第33話 据え膳食わぬは男の恥

「据え膳食わぬは男の恥」とはよく言ったものだ。

 何もかも忘れて、甘美な誘いに身を委ねれば、このまま溶け合うことに正当性すら与えてくれる。


 頭がぼんやりして、心臓の鼓動がやけにうるさい。呼吸も浅くなる。

 大体、涼音が悪いんだ。女の子なのに、そんなに無防備だから。男の部屋に、ひょいひょいと上がってくるから。


 ――さあ、どうしてくれようか。そう思いながら彼女を見据えた瞬間、俺は気づいた。


 彼女の瞳に、涙がたまっていることに。


 その涙の意味はわからなかった。けれど、理性を取り戻すには十分すぎる理由だった。俺は慌てて立ち上がり、距離を取る。


「あっ……」


 涼音が小さく声を漏らす。急速に熱が冷め、胸の奥に罪悪感が広がっていく。

 一時の感情に流されて、好き勝手しようとした自分が情けなくなる。


「ご、ごめん……。こんなことするつもりじゃなかったのに……」


 反射的に謝ると、涼音は俯きがちに口を開いた。


「い、いや……。その、ちょっと驚いただけで……むしろ、嬉しかったというか……」

「……」


 ……いや、それはそれで反応に困るんだが。

 気まずい空気を変えようと、俺は無理やり話題を切り替える。


「ま、まあ……寝るか」

「あ、あい……」

「先、風呂入るか?」

「えっ!?」

「い、いや! そういう意味じゃないからな!」

「ははっ……だ、だよねー……」

「……」

「……」


 ……き、気まずい。この空気のまま夜を明かすのか?


「……じゃ、じゃあ、お先」

「は、はーい……」


 小走りに部屋を出ていく涼音を見送って、俺はどっと疲れを感じた。


 手持ち無沙汰になったので机を片付ける。――いや、正確には、シャワーの音から意識を逸らすために何かしていたかっただけだ。


「……か、燎〜」


 風呂場から声がした。慌てて返す。


「ど、どうしたー?」

「ふ、服ください……」


 あ、そうだった。急に泊まることになったから、寝巻きは俺のパーカーを貸す予定だったんだ。


「今行くー」

「は、はーい」


 タンスからパーカーを取り出す。……これ臭くないよな?

 ていうか、俺が普段着てるやつを涼音が着るのか。妙な気分になりそうになる。


 顔を振って雑念を追い払い、急いで風呂場に持っていった。


「……ここ、置いとくぞー」

「……さ、サンキュー」


 扉越しに聞こえる、くぐもった声。胸がドキドキする。は、早く戻ろう。


 ※※※


「……」


 ……ここから、どんな顔して話せばいいんだ? 風呂上がりの涼音の破壊力に俺は耐えられるのか?


 そんなことを考えながら自室の椅子に腰掛けていると、ガチャッとドアが開いた。


「お先にいただきました……」


 俺は思わず目を見開く。

 湯上がりの頬がほんのり赤く染まったまま、彼女は俺のパーカーをすっぽりと羽織っていた。余った袖で口元を隠す仕草が、妙に艶めかしい。


「燎?」

「……かわいい」

「へあっ!?」


 ……はっ! 危ない。言葉が漏れた。

 同じシャンプーなどを使っているはずなのに、彼女から漂う匂いは甘くて、くらっとする。


 ここは一旦退避だ。


「じ、じゃあ俺も入ってくるわ」


 そそくさと風呂場に向かう。使い慣れた場所のはずなのに、今夜はやけに緊張感が漂っていた。


 湯船に浸かるのは憚られて、結局シャワーを浴びるだけにとどめる。


 三十分近くも悶々とした気分のままシャワーを浴びたあと、部屋に戻ると――ベッドの上で毛布にくるまり、同じように悶々としている涼音がいた。


 その光景を目にして、俺は悟る。

 長い夜が、今始まったのだと。






 ――――――――――――――――――――――

 ここまでご覧いただきありがとうございます!

 長くなりそうなので短いですが、一旦ここで止めました。

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