄嗟に出てしまった言葉に過ぎないが、母に嘘を吐くのもいやだった。しかしどちらかを選ばざるを得ない。眼前に迫る、どちらを選んでも少なからずの負担を伴う。うんざりする、とは思わなかった。文音は雪乃に対して簡単なメッセージを送った。


 すぐに着信があり、母に断りを入れてから一度店の外へと移動する。母は微かに笑っていたように見えた。


「……もしもし」


 酷く強張った声色であったことを自覚して些か後悔する。


「急にどした?」


 応じた雪乃が、あまりにも普段どおりの調子であった為に、文音は思わず小さく笑ってしまう。


「なんだよ」


「ううん、ごめん。……その、今のことだけじゃなくて、いろいろと」


「それはいいって。それよりさ、何かあったの?」


「……ちょっとね。今日この後って時間ある?」


「ふふっ」


「なに?」


「いや、文音らしいなって」


 文音は何が「らしい」のか少し悩んだが、すぐに気づいて拗ねたような声をあげた。


「どうせ私は」


「はいはい、悪かった。家でダラダラするのに忙しかったけど、他ならぬ文音の誘いだから仕方ない。どこで待ち合わせる?」


「それじゃあ……」


 と、待ち合わせ場所と時間を決めて通話を終える。


 席へ戻ると、パソコンを使って作業をしていた母が顔を上げた。


「あの……友達が一緒に居てくれるって言うから」


「そう」


 母は微笑したが、すぐに荷物をまとめ始めた。その様子を眺めている内に、どうしても言わないといけない気がして、文音は口を開いた。


「お母さん。気をつけてね」


「うん。文音も」と、そこで声のトーンを落とし、母は続ける。


「ハエモグラ男が事故を起こしてるの、ウチだけじゃないみたい。それと、共生家庭を狙って嫌がらせなんかも起こっているらしいわ。外ではあまり口にしないのよ?」


「うん」


「じゃあ、支払いはしておくから。また後でね」


 母を見送ってから、カフェモカと向き合う。まだ三分の一ほど残っている。雪乃との待ち合わせ時間まではまだ余裕があった。ゆっくりとそれを飲み干し、水を一杯もらってから店を出た。


 歩いて待ち合わせ場所へ向かうと、既に雪乃が待っていた。遊びに出かける時の常でキャップを被っている。いつもどおり、といった光景に対して口角が自然と持ち上がってしまうのを堪えながら、文音は声を掛ける。


「……雪乃」


「よっ」


 にんまりと笑う雪乃の顔を目にして、文音は表情筋を強張らせることをやめた。


 とりあえず雪乃の家へ向かうことになり、その道中で文音は何があったか、何を思ったか、そうしたことをゆっくりと話した。距離を置こうとした理由を告げた際にはため息を漏らしたものだが、概ね肯定的、同情的な相槌が返ってきた。


 次第に足取りが軽くなっていき、声色も明るくなっていく。他愛のない話題で笑い合いながら家に上がる。用意してもらったお茶を飲んでいると、少しだけ罪悪感のような感情が湧いてきた。頭に過ぎったのは父の姿だった。


 文音は今しがたまでしていた会話の内容をにわかに忘れてしまい、困ったような笑顔を浮かべて雪乃を見た。雪乃もまた、柔和な笑みを浮かべて返した。


 沈黙が訪れる。それを誤魔化すように、雪乃はリモコンを手にとってテレビの電源を入れた。


 文音は意外だといった表情を浮かべる。夕方というにはまだ早いこの時間帯から報道番組が流れているのを知らなかった。


 二人はしばし黙ってぼんやりとテレビを眺めていたが、屑野知事に対するリコール署名運動という話題が流れた瞬間に顔を見合わせた。


 互いにスマホを開いてネットニュースを確認する。ハエモグラ男が起こしている大小様々な事故も理由に挙げられているが、それ以上に大きな影響を与えているのが、屑野が迷惑系として悪名を轟かせていた頃に寝食の世話をしていた無職中年男性の逮捕であった。


 ブリジョボプレイという名で配信活動をおこなっていた浜間順治という男は、SNS上で自身の信者をけしかけて集団での誹謗中傷や脅迫、未成年者への性的搾取、詐欺同然の投げ銭誘導、などといった悪質な行為を数え切れないほどに繰り返していたというのだ。特に投げ銭誘導については、屑野と共に撮影した動画が残されており、ニュース番組内でも再生されていた。


「うおお……なんか凄いことになってんね」


「だねえ」


 と相槌を打ちながら、文音は半ば無意識に爆裂ドットコムを開いていた。


 案の定、話題は屑野のリコール署名に関することが殆どだ。ざっと流し読みをしていると、気になる書き込みがあった。秘書課の中に屑野下ろしを企てた者がいる、という真偽不明の情報だ。


「これであとは馬鹿な法律もなくなれば良いんだけどなあ」


「本当にね」


 雪乃の言葉に同意しながら、視線を上げる。報道番組では「屑野に関係なくハエモグラ男は広島州の宝だ」という主張の元に募金活動を行なっている団体が映されていた。


「あ……」


 文音が小さく声を漏らし、雪乃もテレビに視線を向けた。


「うわあ……見たくないもの見ちゃった」


 理由は定かでないが、蝿野が募金活動に参加していた。文音と雪乃は顔を見合わせて苦笑いを浮かべた。

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ハエモグラ男と仲良くする法律 @zunpe

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