第2話 好きになった女の子が、父の原稿に夢中だった
いすずから本を借りた日。
部活が終わって家に帰ると父親がアルプス・カーネーギという証拠を探して、お父さんの仕事部屋に入った。
カビの匂いと埃の匂いがした。
父が死んだ5年前と変わらない部屋。
机にはWindowsのパソコンと古いプリンターが置かれている。
父がパチパチとパソコンのキーボードを叩いていたのを今でも覚えている。
ぼくは父親の足元でヒーローのソフビで遊んでいた。
父親は夢中になって小説を書いていた。
喋りかけても返事もしてくれなかったけど、たまに「ハイジ」と言って、ぼくのことを抱きしめたり頭を撫でてくれたりした。
父のことを思い出しながらクローゼットを開けた。
そこには大量に印刷された紙が置かれてあった。
その中からクリップで止められた200ページぐらいの原稿を手に取った。
原稿には血のような赤い文字で手直しが書かれている。
全てのページに血が滲むような赤い文字が大量に書かれていた。
何度も何度も読み直して書き直した痕跡である。
手直し原稿を学校規定の鞄に入れて、ご飯を食べてお風呂に入ってから、部屋でいすずから借りたラノベを読んだ。
その本のタイトルに妹、という文字が入っていて、実際に妹がいるぼくには拒絶反応があったけど、とにかく本を借りたんだし、これを読まないと彼女と付き合えないような気がして……その日のうちに読んだ。
感想は意外といけるじゃん、というものだった。
でも心の中に、言語化できない感情がポツンと生まれたような気がした。
文章は誰でも書ける。
その文章を紡いで物語にしている。
彼女が小説に夢中になっている。
なにか、イヤな黒い感情がポツン。
次の日には読み終わったラノベを持って、いすずの元へ。
「面白かった。次の巻、貸して」
とぼくは言って、借りた本を彼女の机の上に置いた。
純粋に貸してほしいという気持ちと本の話題を終わらせてはいけないと思った。
「持って来てるわけないでしょ? 自分の都合で動くな」
といすずが言う。
たしかに自分の都合で動いている。彼女には事前に次の巻を貸すように伝えていない。
「ごめん」とぼくが謝る。
「それより証拠は持って来たの?」
証拠というのは、ぼくの父がアルプス・カーネーギである証拠のことだろう。
「それは持って来たよ」
とぼくは言って、自分の席に戻って鞄の中から手直し原稿を取り出す。
捨てるほど大量にあった手直し原稿の一部だった。渡したら返してもらえばいい、みたいな軽い気持ちで持って来ていた。
「コレ」
とぼくは言って、宮崎いすずに父親の手直し原稿を渡した。
彼女がダイヤモンドを受け取るように原稿を受け取った。
なにか胸の中にザワザワするモノがあった。
いすずは赤ちゃんの寝かしつけのように原稿を優しく机の上に置き、「手直し原稿ね」と呟いた。
そして彼女はページを巡った。
彼女の指が文字をなぞる。
「手直しされる前って、こんな文章だったんだ」といすずが呟いた。
「他にどんもの読んでるの?」
とぼくは尋ねた。
ぼくの質問は亜空間に飲み込まれたみたいに彼女の耳には入らなかった。
真剣に原稿を読んでいる宮崎いすずをぼくは見つめた。
胸がザワザワする。
それは恋とか、愛とかじゃなくて、焦りからだった。
奪われる、と思った。
何を奪われるのかはわからない。
父親の継承者はぼくじゃなくて、彼女のような気がした。
そもそも父親の継承者ってなんだよ? 昨日まで本を読んだこともなかったのに。
比喩表現とかそんな立派なモノじゃないけど、勇者の剣を抜かれるのを目の前で指を咥えて見ているような、そんな感覚があった。
それに父親にも嫉妬した。
本を読んだ時に感じた、黒い感情がドロッと溢れている。
お父さんがいすずを夢中にさせている。
小説なんて一行も書いたこともないのに、自分が作ったモノじゃなくて、父親が作ったモノにいすずが夢中になっている。
宮崎いすずは原稿を丁寧に熟読していく。
その姿を見て負けたように思えた。
父に負けたように思えた。
それにいすずにも大切なモノを奪われたような気がした。
なにかを無くしたような気分で、ぼくは席に戻って下唇を噛み締めた。
次の日。
「コレ」といすずが言って、父親の手直し原稿を返してくれた。
「えっ、返してくれるの?」
とぼくは驚く。
「こんな大切なモノ貰えないわよ。ちゃんとコピーも取ったし」と彼女が言う。
「常識人じゃん」
「私のことをどう思ってるのよ?」
「……ジャイアンだと思っていたから」
いすずに頭を叩かれた。
「ごめん」とぼくは謝り、いすずから返してもらった原稿に触れた。
彼女に貸すまではただの紙だと思っていたのに、それはダイヤモンドのように輝いて見えた。
「それと、コレ」
と彼女は言って、タイトルに妹がつくラノベの2巻から6巻までを貸してくれた。
「こんなに貸してくれるの?」
「お礼よ。それに私の本じゃないし」
といすずが言う。
私の本じゃない、っていうのは聞かなかったことにしよう。
「どうして父親の本も読まないの?」
といすずが尋ねた。
ぼくは原稿を見つめた。
「ホラーだから。優しいお父さんの怖い想像を見たくないから」
「はぁ?」
といすずがナイフを突き刺すような勢いでぼくを睨む。
えっ? ぼくの答えが、そんなに気に食わなかったの?
「アルカネを舐めてるの? 読んだこともないくせに想像で拒絶するなよバカ。ホラーはジャンルであって思想じゃねぇーよ。ちゃんとアルカネは愛を書いている作家だわバカ」
めっちゃキレてるじゃん。
愛を書いてる、ってなんだよ?
「……ホラーなのに?」
とぼくが尋ねるといすずはぼくの頬を思いっきり抓った。
「読めウンコ野郎」
と彼女が言う。
ホラーはジャンルで思想じゃない。お父さんはどんなモノを書いてたんだろう? いすずはお父さんの何に夢中になっていたんだろう?
その日の晩に父親の部屋の本棚に置いてあったアルプス・カーネーギの本を読んだ。
化け物がはびこる世界で主人公が息子と旅する物語だった。
まだ妹が産まれる前に書かれた作品である。
父親と息子の2人旅が描かれていた。
主人公はどんなことがあっても息子を守っていた。
恐怖から、脅威から、悲しみや苦しみから、必死に息子を守っていた。
たしかにホラーだった。だけど中身は大切な者を守る物語だった。お父さんが書いた主人公は、どんな世界になっても息子を守り続けていた。そこには父から子への愛が描かれていた。お父さんは愛を書いていたんだ。
本を読んでいる最中に、ぼくは父親に抱っこされたことや、頭を撫でられていたことや、「愛してる」って言われたことを思い出して、涙がボロボロと溢れて止まらなかった。
父親はホラーというジャンルで、世界で一番優しい小説を書いていたのだ。
父親は妄想の世界でぼくのことを守ってくれていたのだ。
そうか、とぼくは思った。
愛を書いているから、いすずは夢中でアルプス・カーネーギーの原稿を読んでいたのか。
ぼくもお父さんみたいに愛を書くことができるんだろうか?
いや、ぼくの黒くてドロッとした感情は、そんな生易しいことを考えていない。
いすずが夢中で父が書いた本を読んでいる。
それが嫌だった。
なぜなら、それがぼくの書いた本じゃないから。
ぼくが考えた物語じゃないから。
それからはナニカに取り憑かれたように必死で本を読んだ。
寝ても覚めても小説を読み続けた。父親が書いた本も制覇した。いすずが貸してくれた本も制覇した。
彼女に負けたくなくて、自分でも古本屋でラノベを買って、面白かった物を彼女に貸すようにもなった。
お父さんが書いたホラーは好きだったけど、ホラーよりラノベの方がぼくの好みだった。
休み時間も本を読んだ。部活が終わって家に帰ってご飯を食べながらも本を読んだ。
ぼくが休み時間に本を読んでいると、いすずが近づいて来た。
「相当、ラノベにはまってんじゃん」
と彼女が言った。
ぼくは本から顔を上げていすずを見て、ポクリと頷く。
「ラノベ作家になったら付き合ってあげてもいいよ」
と彼女が言う。
「えっ?」
ぼくは聞き直して彼女を見た。
なんて言った?
ツキアウ?
彼女の言葉を理解した時に体がマグマに落とされて消滅するぐらいに一気に熱くなったのがわかった。
「君、私の事好きでしょ?」
ぼくは何も言わなかった。
ただ鼻くそを指先でこねるようにモジモジしているだけだった。
バレていたんだ。
いや、バレていたんじゃない。
彼女は生まれた時から自分の事が好きな男としか出会っていないのだ。
いすずの事だから、どういう心理で言ったのかはわからない。
もしかしたら、ただぼくの反応を見て楽しむために言ったのかもしれないし、ラノベ作家になるなんて無理だから私のことは諦めろ、という意味で言ったのかもしれない。
部活を終えて、クタクタな体で、とにかくぼくは書いた。
そして書いて初めてわかった。
黒くてドロッとした感情。
それは『ぼくなら世界一面白い物語を作れるのに』というエゴだ。
ぼくなら、もっともっといすずを夢中にさせることができるのに。
黒くてドロッとしたモノに火がつく。
この感情が燃料になるのか。
エゴを燃やして書きまくった。
書きまくるんだジョー。燃え尽きたよ真っ白にな状態になるまで毎日書いて書いて書いた。友達が遊んでいる時も書いていたし、友達がぼーっとしている時も書いていたし、なんだったら勉強している時も書いていた。
書いて書いて成長するしかなかった。
彼女と付き合うために。
いや、違う。彼女と付き合うより、ぼくにはしたいことがある。
それは『世界で一番自分が面白い』と証明したいのだ。
そして宮崎いすずが3年の先輩と付き合っていることを知った。
ぼくが所属していた野球部のキャプテンだった。
どうやら彼女はラノベを先輩から借りて、それをぼくに貸していたらしい。
宮崎いすずと先輩が付き合っていた事があまりにもショックで、車に引かれた肉まんのように心がエグれた。
もしかしてあんな事やこんな事もしているのか?
それなのに、平然と、ぼくにラノベを貸していたのか?
アイツはどういう心理でぼくにラノベを貸してたんだよ?
しかも先輩の又貸し。
ラノベ作家になったら付き合ってくれる、って言ったのに。
本当に信じていたのに。
いや、正直に言います。絶対にぼくの事好きじゃん、と思っていた。
ラノベ作家になったら付き合ってあげる、という言葉が、「タッちゃん、私を甲子園に連れてって」ぐらいのセリフに聞こえていた。
甲子園に連れて行ってやるぞ、って気持ちで頑張っていた。
全てが勘違いだった。
野球部の先輩はラノベを読むタイプには見えなかった。
髪の毛は坊主だったけど、サイドにギザギザ模様があって、部活以外の時はピアスも付けているような人だった。
何代目かは知らないけどジェーソー◯ブラザーズを聞いていそうなタイプだったし、ラノベどころか本なんて焚き火の時にしか使わないっしょ、みたいな人だと思っていた。
そんな宮崎いすずの彼氏に部活が終わった後で、公園に呼び出された。
もう足が土を掘り起こすほど震えていた。
いくら水を飲んでも喉が乾いていた。しかも水の飲み過ぎでオシッコもしたい。
先輩は頭をボリボリと掻きながら現れ、ぼくの目の前に立った。
そしてぼくの事を殺しそうな目で睨んだ。
野球部の先輩だから挨拶はちゃんとしなくちゃ、っと思って「お疲れ様です」と元気百パーセントで言ったけど返事はない。
先輩に睨まれ続ける。
隣町の宴会が聞こえそうな沈黙の後に、先輩が口を開いた。
「なんで呼び出されたかわかってるか?」
先輩が言った。
はい、と答えるしかできない威圧感。
「それじゃあ、なんで呼び出されたか答えろ」
「ラノベ、面白かったです」
ぼくは、本当に、思ったことを口にしていた。
もしかしたら「ラノベ面白いよな? あの本読んだ?」みたいな会話になるんじゃないだろうか、と甘い期待を抱いだけど、そんな事はなかった。
言葉が終わる前に先輩の拳がぼくの頬に入った。
地面に倒れる。
「いすずに近づくな。勘違いしてんじゃねぇーよ」
と先輩が言った。
ボコボコにされて、野球部も辞めて、宮崎いすずのことなんて1ミリも好きじゃなくなったけど、ぼくは父親みたいに誰かを夢中にさせるラノベ作家になりたかった。
父親みたいに、というならホラー作家を目指すべきじゃないだろうか?
ラノベ作家を目指すのは、もしかしたら、まだいすずのことが好きなのかもしれない。
いや、きっと初めて読んだ本がラノベで、ホラーよりもラノベの方を好きなだけ。
アイツは切っ掛けにしか過ぎない。
あのクソ女は絶対に許さねぇ。
それに自分こそが世界で一番面白い、を証明するために書くのだ。色んな人を夢中にさせるのだ。
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