第4話 パラレル4 無貌(むぼう)

# 無貌(むぼう)


私の名前は紗夜。かつては。


今の私に名前があるかどうかも分からない。名乗る口もないのだから。


すべては、あの日から始まった。婚約者の命を奪い、血に染まった手で逃げ出した日から。


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「これで最後にします」


私は鏡の前で微笑んだ。何度目の整形だろう。数えるのをやめてしまった。


鏡に映る女性は美しかった。切れ長の目、高い鼻筋、上品な唇。でも、それはもう私ではなかった。


「紗夜さん、今回の仕上がりにはご満足いただけましたか?」


医師の声に、私は小さく頷いた。彼は私の本当の名前を知らない。紗夜というのも、この顔を手に入れるときに使った偽名に過ぎない。


「ええ、素晴らしいわ」


そう言いながら、私は思った。これで何人目の「私」だろう。


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指名手配犯として生きるということは、常に誰かに追われているという感覚と共に生きることだ。


最初の整形は、単純な必要性からだった。警察の写真から逃れるため。


二度目は、偶然すれ違った男性が私を見つめたとき。彼は何も言わなかったが、その目が「知っている」と語っているように感じた。


三度目は、コンビニの店員が私のIDカードを長く見すぎたとき。


そして四度目、五度目、六度目...


私は顔を変え続けた。美人に、地味な女性に、年上に見えるように、若く見えるように。


それでも、誰かの視線を感じるたびに、また別の「顔」を求めて地下クリニックを探し回った。


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東京の地下鉄構内で、私はそのチラシを見つけた。


「究極の匿名性。完全匿名美容。初回無料。」


小さな文字で書かれた住所は、都内の裏通りを指していた。


理性は警告していた。怪しすぎる。でも、もはや私には選択肢がなかった。警察の追及は厳しさを増し、資金も底をついていた。


そして何より、私は疲れていた。次々と顔を捨て続けることに。


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「紗夜さん、ようこそ」


白い部屋に入ると、黒い服を着た医師が迎えてくれた。その顔は奇妙なほど特徴がなく、記憶に残らない。


「あなたの悩みは理解しています」と医師は言った。「目鼻口は、個人を特定する情報です。あなたを苦しめているのはそれらです」


私は黙って頷いた。


「ならば、それをすべて消してしまいましょう」


医師は特殊な注射器を取り出した。透明な液体が光に反射して、虹色に輝いていた。


「これは最新の技術です。顔の特徴を認識不能にします。誰もあなたを見つけられなくなる」


恐怖と期待が入り混じった感情で、私は処置台に横たわった。


「痛みはありません。ただ、少し...特殊な感覚があるかもしれません」


針が肌を貫いた瞬間、世界が歪み始めた。


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目が霞んだ。

鼻が、感覚を失っていく。

唇が、自分のものじゃないように震え――そして、静かに消えた。


私は叫びたかった。でも、声を出す口がなかった。


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気がつくと、私は街の中にいた。どうやってここに来たのか覚えていない。


人々が行き交う中、私はただ立ちすくんでいた。誰かが私に気づくのではないかという恐怖で。


しかし、誰も私を見なかった。


店の窓ガラスに映る自分の姿を見て、私は理解した。


そこには、顔のない女性が立っていた。白く滑らかな面だけがあり、目も鼻も口もない。


完璧な匿名性。完璧な隠れ場所。


最初は安心感があった。もう誰にも追われることはない。誰も私を認識できないのだから。


しかし、すぐに恐怖が押し寄せてきた。


食べることができない。話すことができない。表情で感情を表すこともできない。


私は世界から切り離されていた。


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夜になると、街の窓ガラスに映る自分の姿を見つめるようになった。


そんなある夜、私は気づいた。私の隣にも、顔のない人影が立っていることに。


そして、その奇妙な影は一人ではなかった。遠くに、また一人、さらに奥に、また一人...


彼らも私と同じなのだ。顔を失った者たち。逃げ切ったけれど、すべてを失った者たち。


私たちは互いを認識できた。同じ運命を共有する者同士として。


言葉なく、私たちは集まるようになった。夜の街角で、人々の視線から逃れた場所で。


そして私は理解した。これが私たちの新しい世界なのだと。


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ある夜、私たちの群れに新しい仲間が加わった。その動きに見覚えがあった。


彼女も、かつては誰かから逃げていたのだろう。そして、私と同じ選択をしたのだ。


私は彼女に近づき、手を差し伸べた。


彼女は私の手を取った。その感触だけが、私たちの唯一のコミュニケーション手段だった。


温かい。それだけで十分だった。


---


今では、私たちの数は増え続けている。


世界には、自分の顔を手放す選択をする人が、思いのほか多いのだ。


私たちは互いを支え合い、新しい生き方を見つけた。顔がなくても、心はある。


そして時々、夜の静けさの中で、私は思う。


これは本当に「逃げ切った」と言えるのだろうか?


でも、少なくとも私は一人ではない。


この無貌の世界で、私たちは共に生きている。


それが、私の選んだ道の終着点。


そして、新たな始まり。

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