今日やる君
昆出威家
第1話
教室に西日がさしこみ始めた頃、ホームルームが終わった。
礼が終わると隣の彼が言った。
「今日…やるから」
そう言って彼は笑った。
僕はその笑いが苦痛をという意味の苦笑いであることを知っていた。
だからただ頷いた。
たぶん、その声はみんなにも聞こえたはずだった。
僕はふと校庭に目をやった。
春の風が校庭の脇に咲きほこる桜の花びらを揺らしていた。
気づくと隣の席に彼の姿はなかった。
出ていく気配すら感じられなかった。
僕にはそれが幽霊か何かのように思えた。
翌日、彼はバツの悪そうな顔をして僕の隣に座った。
僕はニッコリと笑った。
(何も心配することはないよ)
と無言で伝えてあげたつもりだった。
そんな僕を見て彼は少し安心したようだった。
もちろん僕も安心した。
春の陽が暖かく感じられ、また一日が始まった。
その日の彼は饒舌だった。
休み時間には自分のこと、家族のこと、そして自分今置かれている状況について話してくれた。
時折、僕は相槌をうった。
今日も校庭の桜が春の風に揺れていた。
穏やかな一日だった。
そしてまた彼は風のように去っていった。
彼のいなくなった机と椅子だけが寂しそうに残っていた。
次の日の僕が教室に入ると、すでに彼は着席していた。
僕が隣に座ると彼の方から声をかけてきた。
「今日だよ。今日」
彼は言った。
その顔からは覚悟を決めた意思が感じられた。
僕は黙って頷いた。
今日か。
今日なのか。
そう思うと僕の心臓が高鳴りはじめた。
だが、彼は昼休みを前に早退した。
午後の授業の開始前、教壇に立った先生がそれを伝えた。
彼は急に腹痛を起こし保健室に行き、しばらく寝たあと大事をとって帰ったらしい。
外はあいかわらず穏やかな小春日和だった。
だが現実は穏やかなまま終わることなんてなかった。
「おい‼」
クラスの一人が僕のところに来て言った。
「いったいあいつはいつやるんだ?」
僕はそれはわからない、答えた。
「そうか」
彼はその答えが気に入らないようだったが、僕の顔を一瞥すると去っていった。
先ほどの男はクラスの中心的人物だった。
ここでは仮にA君としておく。
Aのまわりには何人かの取り巻きがいて、彼は…
言いにくいことだが、それなりのことをされていた。
イジメという奴だ。
どこにでもある。
一度トイレで彼がAと取り巻きに囲まれているところを見たことがある。
僕は彼がAと約束をし、それを実行しなければならないことを知っていた。
こんな状態が続いていることを知っているのは僕だけではなかった。
クラスのみんなも気にしない風を装いながらも、彼がどのような状況に置かれているか薄々感づいていた。
クラスと言うのは変異性細胞の集まりのように思えた。
そもそも、幼い人間が組織を作ること自体に問題があるのではないかと思う。
大人の社会の方がよっぽど楽なのかもしれない、と僕は思った。
クラスで彼としゃべるのはほとんどが僕だった。
もともと僕は大人しいタイプだし、どちらかと言えば暗い存在と言っていいかもしれない。
つまり僕はクラスに友達がいなかった。
それに近い存在が彼だった。
一度彼が泣いているのを見たことがあった。
でも僕はそんな彼に一言も声をかけられなかった。
僕は彼を見ていられなくて窓に目をやった。
春なのに冷たい雨が降っていた。
次の日も彼は少し疲れた顔をしていた。
僕が大丈夫か?
とたずねたら。
彼は微笑みを浮かべながら、大丈夫だよ
と答えた。
次の休み時間にトイレから戻ると彼の机のまわりをAを含めた数人が囲んでいた。
彼はただ黙っているだけだった。
僕はチャイムが鳴るまで教室に入らず廊下にいた。
でも、その日は何も起こらなかった。
そんなことが、次の日も、その次の日も続いた。
それでも彼はバツの悪そうな笑顔を僕に向けることを止めなかった。
そして、僕が気を許した瞬間には消えているのだった。
クラスの誰かがいつだか言った。
「あいつ、ホント嘘つきだよな」
僕はそれを聞いて思った。
彼は嘘はついていない。
やらないだけ。
いや、やれないだけ。
ただ行動できないだけなのだ。
彼は彼で苦しんでいるに違いないと僕は思った。
彼の苦しみを思う時、不思議と僕もその苦しみを理解することができた。
いや、それ以上に苦しみを感じていたかもしれない。
そして、彼の苦しみを理解して苦しんでいるのが自分自身の苦しみなのか、それとも彼を思っての苦しみなのか理解できないことさえあった。
ただ、その苦しみを僕が直接とることはできないのだ。
だって、僕は彼じゃないから。
彼が嘘つきだろうと、行動できなかろうと、学校や日常、そして世界は滞りなく進んでいた。
ここは世界の一部であり、世界の一部がここであるにもかかわらず。
土日を挟んだ翌週。
彼の顔色は少し良くなったように思えた。
「今日は…やるから」
いつものようにそう言って座った。
僕も頷いた。
そして、気づくと彼はいなくなっているのだった。
下校でごった返すクラスの喧噪をよそに、僕は彼が校庭を横切って歩いている姿を見つめた。
彼を見つめているのは僕だけだった。
それから一カ月が過ぎた。
たまに暑い日もあった。
六月になった。
彼はどもるようになっていた。
「き、今日は、やるよ」
そう言って帰っていった。
冬服を着ていて暑いのを僕は覚えていた。
涼し気な半袖のシャツになる来月までに彼は成し遂げることができるのだろうか?
もちろん、誰も彼の相手などしていなかった。
問題、いや、会話はすでに僕と彼だけの物になっていた。
彼と僕の問題がクラスの中に存在していることがなんだか不思議な気持ちになった。
いったいクラスって何なんだ?
ある一年間に生まれた人間が集められて教室という名の時間が決められている牢獄とかわりないのでは?
そう考えると、僕と彼はその牢獄の中の異質の存在かもしれなかった。
特に彼は。
誰もが彼は『できる』人間だと思っていたのだから。
誰かが言っていた。
「彼はやる奴だよ」
親の間でも有名だった。
「あなたの家の子はいいわね」
って。
親にとって、自慢の子だった。
だからこそ、生徒みんなはその落差に驚いていた。
親がその子を褒めるたびに
「そんなことないよ、あいつ」
と否定するのだが、親は実際に教室にいて彼の言葉を聞いてるわけではないから分からないのだ。
教室のことは教室にいる人間にしかわからないのだ。
だからこそ今の現状に生徒みんなが疑いを抱きはじめた。
実は奴ってそんなに凄い奴じゃないんじゃん、と。
その疑問は最初さざ波のようなものだったったが、すぐに大きなうねりとなって教室の中をうごめき始めた。
生徒みんなが
「なんで奴はできるのにやらないんだ⁉」
と憤りはじめた。
もちろん彼もその変化に気づいていた。
おそらく、僕が気づく前から彼はその変化に気づいていたのだと思う。
そして、翌日、彼はやった。
まさにそれは『事件』だった。
彼が長期にわたり休む、と教師が朝のホームルームで伝えた。
皆はそれを聞きながら彼がついにやり遂げたと認識した。
あっという間にクラス中に広まり。学校中に広まった。
ただ、それだけでは終わらなかった。
それは、町、県、国中に広まった。
みんなまさかここまで…と思っていた。
彼のことはついに国全体が知ることとなったのだ。
彼は学校を出ていった。
そして、僕は二度と彼に会うことはなかった。
僕はそれを一生知ることはなかった。
だって、僕は次の日も、その次の日も学校に行くことがなかったのだから。
その後、僕らの街で小さなお葬式が執り行われた。
家族葬であったにもかかわらず、小さな葬儀場を多くの人が訪れ花を置いていった。
坊主のお経が虚しく響いていた。
次の日、出棺の時。
家族だけの葬儀だったが、写真を持った喪主である中年の男は葬儀場を囲む多くの人々に一礼をした。
隣ではその妻がハンカチを顔にあてながら泣いていた。
焼き場へ向かう車へと乗りこんだ。
女子生徒の中には泣いているものもいた。
フォーンが鳴らされた。
そして車が走り出した。
写真を抱えていた母親はまた一礼をしていた。
みんなが走り出す車を見た。
誰も声をださなかった。
警察もいた。
そして、三々五々散っていった。
誰もいなくなった葬儀場の祭壇には虚しく写真だけが残っていた。
そこに映っている顔には笑みが浮かべられていた。
それは僕の最後の笑みだった。
今日やる君 昆出威家 @kondeika
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