オラッ催眠!(正義の鉄槌)
バリ茶
第1話
「──止まって」
開口一番、少女は凍えるような低い声音でそう告げると、俺が手に持っていた白いハンカチを奪い取った。
「拾ってくれたことは感謝するけど、それ以上近寄らないで。……じゃ」
あまりに鋭い敵意を秘めた眼差しと侮蔑を隠そうともしない態度でこちらを怯ませた彼女は、黒い長髪を靡かせながら踵を返し、そのまま友人と思わしき別の女子生徒と共に体育館を後にした。
落としたハンカチを拾って届けようとしただけ、だというのにどうして俺はあんな極刑相当の性犯罪者へ注がれるような軽蔑の視線で睨みつけられたのだろうか。
その原因に心当たりがないわけではなかったが、あれは冷静に考えてさすがに理不尽極まりない態度だ。こちらも憤懣やるかたないといったところである。
「……は、ははっ、あんま気にすんなよ! ほら、とりあえずオレらも教室に戻ろうぜ」
分かりやすく気を遣ってくれた同クラスの男子生徒に追従する形でその場を離れたが、帰る道中も頭の中では困惑が延々と渦巻いていた。
ふと、振り返る。
そこにあるのは先ほどまで自分がいた体育館、その中には未だ大勢の生徒たちが闊歩しており、各々手から炎や電気を出現させて一喜一憂している。
そして改めて周囲を見てみる。
隣を歩いてくれている一人の男子生徒を除いて、他には誰もいない。
たくさんの生徒たちが教室へ戻る行列の中で、他の生徒たちは露骨に俺との距離を取っており、まるで海を割るモーゼのごとく人混みを開いて楽々帰っていく。
……で、教室に戻ったところ。
「あ、もしかして今帰ってきたあいつ……?」
「そうそう、さっきの異能力検査で“催眠”って出てきたんだって」
「やば……もう予備軍じゃん……」
賑やかだった少年少女たちが一瞬静まり返り、そのほぼ全員が俺を一瞥した後、先ほどよりは多少落ち着いたテンションで再び喋り始めた。
「…………はぁ」
まいった。
なにが、どうして。
いま、この状況に陥っているんだったか。
──まぁ端折って説明するのであれば、つまり俺は寝落ちする前に観ていたアニメと酷似した世界に転移してしまったという話なのだが。
さすがに簡潔すぎるので脳内を整理するという意味でいま一度この世界へ来訪する少し前のことを思い出してみよう。
どこにでもいるような普通の人間である“俺”という存在に関しては大事な部分ではないため一旦省くとして。
この現状へ至った理由を明確に把握できているわけではないが、もし仮にきっかけがあったとすれば、それは引っ越しの際に自室の片隅で数冊のライトノベルを見つけたことだったのかもしれない。
その本は言うなれば青春の思い出だ。
いわゆるハーレム系学園バトルもの。
俗にいう異世界転生系アニメが台頭し始める以前に、いまや大人であろうかつての中高生たちの間でよく観られていた作品群たちだ。
もうこのジャンルというだけで懐かしさが溢れ出てくるレベルの、現代では衰退の一途を辿っている一昔前の流行り、というべきか。
俺が発掘したソレもその全盛期の時代においては“よくある作品のうちの一つ”だったが、逆にそのおかげか記憶から薄れたその物語は一周回って新鮮に感じることができた。
そんな童心を刺激する懐かしき思い出にやられてか、荷造りを中断して原作小説を読み耽ったのが三日前。
作業が遅れて焦りながら徹夜で荷物をまとめ、なんとか引越しを乗り切ったのが二日前。
もろもろの手続きを終えた頃には夜になっており、ロクに荷解きもできていない殺風景な部屋に布団だけを敷いて、件の懐かしいハーレム学園バトルアニメがサブスクにあったのでスマホで流し見しながら寝落ちしたのが昨日。
そして今朝、俺はどこか見覚えのある少年になっていた──というのが事の顛末である。いや意味わからん。なにこれ。
◆
「うーむ……」
あのクラスメイトほぼ全員から冷ややかな視線を注がれる原因となった異能力検査、もとい入学式から一週間。
放課後、校舎の屋上へ足を運んだ俺は眼下に広がる街並みを眺めながら思考に耽っていた。
この世界に対する懊悩と困惑はここまでの一週間でとりあえず一区切りはついた。
コレは現実じゃないだとか夢だとか、そういう感覚はだいたい三日くらいで鳴りを潜め、以降は現状に対する理不尽さへの怒りと自分がいた元の世界での生活の心配で気が気じゃなくなり──ようやく落ち着いたのが本日の放課後、つまり今というわけである。
なんか異能力を持った人種がいるちょっと近未来な現代ファンタジー的世界に来てしまった、という部分は飲み込めたので、思考を次のフェーズへと移行しよう。
「レイド・ラルオット……ね」
ふと胸元から取り出した学生証を眺め呟いた。
そこには聞き覚えのある名前と痩せぎすな男子生徒の顔写真が貼られている。
俺はおそらく憑依した。
元の世界で死んだ覚えもなければ、この世界のこの身体で生きてきた記憶もないため、いきなり他人の体に入ってしまったと言っていい状態だ。
この身体の交友関係などもサッパリな状態ではある、のだが不幸中の幸いというべきかこの男子生徒に関してはギリギリ知っていることがあった。
レイド・ラルオット──物語序盤に登場するかませ犬キャラだ。
準レギュラーですらなく、アニメの三話だか四話だかで主人公にボコされて退場して以降、ほとんど出番がなかった使い捨てキャラこそが彼である。
「うわ、あいつって……」
「えっなに? ……あ、もしかして噂の催眠能力使い?」
「やべーよ、調べるの明日にしようぜ……」
この通りレイド・ラルオットは図書館に来るだけで他の生徒が軒並み逃げ去る程度には有名人になってしまっている。
パッと見で栄養不足を心配する程度には痩せすぎた体型と、胸元に付けているこの学園で特待生にのみ与えられるバッジが特徴的なのかすぐにバレる。
まぁおかげで静かに調べ物ができるというものだ。
「洗脳系能力の本……めちゃめちゃ少ねえな」
このマイナーな能力の本格的な解説書は、広大な図書館の蔵書をもってしても十冊程度しか見つからなかった。炎や電撃系などポピュラーなものは軽く三桁はあるというのにまったく不公平だ。
とりあえずの目標は元の世界への帰還だが、こちらの世界での生活を疎かにするわけにもいかない。
なるべく自力で戻るつもりではあるがこの世界へ来た時と同様、またいつ勝手に向こうへ戻るかも分からないのだ。
俺の事情だけでこの身体の本来の持ち主の生活を壊すのは良心が許さない。
いつ戻っても大丈夫なように環境を整えておく、というのもこの世界における目標の一つだ。
「別世界とか時空に関する本とかあんのかな……お、ちょっとある」
パソコンで調べて出てきた本のタイトルはなんとも怪しい物ばかりだったが現状の手がかりはこれぐらいしかないため、参考書と一緒に借りることにした。
しかし図書館が広すぎて全然場所が分からない。め・11・42ってどこだよ。
「すいません、本の場所が分からないんですけど……」
「あ、はい。めの棚はですね──」
まだ噂の波及に飲まれていないのか、俺を見ても特に態度の変化がない図書委員らしき女子生徒に案内される──その最中、この世界によく似ているアニメの内容を思い出した。
レイド・ラルオットはいわゆる悪役だ。
その催眠能力を悪用して様々な生徒を手駒にし、メインヒロインの一人を制服ひん剝いて下着まで露わにし涙目にするところまではいけていた惜しい男だ。
それで思い出したことだが、たしかこの図書委員ちゃんも原作の俺が催眠で洗脳の支配下に置いていたキャラだった気がする。
この学園内で生徒が突然暴れる事件が多発し、原因を調べるために図書館へ訪れたメインヒロインを不意打ちで気絶させ、廃ビルで待つ俺のもとへ他の仲間と共に彼女を届けてくれた人物だ。
もちろん最初から催眠状態であり、俺が討伐された後は元に戻ってその後出番もないモブだが──なるほど。
原作の俺はこうして二人きりの状況を生み出しては催眠能力で洗脳して、を繰り返していずれあの主人公に一蹴される洗脳モブ集団をコツコツ作り上げていたわけか。
かなりテンプレなかませ犬っぽい饒舌に喋る卑怯な男だと思っていたが、どうやら方向性を間違えただけでその実態は努力の人だったらしい。
「また見つからない時は声をかけてくださいね」
「ええ、ありがとうございます。助かりました」
とても親切な図書委員ちゃんのご協力のもと、今自分が必要としている情報への手掛かりはだいたい揃った。
それらを調べながら、ふと考える。
今後の身の振り方をどうするか。
この学園、もとい四つの異能者教育機関からなる学園都市にはよくありがちな武闘大会がある。
優勝した暁には何でも願いを叶えてもらえる権利を手にできるため、この学園都市にいる生徒たちのほとんどが大会での勝利を目指して日々研鑽している。
……で、これまたありがちだがそんな主人公と対立する犯罪組織も裏で画策しており、俺ことレイド・ラルオットもその組織と一枚噛んでたのが原作の流れだ。
「……能力のマイナスイメージに拍車をかけてたのはこの事件のせいか。道理で嫌われ過ぎてるわけだ」
いまから五年ほど前に学園内で犯罪組織の手先こと一人の催眠能力を持った異能者がテロ紛いの事件を起こし、全国区で大々的に報道されたらしい。アニメでもその話はあったような気がするが正直忘れていた。
とにかく催眠能力に目覚めた異能者はバチクソ嫌われる、というのがこの世界での常識らしい。
それで原作の俺は周囲に疎まれ、その心の隙を悪の組織に利用された、と。
「……まあ闇落ちするのも分かるな。こんだけ嫌われりゃそうなるか」
呟きながら本を閉じ、閉館前までに読み切れなかった本だけを借りて図書館を後にした。
「主人公が来るまであと一ヵ月。……やるだけやってみるか」
とりあえずはできる範囲から始めていこうということで気持ちを切り替え、現状唯一フラットに接してくれる相手であるルームメイトの男子が待つ寮部屋へ帰っていった。
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